七世紀中葉以降、律令制の成立に伴って設置され、当初は東山道、のち東海道に属した。北は上野国、北東の一部は下野国、東は下総国、西から南にかけては信濃国・甲斐国・相模国に接し、南東は東京湾に臨む。古代・中世においては国境に大きな変化はなかったとみられるが、中世末から近世初期にかけて上野国・下総国との間で異動があり、下総国から編入された地域は新たに武蔵国葛飾郡となった(一部は埼玉郡に編入)。現在はおよそ北半分は埼玉県、南半分は東京都および神奈川県に属する。以下に述べる武蔵国は主として埼玉県に属する部分についてである。なお「和名抄」東急本は国名に「牟佐之」の訓を付し、「古事記」には「无邪志」、「万葉集」には「牟射志」と表記されている。
律令体制成立以前に当地域を支配していた豪族として「国造本紀」は无邪志(ムサシ)国造・胸刺(ムサシ・ムナサシ)国造・知々夫(チチブ)国造を伝えている。これらのうち无邪志国造が五世紀末から六世紀後半にかけて一〇〇メートル級の大型古墳が出現した
埼玉古墳群に属し、五世紀末の築造と推定される
「日本書紀」安閑天皇元年条に、武蔵国造の争乱記事がある。
七世紀中葉以降、律令制の成立に伴って設置され、当初は東山道、のち東海道に属した。北は上野国、北東の一部は下野国、東は下総国、西から南にかけては信濃国・甲斐国・相模国に接し、南東は東京湾に臨む。古代・中世においては国境に大きな変化はなかったとみられるが、中世末から近世初期にかけて上野国・下総国との間で移動があり、下総国から編入された地域は新たに武蔵国葛飾郡となった(一部は埼玉郡に編入)。現在はおよそ南部が東京都、南端部が神奈川県、北半分は埼玉県に属する。以下に述べる武蔵国は主として東京都に属する部分についてである。なお古くは无邪志と書き、「和名抄」東急本では「牟佐之」と訓を付している。語源について「古事記伝」では駿河・相模・武蔵の地の総称として
「国造本紀」に「无邪志国造 志賀高穴穂朝御世、出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫兄多毛比命、定賜国造
、胸刺国造 岐閇国造祖兄多毛比命児伊狭知直、定
賜国造
、知々夫国造 瑞籬朝御世、八意思金命十世孫知知夫彦命、定
賜国造
、拝
祠大神
」とあり、成務天皇ないし崇神天皇朝の頃无邪志・胸刺・知々夫の国造が置かれるようになったという。知々夫国造は現埼玉県秩父地方を支配したと考えられ、无邪志国造を北武蔵埼玉県方面、胸刺国造を南武蔵多摩方面の支配者と解すことがあるが、无邪志・胸刺両国造は系譜を異にするものの重複錯簡の可能性が強く、秩父方面を除く武蔵地域に置かれたのは无邪志国造のみであったとみてよい。兄多毛比命は高橋氏文に「无邪志国造上祖大多毛比」としてみえ、東国を巡守する景行天皇のために膾や煮焼物を料理して褒賞にあずかっている。崇神朝や成務朝の頃国造制が行われるようになっていたとは直ちには考えがたいが、のちの国造制に通じるような朝廷による支配制度が形成されつつあったことは認めてよいであろう。
倭五王の一人である雄略天皇朝になると現埼玉県
南は東京湾に面し、東は下総国、北は上野国、西は
「日本書紀」によれば安閑天皇元年、それまで多年笠原直使主と武蔵国造の地位を争っていた同族の小杵が、上毛野君小熊と結んで使主を殺害しようとしたため、使主は逃れて上京し朝廷に訴えた。そこで朝廷は使主を国造とし小杵を誅した。使主は大いに喜び、「横渟・橘花・多氷・倉樔」の四ヵ所の屯倉を朝廷に献上した。うち「橘花」はのち橘樹郡、「倉樔」はのち久良郡となったとされる。この記事を信ずるならば六世紀初め、現神奈川県下に含まれるもとの武蔵国の橘樹・都筑・久良三郡の大半が武蔵国造家の、おそらくは小杵の所領から朝廷の直轄領とされたことになる。「国造本紀」にはのちの武蔵国の領域にあたる地域の国造として無邪志国造・胸刺国造・知々夫国造の三つが置かれたとしている。知々夫国造はのちの秩父郡(現埼玉県)を中心とした勢力であろうが、無邪志国造と胸刺国造の併立は「日本書紀」の記事にみられる武蔵国造をめぐる対立を反映した所伝であろう。国名の初見は「日本書紀」天武天皇一三年五月一四日条で、「化来る百済の僧尼及び俗、男女并て二十三人、皆武蔵国に安置む」とみえる。律令体制の確立する過程で、従来の国造支配の領域を再編成して武蔵国がつくられていたのであろう。なお「和名抄」東急本では国名に「牟佐之」の訓を付し、「古事記」には「无邪志」、「万葉集」には「牟射志」とみえ、古くは「むざし」とよばれたらしいとする説もある。
