殺人や現住建造物等放火といった重大犯罪に対する刑罰として定められている。死刑の適用基準は最高裁判決が過去に示しており、事件の動機や犯行態様、被害者数、遺族感情などを検討した上で「やむを得ない場合」とされる。確定すると、法相の命令により絞首刑で執行される。最高裁は1955年、絞首刑を「残虐とする理由は認められない」として合憲と判断した。法務省によると、21日現在で
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犯罪者の生命を奪う刑罰をいう。生命刑ともいわれる。日本の現行法は、刑法典(明治40年法律45号)のなかでは、内乱罪(首謀者についてのみ、77条1項1号)、外患誘致罪(81条)、外患援助罪(82条)、現住建造物放火罪(108条)、激発物破裂罪(117条1項前段)、現住建造物浸害罪(119条)、列車転覆致死罪(126条3項)、往来危険罪の結果的加重犯(127条)、水道毒物混入致死罪(146条)、殺人罪(199条)、強盗致死罪(240条後段)、強盗・強制性交等致死罪(241条3項)の12種の犯罪につき、また、特別法のなかでは、爆発物取締罰則(明治17年太政官(だじょうかん)布告32号)による爆発物使用罪(1条)、航空機の強取等の処罰に関する法律(昭和45年法律第68号)による航空機強取等致死罪(2条)、人質による強要行為等の処罰に関する法律(昭和53年法律第48号)による人質殺害罪(4条1項)、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(平成11年法律第136号)による組織的な殺人罪(3条1項7号)、海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律(平成21年法律第55号)による致死行為(4条1項)、などにつき、死刑を選択できる規定が設けられている。ただ、外患誘致罪を除いては、死刑以外の懲役などの刑罰も含まれているので、これらの罪を犯した場合つねに死刑が言い渡されるとは限らない。これらの罪を犯した者のうち、とくに犯情の重い者に対してだけ言い渡されるのである。また、罪を犯したとき18歳未満の者に対しては、死刑にあたると判断されたときでも、つねに無期刑が言い渡されることになっている(少年法51条)。
死刑そのもの、あるいは現在日本が採用している絞首刑が、残虐な刑罰を禁止する憲法第36条の規定に違反するのではないかということが昭和20年代から昭和30年代にかけて争われたことがあった。現在でもそのような主張をする者があるが、最高裁判所は、数次の判決によって、死刑およびその執行方法としての絞首刑は合憲である旨を明らかにしてきた。その条文上の根拠としては、憲法第31条があげられている。同条は「何人(なんぴと)も、法律の定める手続によらなければ、その生命若(も)しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定しているので、それは裏面から死刑を肯定したものと解するのである。そして、いったん死刑を肯定する以上、現在採用している絞首刑の方法は、執行中の苦痛の程度において、また死体損壊の程度において、他の執行方法よりとくに残虐とはいえない、とされた。
死刑の執行数として、もっとも多い犯罪の種類は強盗殺人を含む強盗致死であり、次が一般の殺人となっている。そのほか、言い渡される頻度が比較的高いのは、強盗・強制性交等致死、爆発物取締罰則違反、現住建造物放火である。
[西原春夫]
死刑の執行方法は国によって異なり、絞首(アメリカの一部の州)、電気殺、ガス殺(アメリカの一部の州)などが、現在海外で行われているが、日本では第二次世界大戦終了前の軍刑法による死刑(銃殺)を除き、1880年の旧刑法(明治13年太政官布告36号、明治15年施行)以来一貫して絞首刑の方法だけを用いてきた。
