精選版 日本国語大辞典 「殷墟」の意味・読み・例文・類語
いん‐きょ【殷墟】
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中国、河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)村付近にある古代の殷王朝の都の遺跡。この遺跡から掘り出したカメの甲とウシの骨が、竜骨(おこりの妙薬とされていた)として北京(ペキン)の薬屋に売り出されていたが、1899年これを買った劉鶚(りゅうがく)が、この上に古代文字(甲骨(こうこつ)文字)を彫りつけてあるのを発見し、それから急に古代史学者の注意を集めた。羅振玉(らしんぎょく/ルオチェンユイ)、王国維(おうこくい/ワンクオウェイ)らの研究によって、この甲骨文字は、殷王朝の占い師が王家のために占った卜辞(ぼくじ)、つまり占いの文章であることがわかった。羅振玉は1915年自分で甲骨の出る小屯村を訪問し、試みに掘って甲骨のほか、青銅器、玉器などを手に入れた。
1928年には中華民国中央研究院歴史語言研究所が董作賓(とうさくひん/トンツオピン)、李済(りせい/リーチー)を中心に殷墟の発掘を行い、これから37年まで15回にわたる大発掘が続けられた。また革命後は、中国科学院考古研究所によって、50年から発掘が始められ、現在も続けられている。
殷墟のうち居住遺跡はおもに小屯村北方の洹河(えんが)に沿った台地に現れる。土壇を突き固めた上に宮殿の礎石が置かれている。土壇の周囲には多くの竪穴(たてあな)式の住居の遺跡がある。神を祀(まつ)る宗廟(そうびょう)や、帝王、王族の住居は地上にあったが、一般人民は地下式の竪穴に暮らしていた。
小屯の都市の郊外にはまた、陶器、骨器、銅器をつくる職人の工場と住居跡がたくさん発見されている。この居住遺跡に対して、洹水北の侯家荘(こうかそう)、大司空(だいしくう)村には、殷王朝の王墓とみられる多数の巨大な墓が地下10メートル以上の深さにつくられていた。王や王族の棺(かん)は多数の侍従や婢妾(ひしょう)の殉葬(じゅんそう)に取り囲まれている。墓室には青銅器、玉器などの宝物が入れられ、その豪華さは人々を驚かせた。あるものにはウマ、サル、ゾウなどの動物専用の坑(こう)がついている。おそらく生前に飼っていた動物まで葬られ、死後も生前と同じように生活ができるようにと考えた結果であろう。殷代後期の青銅器は、戈(か)のような武器よりはむしろ神を祀るための酒器、食器、楽器が主体を占めている。祖先を象徴する怪獣の不思議な文様が全面にすきまもなく彫り込まれ、その精巧さは世界中にその比をみないといわれる。殷の王や貴族たちは四頭立ての馬車に乗り、また戦争は車戦であった。武官村の大墓にはウマの骨を伴った馬車の遺物が掘り出された。宮殿のそばの竪穴などからは、大量の亀甲(きっこう)、牛骨が発掘された。これらには、殷の占い師が王朝の祖先を祀る儀式を占った文章が彫りつけられている。この甲骨文字の解読と王墓の遺物と相まって、殷王朝の王侯、貴族の生活ぶりが、だいたい想像することができるようになった。
第二次世界大戦後は、小屯村北部の宮殿地区よりも、むしろ周辺の地帯に調査が進められ、人民の住居、銅器や骨器の製造工場の遺跡と多数の中小の墳墓が発掘された。そのなかで、1976年宮殿遺跡の南西の殷墟5号墓の発見は学界に大きな衝撃を与える大事件であった。従来発掘された墓はほとんど盗掘されていたのに対して、この5号墓は完全に原状のまま保存されていたので、考古学的に貴重な資料を提供するものであった。壮麗、精巧を極めた468個の青銅器、755個の玉器をはじめ豊富な遺物群は学者たちの目を驚かせるものであったが、とくに青銅器のなかには、婦好(ふこう)という者が製造したという銘文を刻んだものが多く発見された。婦好は甲骨文によって殷墟第1期の武丁(ぶてい)王の王妃であることが知られているので、その製作年代は明確であり、この遺物群の研究に重要な基準を示すものであった。
これと並んで1971年には、小屯村の南部から4800余片の甲骨文字が発掘された。第4期の武乙王時代の甲骨を主体とし、各代のものを含んでいる。この出土状態の明らかな大量の甲骨文字の発見は、甲骨学者にとっても画期的な事件であり、今後の研究に大きな刺激を与えるであろう。
殷墟の青銅器は発達の頂点にあるもので、どうしてこのような青銅器が生まれたかという経路はわからなかった。革命後、中国全土にわたって発掘が進むにつれて、各地に殷代の遺跡が発見された。とくに殷代中期の河南省鄭州(ていしゅう/チョンチョウ)の遺跡から出た青銅器遺物のなかには、安陽の王墓から出たものより原始的なものを含んでおり、青銅器の発達の経路がわかるようになった。殷墟遺跡はその規模の大きいこと、そこから出土する豪華な青銅器などの美術品が優秀なことによって、メソポタミア、エジプトの神殿と並んで古代文化の宝庫の一つに数えられる。
[貝塚茂樹]
『貝塚茂樹著『古代殷帝国』(1957・みすず書房)』▽『白川静著『甲骨文の世界――古代殷王朝の構造』(平凡社・東洋文庫)』
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河南省安陽市北西の小屯村を中心とした殷の都の遺址。殷王盤庚(ばんこう)以来滅亡までの都といわれる。ここで1899年甲骨文字が発見されて以来,世界の学界に注目され,1928~37年に15回の発掘が中央研究院でなされ,考古学上画期的成果をもたらした。50年以後も中国科学院による発掘が行われた。小屯村一帯は宮殿所在地で,周囲に住居址,墓が散在し,北方の侯家荘(こうかそう)には壮大な陵墓群があり,東方の後岡(こうこう)の調査で,新石器文化と殷文化との層位関係が確かめられた。出土の甲骨文にはこの地を商邑,大邑商,天邑商などと記す。
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…この殷中期文化は北は河北省藁城台西村,南は湖北省黄陂盤竜城,江西省清江呉城へ広がっており,各地に硬陶のうえに灰釉をかけた青磁釉の萌芽を示す灰釉陶,台西村には漆器の盤,盒が出土している。 河南省安陽市北西2.5kmの殷墟の地は盤庚遷都以来,紂王滅亡まで殷後期の国都である。1928年以来,多数の建築基址,王侯貴族の陵墓や住居,工房址が調査されている。…
…それは彩色土器という特色のある土器をともなう文化で,当時すでに稲作の行われていたことも知られている。歴史時代に入ると,安陽の殷墟は最初の甲骨文字の出土地として有名で,殷代後期の都の所在地であった。今日の省都である鄭州はそれに先立つ殷代中期の代表的遺跡で,広大な城壁の存在が当時の都であったことを示している。…
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