武蔵国は大国で、「和名抄」によれば久良郡には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
律令(りつりょう)制により設けられた国で、東京都(島を除く)、神奈川県川崎市・横浜市(一部)および埼玉県の大部分を含む地域。武州(ぶしゅう)ともいう。東は下総(しもうさ)、南東から南西へ東京湾と相模(さがみ)国、西は関東山地が連なって甲斐(かい)に接し、北は上野(こうずけ)・下野(しもつけ)に対している。中央部は関東ローム層に覆われた広大な武蔵野の平野で、北西の山地から南東に向かって流れる利根(とね)川、荒川、多摩川とともに、この国の歴史と文化を育てる舞台となった。
古くは牟佐之と書き、「むざし」と読んだらしい。語源は、もと見狭下国(むさしもくに)と称していたのが訛(なま)ったとか、総下(ふさしも)国が転じたとするなど諸説ある。大化改新の国郡制施行により、前代の牟邪志(むさし)、胸刺(むねさし)、知々夫(ちちふ)の三国造(くにのみやつこ)の領域を武蔵国に統一した。『延喜式(えんぎしき)』では大国とし、京までの行程を上り29日、下り15日とし、初め東山道(とうさんどう)に属していたが、771年(宝亀2)東海道に切り替えられた。管下は豊島(としま)、足立(あだち)、新座(にいくら)、荏原(えはら)、埼玉(さきたま)、入間(いるま)、高麗(こま)、比企(ひき)、横見、大里、男衾(おぶすま)、幡羅(はら)、榛沢(はんさわ)、児玉(こだま)、賀美(かみ)、那珂(なか)、秩父(ちちぶ)、多麻(たま)、橘樹(たちばな)、都筑(つつき)、久良(くらき)の21郡に分けられたが、中世には下総国葛飾(かつしか)郡の一部を編入し、多麻郡が多東・多西の2郡になるなど東西の分郷があり、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』『曽我(そが)物語』では24郡と伝える。国府と国分寺はともに多麻郡に置かれ(現東京都府中市・国分寺市)、江戸が開かれるまで政治、経済、文化の中心をなした。
8世紀には盛んに朝鮮半島からの渡来人を移住させて開発にあたらせ、高麗(こま)、新羅(しらぎ)、新倉(にいくら)、狛江(こまえ)などの地名ができた。荒川上流には条里制が敷かれ、9世紀には田地3万5574町歩が開かれ、人口は13万9000人と推計されている。承平(じょうへい)年間(931~938)の平将門(まさかど)の乱は、武蔵権守(ごんのかみ)興世王(おきよのおう)の扇動により起こり、国府も将門の勢力下に置かれた。また秩父牧、由比(ゆい)牧、石川牧などの勅旨(ちょくし)牧も多く、毎年馬50疋(ぴき)を朝廷に献上した。律令(りつりょう)制が緩むとともに横山荘(しょう)、小山田荘、稲毛(いなげ)荘が成立し、それと相まって武蔵七党や坂東八平氏(ばんどうはちへいし)ら、武蔵各地に基盤をもった武士集団が成長し、中世武家社会の中心となった。
鎌倉幕府が開かれると、東北・北国地方と連絡のため、武蔵台地を南北に縦断する鎌倉街道が開かれ、「いざ鎌倉」の武士が盛んに往来した。南北朝時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)が守護となり、ついで高(こう)、上杉、仁木(にき)、畠山(はたけやま)氏を経て、室町時代には関東管領(かんれい)上杉氏の支配下に置かれた。1457年(長禄1)太田道灌(どうかん)が江戸城を築いて威を張ったが、戦国時代には相模国小田原を本拠とする後北条(ごほうじょう)氏が進出、越後(えちご)上杉氏、甲斐武田氏らに対する防衛上、各地に支城を置いて一族や重臣を配した。