死刑は、判決確定ののちこれを執行するのであるが、それまでの間、死刑の言渡しを受けた者は刑事施設に拘置される(刑法11条2項)。死刑は、事柄が個人の重大な利益に関するものであるから、慎重を期し、とくに法務大臣の命令によって執行するたてまえとなっている。この命令は、判決確定の日から6か月以内にしなければならないとされているが、この期間には、上訴権回復もしくは再審の請求、非常上告または恩赦の出願もしくは申し出がなされ、その手続が終了するまでの期間、および共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、算入されない(刑事訴訟法475条)。したがって、死刑の言渡しを受けた者が数年間もその執行を受けないということも、まれではない。しかし、いったん法務大臣が死刑の執行を命令したときは、5日以内にこれをしなければならないものとされている(同法476条)。ただし、日曜日、土曜日、国民の祝日に関する法律に規定する休日、1月2日、1月3日および12月29日から12月31日までの日には執行は行わない(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条2項)。また、死刑の言渡しを受けた者が心神喪失の状態にあり、または妊娠しているときは、法務大臣の命令によってその執行を停止し、その状態が解消してから改めて命令を待って執行することになっている(刑事訴訟法479条)。死刑は、刑事施設内の刑場で、検察官、検察事務官、刑事施設の長またはその代理者の立会いのうえ執行される(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律178条1項、刑事訴訟法477条1項)。
[西原春夫]
日本上代(日本法制史で冠位十二階制定の推古(すいこ)天皇11年=西暦603以前を指す)の死刑制度がどのようなものであったかは、あまり明らかでないが、その末期(500ころ)には、そのおもなものは絞首、斬首(ざんしゅ)、焚刑(ふんけい)の3種に分かれ、そのほか特殊な死刑として、罪人の死体を八つに切り、8国に分けて梟首(きょうしゅ)せしめる散梟(ちらしくさし)などがあったようである。下って上世(603~967)になると、中国から合理的な国家制度が移入され、刑罰制度も完備したが、当時の死刑は斬首と絞首とから成り立っていた。しかし、上世の後期、平安時代には仏教の影響などから刑を軽くする傾向が生まれ、とくに811年(弘仁2)以降、死刑の判決があっても朝廷が別勅をもって一等を減じ、遠流(おんる)に処するという慣例が生じ、1156年(保元1)までの実に345年の間、死刑の執行が行われなかったという事実が伝えられている。これなどは、世界の刑罰史上特筆すべき事実といわなければならないであろう。
鎌倉時代になると、律令(りつりょう)時代の刑種がさらに整理され、死刑も斬首に限定されるようになったが、晒首(さらしくび)がこれに付加される場合も生じた。下って室町時代になると、切腹が武士に対する死刑の一種として登場することとなった。戦国時代には刑罰制度は、中世の特色として、各地方でやや異なった発達をみたが、一般に当時の殺伐な風潮を反映して、峻烈(しゅんれつ)、残酷なものであった。死刑の執行方法も同様で、磔(はりつけ)、逆さ磔、串刺(くしざし)、鋸挽(のこぎりびき)、牛裂(うしざき)、車裂(くるまざき)、火焙(ひあぶり)、釜茹(かまゆで)、簀巻(すまき)など、多くの種類の残酷な方法が用いられた。このような傾向は、江戸幕府成立後もしばらく続き、とくにキリシタンを弾圧する手段としてとった死刑の方法は残虐を極めたが、それも中期以降はしだいに緩和され、とくに8代将軍吉宗(よしむね)によって刑罰制度に大改革が加えられてからは、多様であった死刑の種類もかなり整理された。ただ、その適用範囲はかなり広く、窃盗やその手引きに対してまで死刑が科せられるような状態であった。江戸時代の死刑の執行方法としては、磔、獄門、火罪、切腹、斬罪(後二者は武士に対するもの)、死罪(死屍(しし)は様斬(ためしぎり)にされ、家屋敷、家財は没収)、下手人(利欲にかかわらない殺人にだけ科す斬首刑)などが認められた。鋸挽も制度としては存在したが、現実にはあまり用いられなかったようである。
