精選版 日本国語大辞典 「武王」の意味・読み・例文・類語
ぶ‐おう ‥ワウ【武王】
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生没年不詳
周の文王西伯(せいはく)の太子。名は発(はつ)。周王となって殷(いん)を滅ぼす。戦車300,勇士3000,武装兵4万5000を率いて盟津(めいしん)で黄河を渡り,800の諸侯と合流し,殷都郊外の牧野(ぼくや)で殷軍70万に挑む。殷軍は戦意なく降り,紂王(ちゅうおう)は自殺する。牧野の戦いの翌年の殷滅亡の年代は,前1045年,前1027年,前1024年の諸説がある。戦後,太公望(たいこうぼう)こと呂尚(りょしょう)は斉,弟の周公旦(しゅうこうたん)は魯(ろ),召公奭(しょうこうせき)は燕など各地に封建された。殷を滅ぼしたものの,周の政治体制が確立するのは次の成王と周公旦の時代であった。
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紀元前11世紀ごろの人。中国、周王朝の創始者。名は発。父は文王。父の志を継いで殷(いん)を討ち、河南省の牧野(ぼくや)の戦いで紂王(ちゅうおう)の大軍を破り、殷を滅ぼしたのち、陝西(せんせい)省西安付近に新都鎬京(こうけい)をつくり周王朝を建てた。武王は弟の周公旦(たん)や召公奭(せき)(実際は殷代以来の大族召氏の首長ともいう)、あるいは羌姓(きょうせい)族の首長呂尚(りょしょう)(太公望(たいこうぼう))の助けを得て国政を行い、また諸侯を封建した。とくに殷の故地には紂王の子の武庚禄父(ぶこうろくほ)を封じて殷の遺民を鎮撫(ちんぶ)し、さらに付近に弟の管叔(かんしゅく)、蔡叔(さいしゅく)らを配して、その監視にあたらせた。しかし、武王は在位3年にして死んだので、たちまち武庚や管、蔡らの大反乱が生じたという。武王は文王とともに聖王とされ、「詩」「書」や青銅器銘文にもその功業がたたえられており、その殷の討伐も放伐物語として正統化された。
[宇都木章]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…中国,周の武王の都。武王は殷を滅ぼすと,父文王の都の鄷(ほう)から鎬へ遷都した。…
…《史記》によると,尭帝の農官であった后稷(こうしよく)が始祖とされる。后稷の15世後の子孫の武王が,前1050年ころ殷王帝辛(紂王)を牧野(河南省淇県)で破り,殷を倒して,王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。…
…一度は殷の紂(ちゆう)王の朝廷を訪れたが,紂王に見切りをつけて,西伯であった周の文王をたよってそのもとに身をおちつけた。文王が死に,武王が紂王討伐の軍を起こそうとしたとき,2人は武王の馬を引きとどめて,父の死後すぐ兵を起こすこと,また臣下でありながら主君を討伐することの不当をなじる。武王が殷を滅ぼし天下が周のものとなると,2人は周の粟(ぞく)を食べることを恥じ,首陽山(山西省永済県)に入って薇(わらび)をとって食料としたがやがて餓死した。…
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