1590年(天正18)後北条氏にかわって徳川家康が関東に入部し、やがて征夷大将軍に任ぜられて江戸に開幕、以後15代にわたって約300年の徳川時代が続くが、武蔵は終始その権力基盤であった。直轄領(天領)を多くとり、旗本知行所(ちぎょうしょ)を集中させたほか、忍(おし)、川越(かわごえ)、岩槻(いわつき)、岡部、金沢(六浦(むつうら))、世田谷(せたがや)に譜代(ふだい)大名を配し、八王子に千人同心を常駐させるなど、堅固な支配体制を敷いた。また江戸を中心に五街道や脇(わき)往還を設け、宿駅制を整えたので、諸大名の参勤交代と相まって宿場町が栄え、やがて農村地帯にも商業が浸透していく要因となった。18世紀以後、尾張(おわり)徳川家の鷹場(たかば)であった武蔵野が開拓され、82の新田村が成立したが、武州農村は100万の人口を抱えた江戸の後背地としては、全体に商品生産が進展しなかった。近世の名産品に、青梅縞(おうめじま)、秩父絹、品川海苔(のり)、練馬(ねりま)大根、多摩川梨(なし)などがあげられる。
1866年(慶応2)の武州世直し一揆(いっき)は、武蔵の北西部一帯と近国にも及び、幕府の存立を足元から揺るがした。1868年(明治1)武蔵知県事、ついで東京府を置き、品川県、韮山(にらやま)県、小菅(こすげ)県などを設置・統廃合して、93年ほぼ現在の東京都、埼玉県、神奈川県(一部)となった。東京と近郊の発展は、人口密度のもっとも高い地域を現出したが、同時にそれは関東大震災や太平洋戦争の空襲による被害を大きいものとした。しかし戦後も首都および首都圏として経済・文化の集中は進み、国全体からの偏在ぶりが問題となっている。
[北原 進]
『『新編武蔵風土記稿』全12巻(1981・雄山閣出版)』▽『植田孟縉著『武蔵名勝図会』(1975・慶友社)』▽『斎藤幸雄他著『江戸名所図会』(角川文庫)』▽『竹内理三他編『角川日本地名大辞典13 東京都』『角川日本地名大辞典11 埼玉県』(1978、1980・角川書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東海道の国。現在の埼玉県・東京都と神奈川県東部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では多磨(たば)・都筑(つづき)・久良(くらき)・橘樹(たちばな)・荏原(えばら)・豊島・足立・新座(にいくら)・入間(いるま)・高麗(こま)・比企(ひき)・横見・埼玉・大里・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はんざわ)・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡からなる。国府・国分寺・国分尼寺は多磨郡(現,東京都府中市,国分寺市)におかれた。一宮は氷川神社(現,埼玉県さいたま市)。「和名抄」所載田数は3万5574町余。「延喜式」では調庸は絁(あしぎぬ)・布・帛で,中男作物として麻・木綿・紅花・茜などを定める。713年(和銅6)武蔵の字をあてた。高麗氏などの渡来人により開発が進められ,古くは東山道に属したが,771年(宝亀2)東海道に編入された。勅旨牧をはじめとする牧が多く存在し,のちに武蔵七党とよばれる武士団が勃興した。鎌倉時代には北条氏が守護となり,室町時代には鎌倉公方,のち上杉氏が支配した。戦国期には後北条氏の所領となった。徳川家康は江戸に幕府を開いた。そのためほとんどが幕領と旗本領。1868年(明治元)7月江戸を東京と改称。71年の廃藩置県をへて東京府・埼玉県に統合,一部が神奈川県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…全265巻。武蔵国の総国図説から建置沿革,山川,名所,産物,芸文と各郡村里に分かれている。文書や記録も収録され,村の地勢,領主,小名,寺社,山川や物産等の記述は詳細で正確である。…
※「武蔵国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新