明治維新後最初に制定された刑法である仮刑律は、死刑を刎(ふん)法(斬首)と斬法(けさ斬り)とに分けたが、特別の場合には磔、火刑も用いられた。1870年(明治3)の新律綱領と1873年の改定律例は、もはや磔、火刑を認めず、死刑を絞首と斬首に限ったが、なお梟首の執行を認めていた。このような明治初年の死刑制度が絞首一本立ての現行刑法と同じになったのは、1880年の旧刑法以来のことである。
[西原春夫]
死刑は廃止すべきであるという主張がなされるようになったのは、とくに17世紀の啓蒙(けいもう)期以降のことである。イタリアの啓蒙思想家、刑法学者であるベッカリーアが社会契約説に基づいて死刑廃止を主張したことは、とくに名高い。以来ドイツの刑法学者リープマンMoritz Liepmann(1869―1928)や作家のビクトル・ユゴー、ドストエフスキーら世界の多くの著名な人々によって死刑廃止論は繰り返し展開されてきた。日本でも明治初年にすでに津田真道(まみち)が死刑廃止を唱え、以来、小河滋次郎(おがわしげじろう)、花井卓蔵(たくぞう)、正木亮(まさきあきら)(1892―1971)、木村亀二(かめじ)らを経てその主張が今日まで受け継がれている。
死刑廃止の論拠には種々のものがある。そのおもなものをあげてみると、次のとおりである。(1)死刑を認めることは殺人を公認することになり、国家自身が人道性、道義性、文化性を放棄することになる。(2)刑罰の任務は犯人の改善、教育、再社会化の点にあり、しかもこのことは殺人を含む重大な罪を犯した犯人にも貫徹、実現されなければならない。(3)今日の刑罰体系は自由刑を基本とするものに移行したのであって、生命刑、身体刑といった野蛮な刑罰は過去の遺物として葬り去らなければならない。(4)誤判の場合に取り返しがつかない。(5)死刑には信ぜられるほどに威嚇力はない。(6)民衆が死刑に執着するのは保守的感情からである。
これに対し、死刑存置論は、国民の間はもちろん、学者のなかにもなお根強く主張されている。その論拠としては、(1)犯罪のなかには、天人ともに許しがたく、死をもってでなければ償えない凶悪なものがあり、これは国民一般の有する法的確信である、(2)重大な犯罪に対しては死刑をもってしなければ威嚇力はない、(3)死刑は、罪を犯さないという社会契約の際に承認した自誓的、自戒的制度である、などが主張されている。もっとも死刑存置を是認する学者のなかにも、国民の法的確信が死刑の肯定から否定に至ったときは廃止すべきだとする者や、死刑を適用できる犯罪を、他人の生命侵害を含む犯罪だけに限定すべきだとする者、誤判を防ぐために、死刑言渡しには裁判官の全員一致を必要とするように制度を改めるべきだと提案する者、さらには、中国で行われているような死刑の執行猶予の制度を日本にあうように修正のうえ導入すべきだと主張する者があることに注意しなければならない。
この間にあって、日本の世論は第二次世界大戦後一貫して死刑存置に傾いている。とくに20世紀の末ごろから生命を奪う犯罪に対する遺族や一般社会の応報感情が強くなり、そのころから頻発した罪のない児童や、利害関係のまったくない一般通行人に対する無差別の残虐な殺人などが契機となって、厳罰化の傾向が促進され、死刑存置を望む世論は一気に高まった。政府の行った世論調査によると、1956年(昭和31)には死刑廃止18.0%、死刑存置65.5%、その他17.0%であったのが、1975年には廃止20.7%、存置56.9%、その他22.4%になり、廃止論がやや勢いを増した。しかし、1989年(平成1)には廃止15.7%、存置66.5%、その他17.8%となり、2004年(平成16)では廃止6.0%、存置81.4%、その他12.6%、2014年では廃止9.7%、存置80.3%、その他9.9%となっている。
[西原春夫]
このような日本の国内事情をよそに、世界では死刑を廃止する国が徐々に増加し、「アムネスティ・インターナショナル日本 死刑廃止ネットワークセンター」のホームページによれば、あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国は106、通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国は8、事実上の死刑廃止国は28、合計142。これに対し死刑存置国は56とされている(2018年12月時点。以下のリストも同ホームページによる。なお、国名には地域名も一部含まれる)。
(1)全面的に廃止した国(法律上、いかなる犯罪に対しても死刑を規定していない国) アルバニア、アンドラ、アンゴラ、アルゼンチン、アルメニア共和国、オーストラリア、オーストリア、アゼルバイジャン共和国、ベルギー、ベナン、ブータン、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、ブルンジ、カンボジア、カナダ、カーボベルデ、コロンビア、コンゴ共和国、クック諸島、コスタリカ、コートジボワール、クロアチア、キプロス、チェコ、デンマーク、ジブチ、ドミニカ共和国、エクアドル、エストニア、フィンランド、フィジー、フランス、ガボン、ジョージア(グルジア)、ドイツ、ギリシア、ギニア、ギニア・ビサウ、ハイチ、バチカン市国、ホンジュラス、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、イタリア、キリバス、キルギス、ラトビア、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルク、北マケドニア共和国、マダガスカル、マルタ、マーシャル諸島、モーリシャス、メキシコ、ミクロネシア連邦、モルドバ共和国、モナコ、モンゴル、モンテネグロ、モザンビーク、ナミビア、ナウル、ネパール、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ニウエ、ノルウェー、パラオ、パナマ、パラグアイ、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ルワンダ、サモア、サン・マリノ、サントメ・プリンシペ、セネガル、セルビア(コソボ含む)、セイシェル、スロバキア、スロベニア、ソロモン諸島、南アフリカ共和国、スペイン、スリナム、スウェーデン、スイス、東チモール、トーゴ、トルコ、トルクメニスタン、ツバル、ウクライナ、イギリス、ウルグアイ、ウズベキスタン、バヌアツ、ベネズエラ
(2)通常犯罪のみ廃止した国(軍法下の犯罪や特異な状況における犯罪のような例外的な犯罪にのみ、法律で死刑を規定している国) ブラジル、ブルキナ・ファソ、チリ、エルサルバドル、グアテマラ、イスラエル、カザフスタン、ペルー
(3)事実上の廃止国(殺人のような通常の犯罪に対して死刑制度を存置しているが、過去10年間に執行がなされておらず、死刑執行をしない政策または確立した慣例を持っていると思われる国。死刑を適用しないという国際的な公約をしている国も含まれる) アルジェリア、ブルネイ、カメルーン、中央アフリカ共和国、エリトリア、ガーナ、グレナダ、ケニア、ラオス、リベリア、マラウイ、モルジブ、マリ、モーリタニア、モロッコ、ミャンマー、ニジェール、パプア・ニューギニア、ロシア連邦(1996年8月に死刑の執行停止を導入。ただしチェチェン共和国では1996年から1999年の間に執行があった)、シエラレオネ、韓国、スリランカ、スワジランド(現、エスワティニ)、タジキスタン、タンザニア、トンガ、チュニジア、ザンビア
(4)存置国(通常の犯罪に対して死刑を存置している国) アフガニスタン、アンティグア・バーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、ガンビア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、ナイジェリア、北朝鮮、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セント・クリストファー・ネイビス、セント・ルシア、セント・ビンセント・グレナディーンズ、サウジアラビア、シンガポール、ソマリア、南スーダン、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、アメリカ合衆国、ベトナム、イエメン共和国、ジンバブエ
[西原春夫 2019年6月18日]
死刑に関する世界的動向として注目しなければならないのは、1989年12月15日、第44会期国連総会で、「死刑廃止に向けての市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」(通称、死刑廃止条約)が採択されたことである。その第1条によれば「この選択議定書の当事国の管轄内にあるものは、何人も処刑されることはない(第1項)。各当事国は、その管轄下において死刑廃止のためのあらゆる必要な措置を講じなければならない(第2項)」とされている。日本は採決に際し、アメリカ、中国、イスラム系諸国とともに反対にまわり、採決は賛成59、反対26、棄権48という微妙なものとなった。この条約は日本ではまだ批准されていない。
[西原春夫]
『斎藤静敬著『新版 死刑再考論』(1980・成文堂)』▽『向江璋悦著『死刑廃止論の研究』(1960・法学書院)』▽『辻本義男編著『史料 日本の死刑廃止論』(1983・成文堂)』▽『菊田幸一編著『死刑と世論』(『明治大学社会科学研究所叢書』1993・成文堂)』▽『辻本義男著『死刑論』(叢書『Open college review』1994・丸善プラネット)』▽『団藤重光著『死刑廃止論』第5版(1997・有斐閣)』
生命を奪う刑罰である。かつては生命剝奪とともに身体の破損や苦痛の付加,加辱・みせしめ的要素(公開処刑)も刑罰内容とされた。そこでは死刑は単なる総称であり,刑罰内容・執行態様の相違による数種の刑名が存在した。やがて死刑は刑罰の中心としての地位を自由刑に譲り,各国ごとに執行方法の単一化,つまりは生命剝奪刑としての死刑の純化も実現した。現在では,死刑が廃止され,すでに過去の刑罰となった国も増えつつある。
タブー侵犯者ないし犯罪者などを集団から追放し,あるいはその生命を奪うことは人間社会に古くからみられるが,現在のものも含めた近代国家の死刑の淵源は,中世ヨーロッパ社会における国家刑罰の出現に求められる。中世後期には王権の伸張とともに,それまでは私的な争いにすぎなかった殺人・傷害などの侵害行為(フェーデ事件)が,王の平和あるいはラントの平和を侵すものとされ,数次にわたる〈ラント平和令〉によって,贖罪金による和解の強制や私闘の禁止,公的刑罰の対象行為の拡大がみられた。はじめは裁判手数料や平和の攪乱を名目とする贖罪金への介入(罰金)が国家刑罰の実質であったが,12,13世紀ごろには,新たに出現した都市的環境で犯罪被害の防止が重視され,浮浪者や乞食などの非定住民による犯行に対処するため,威嚇と排害を中核とする死刑・身体刑が多用されていった。かくして出現した拷問と糾問による刑事手続の整備が,ヨーロッパ大陸では15世紀ごろからのローマ法継受によって図られ,中世刑法は1532年のカロリーナ刑事法典により集大成された。そこでは,生命剝奪刑として,焚殺刑,斬首刑,四裂刑,車輪刑,絞首刑,溺殺刑,生埋刑が,放火,通貨偽造,故殺,強盗,騒擾,強姦,堕胎,謀殺,毒殺,侵入盗,累犯窃盗,嬰児殺などに対して,多くは絶対的法定刑の形で,規定された。
この峻厳な刑罰は,つづく普通法期には,ガレー船漕奴や植民地流刑の隆盛が自由刑の出現とも結びついて,裁判所実務によって緩和され,やがて18世紀後半には啓蒙思想の影響下に死刑の退潮は明白となる。ここではベッカリーアの死刑廃止論が有名であるが,ロシアのエリザベータ女帝時代における死刑の廃止(1741-61),オーストリアのヨーゼフ2世による死刑廃止(1786)なども知られている。プロイセンでもフリードリヒ大王時代に大幅な死刑削減が実現し,1794年の一般ラント法典では死刑に代わって自由刑が中心的な刑罰となった。この傾向は,1810年のフランス刑法典,13年のバイエルン刑法典などの近代的刑法典で確立され,執行方法を単一化された死刑は,重大犯罪に対する極刑としてのみ残された。日本は,明治維新において,以上のヨーロッパ法制を移入したが,その後は多くの国々で死刑廃止も実現しつつある。
日本でも古代から死刑はみられたが,国家刑罰を早期に確立した中国の隋律,唐律を移入した律令制下では,絞と斬の2種が存在した。その後9世紀から12世紀にかけての廃止時期を経て,鎌倉時代に斬の復活,戦国時代には種々の執行態様の死刑が多用された。江戸時代に入って1742年(寛保2)の公事方御定書では,武士に対する切腹と斬罪,庶民に対する磔(はりつけ),獄門,火罪,死罪,下手人に整理された。明治新政府は漸次,死刑を縮限したが,ヨーロッパの法制を取り入れた1880年公布の旧刑法で絞首だけとなり,現行刑法(1907公布,1908施行)に引き継がれた。
現行制度において死刑は最も重い刑罰とされ(刑法9,10条),刑法典では内乱首謀(77条)ほか12種の犯罪(尊属殺人は1973年に最高裁判所の判決で憲法違反とされ1995年削除)に,特別法では爆発物取締罰則(1884公布)や〈航空機の強取等の処罰に関する法律〉(1970公布),〈人質による強要行為等の処罰に関する法律〉(1978公布)などに定められている。もっとも,有罪が認定されると必ず死刑となる絶対的法定刑としての死刑は外患誘致(刑法81条)のみであり,他は無期刑や3年以上の有期懲役などとの選択刑として,つまりきわめて犯情の悪い場合に裁判所が選びうる一つの可能性として,規定されているにすぎない。そこで,どのような犯罪に現実に死刑が宣告・適用されるかは,量刑実務の分析をまってはじめて明らかとなる。1973-82年の状況は表に掲げたとおりであるが,第一審で死刑が宣告されるのは,17,18種の死刑犯罪のうち,ほぼ殺人と強盗致死(強盗殺人を含む)に限られており,しかもそれぞれの有罪者の中で死刑になる者は,殺人で1%以下,強盗致死でもせいぜい10%程度である。明治以来の死刑執行数も図に掲げたが,この図でみるかぎり,死刑の縮小傾向は明らかだといえよう。
裁判で死刑の言渡しを受けた者は執行まで監獄に拘置される(11条)。具体的には拘置監(東京拘置所など)に収容され,刑事被告人に準じた処遇が行われる(監獄法1条,9条)。教誨師や篤志面接委員による面接指導などもあるが,執行を待って過ごす日々の精神的苦痛や拘禁ノイローゼ等については精神医学的な研究もある。
死刑の執行も,他の刑罰と同様に,裁判の確定後,検察官の執行指揮によって行われるが,その重大性にかんがみ,とくに法務大臣の命令による。この命令は死刑判決確定の日から6ヵ月以内になされねばならない。ただし,上訴権回復や再審の請求があったり,非常上告がなされ,あるいは恩赦の出願や申出があった場合は,それらの手続が終了するまでの期間,また共同被告人がいた場合はその判決が確定するまでの期間は,この6ヵ月には算入されない(刑事訴訟法471~475条)。これらは,死刑回避のあらゆる可能性が試される間は執行すべきでないという考慮に基づく。さらに,死刑確定者が心神喪失の状態にあるときおよび妊娠しているとき,執行は停止され,回復ないし出産の日から6ヵ月の期間が進行する(479条)。執行までの収容期間が数年に及ぶことは珍しいことではない。
法務大臣の命令があると5日以内に検察官の指揮により執行される(476条)。死刑の執行は監獄(全国7ヵ所の拘置所)にある刑場において行われる(祝日等および1月1,2日,12月31日は除く。監獄法71条)。当日の朝,刑場に連行された受刑者は,検察官,検察事務官立会いのうえ,拘置所長より死刑執行の旨を告げられ,遺言などの後,面部をおおい刑壇上に連行される。刑壇は地下絞下式で,身長により調節された絞縄が首に掛けられ,執行担当者の操作によって床板が落下する。立会いの法務技官(医師)が心音の停止等によって絶命を確認し,5分間経過後に絞縄が解かれる(監獄法72条)。以上の所要時間は1時間弱とされ,刑死後の処置は在監者が死亡した場合の例による(73~75条)。
窃盗などにも死刑を多用することへの反対はすでにトマス・モアの《ユートピア》(1516)にもみられたが,死刑廃止論が高調されるのは啓蒙期以降においてである。なかでも,アンシャン・レジーム下の専制的過酷な刑事制度を論難したベッカリーアの《犯罪と刑罰》(1764)は著名である。彼は社会契約説に立ち,個人が生命までも差し出したとは考えられないとして,国家の権利としての死刑を否定し,威嚇力の点でも,一瞬に生命を奪う死刑よりも終身隷役刑のほうが効果があるとして死刑の廃止を主張した。しかし,ルソーが,人は殺人の犠牲者とならないために,自分が殺人犯となった場合は死ぬことに同意するとして死刑を肯定するように,社会契約説と死刑廃止論の結びつきには,必ずしも必然性はない。現在では,より実質的に,生命の尊重,範を垂れるべき国家が意図的な殺人(死刑)を行うべきではないなどの理由があげられる。これに対しては,なんの罪もない者を殺人被害から守り,真の生命尊重のためにこそ死刑は必要であり,被害者・遺族の感情は尊重されるべきだと反論される。前者は死刑の犯罪防止効果を前提とし,後者はすでに殺人犯のごく一部しか死刑に処せられていない適用の現実にかかわる。
死刑の犯罪防止効果のうち,特別予防つまり受刑者本人の再犯防止効果は明白である。もっとも,年間数人の執行で果たしてどれだけの実質があるか,犯人の社会復帰という積極面がない,などの批判はある。威嚇・抑止を中心とする一般予防効果の有無については,犯人の心理機制を持ち出す議論や,犯罪発生の統計データを使った実証研究などもみられるが,無期自由刑等に比しての死刑の抑止力が確証される状況にはない。
誤判の場合の回復不可能性は,死刑存置論からは必ずしも死刑に特有の問題ではないとされるが,誤判の可能性およびその現実化(死刑囚の再審無罪など)が死刑廃止論の大きな支えとなることは否定できない。
死刑廃止論は日本でも明治の初頭以来多くの主張者を得,現行刑法の制定に際しても議論があった。第2次大戦後は,新憲法が残虐刑を禁止したこと(憲法36条),法定の手続の保障(31条)に反し具体的執行方法の定めがないことから,死刑の合憲性が争われたが,最高裁判所はいずれの主張もしりぞけた(1948年および61年の最高裁判決)。1966年に死刑廃止法案が参議院に発議されたが,審議未了・廃案となった。74年の改正刑法草案に結実した法制審議会での改正作業でも,死刑廃止は議論されたが,世論調査の結果,死刑存置論が過半を占めたこともあって,時期尚早とされた。その際,死刑判決には裁判官の全員一致を要求することや被告人の精神鑑定を必要とすることなどの手続的手当のほか,中国にならって死刑の執行猶予制度を導入することも議論されたが,いずれも見送られ,草案48条に死刑の適用はとくに慎重でなければならない旨の規定を置くこと,死刑犯罪を,殺害の故意ある場合を中心に,半減することにとどまった。
1990年の国連調査によれば,死刑存置国は121,廃止国は55であった(軍刑法や反逆罪など特殊の犯罪に死刑を存置する国や,連邦制で廃止州をもつアメリカなどを含む)。
アメリカ合衆国では,制定法による廃止州はミシガン(1846年に廃止),ウィスコンシン(1853年に廃止),メーン(1876年に廃止)など9州であったが執行は1968年来行われていなかった状況下で,72年に連邦最高裁による死刑の違憲判決が出た。その後,多くの州で,違憲判決で無効となった死刑規定を復活させるべく法改正が行われ,76年に連邦最高裁はジョージア州などの死刑を合憲とした。翌年には10年振りの執行が行われ,以後数人が処刑された。95年現在,死刑廃止州は違憲無効州を加えて13とされる。存置州の多くは罪種をほぼ謀殺のみに限定し,合理的に規制された裁量下での適用を定めている。執行方法は,絞首(伝統的なもので4州が採用),電気殺(いすに座らせ頭部と脚部に金具を固定して電流を通す。1890年代以降18州),ガス殺(気密室内でいすに固定し青酸ガスを噴出する。1920年代以降9州),銃殺(銃による。ユタ州で採用),薬物注射(静脈に致死量の薬物を注射する。1973年テキサスなど4州)に分かれる。
19世紀半ばから1世紀の間に死刑を廃止した国は,上述のアメリカ諸州のほか,サンマリノ,オランダ,ベネズエラ,ポルトガルなど,部分廃止(のちに全廃)は,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,スペイン,イタリア,スイス,ニュージーランドなどである。
第2次大戦後は,前掲のイタリアが,1889年廃止後ファシスト政権によって復活をみていた死刑を1944年に再度廃止,一部復活を経て47年憲法で軍刑法によるものを除き廃止した(1994年以降全廃)。西ドイツでも,ナチスによる死刑の拡大・乱用を経て,49年基本法(憲法)によって廃止した。ソ連では,1917年の十月革命による死刑廃止を出発点としつつも反革命の罪などに一部存続していたが,47年に戦時体制の解除による死刑の全面廃止を実現した。しかし50年に反逆罪などに死刑を復活し,54年には殺人にも広げられ,60年以降は強姦罪等の人身犯や公共財産に対する窃盗などにも死刑適用の余地を拡大した。執行方法は銃殺による。現在,旧ソ連を構成していた15の共和国では,1国を除いて死刑を廃止している。
イギリスでは,18世紀半ばには200以上もあった死刑犯罪が1世紀後には十数件に減少し,1957年の殺人法では強盗殺人など五つの特殊な場合に限定された。65年に死刑廃止を試験的に実施する5年間の時限立法が制定され,その満了前,69年に永久廃止が実現した。その後保守党政権下のものなど死刑復活法案も出されたが,いずれも否決されている。フランスは,1792年にそれまでの数種の死刑をギロチンによるものに統一していたが,1981年に社会党政権下で,死刑廃止に反対62%の世論を押し切って,廃止を実現した。これによって西ヨーロッパでは,軍刑法など特殊のものを除いて,死刑制度はほぼ克服されたとされる。
→刑罰
執筆者:吉岡 一男
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… 犯罪にどのような刑事制裁を規定することによって対処すべきかということについては,さまざまな議論が積み重ねられてきた。日本の刑法は,刑として,死刑,懲役,禁錮,罰金,拘留,科料(以上は主刑),没収(付加刑)を規定している。生命刑である死刑については,それを存置すべきかが問題となる。…
…一般には公権力によって設置された死刑執行の場をいう。
[日本]
江戸時代には,御仕置場(おしおきば)ともいわれた。…
…日本国憲法でも,残虐な刑罰を絶対に禁止することが宣言されている(36条)。18世紀の絶対主義国家に至るまで,死刑とともに刑罰制度の中心をなしていた身体刑すなわち身体を傷つける刑罰は,現在では文明国からほとんどその姿を消した。身体刑は,たとえば手や足を切る刑,笞刑(ちけい)(身体を笞(むち)で打つ刑)などであり,日本でも笞刑は明治初年まで存在した。…
…刑罰,とくに死刑の執行にあたる人をいう。死刑が存在するかぎり何らかの形で刑吏が必要とされるが,死刑のあり方が違うと刑吏の存在様式も異なってくる。…
…また,死に相当する罪をいう。日本古代における死刑は,すでに《隋書》倭国伝中に殺人,強盗,姦の罪に対して科されたことが見えるが,律令制度の死罪は大辟(だいびやく∥たいへき)罪ともいい絞,斬の2種があり,斬は絞より1等重いとする。絞は受刑者を棒に縛し,2本の綱で首を挟み,その綱の左右を2人の執行人が絞り上げて窒息死させる。…
…
[量刑の手順]
実際の量刑判断の手順をみると,まず,各法条に規定されている刑(法定刑という。死刑,懲役,禁錮,罰金,拘留,科料の6種のほか,付加刑たる没収がある)が一種であれば問題ないが,複数の刑種が選択的に規定されている(ときには併科規定もある)場合には,そのどれかが選択される。次いで,(1)再犯加重,(2)法律上の減軽,(3)併合罪加重,(4)酌量減軽の順によって加重減軽がほどこされる(刑法72条)。…
※「死刑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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