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京都市の北東にそびえ,京都府と滋賀県にまたがる山。延暦寺があり,日枝(ひえ),叡山,北嶺などとも呼ばれた。大比叡岳(848m)が主峰で,そのすぐ西にある四明岳(838m)と北につらなる釈迦ヶ岳(750m),水井山(794m),三石岳(676m)の5峰を総称してふつう比叡山と呼ぶ。南北約12kmに及ぶ山体の東西両側は急傾斜の断層崖となっているが,山頂部は比較的緩傾斜で,一部平たん面もみられる。山体の大部分は古生層からなるが,南部は花コウ岩のため浸食がすすんで低山化し,ここを京都と近江盆地を結ぶ古い交通路の志賀越,山中越が通っている。
登山路としては東麓の大津市坂本から延暦寺東塔の根本中堂に至る本坂が最も重要で,京都側からは白川道,雲母坂(きららざか)道などがおもに利用されたが,昭和初年に坂本から根本中堂付近まで,および西麓の京都市左京区八瀬(やせ)から四明岳付近まで,それぞれケーブルカーが敷設されたため,それまでの登山路はすたれた。1958年山中越を経由して根本中堂から四明岳に通じる比叡山ドライブウェーが開通し,山頂一帯は観光・レクリエーション地域に変貌した。さらに66年には64年の琵琶湖大橋の完成にあわせて,根本中堂から横川(よかわ)を経て琵琶湖岸の大津市堅田(かたた)に至る奥比叡ドライブウェーが開通した。琵琶湖八景の一つ〈煙雨--比叡の樹林〉に数えられ,鳥類が豊富で比叡山鳥類繁殖地として天然記念物に指定されている。ほとんど全山が琵琶湖国定公園に属する。
南部の比叡平(大津市)は花コウ岩からなる標高300~400mの小起伏面で,現在宅地開発がすすめられているが,崖崩れや雨による土壌浸食など防災面での問題が残っている。
執筆者:井戸 庄三
もとは大比叡神,小比叡神をまつる山岳信仰の山であったが,715年(霊亀1)ころ藤原武智麻呂が禅院をたて,その後788年(延暦7)に最澄がこの地を修行の場として一乗止観院を建立して以来,天台宗の本拠地となった。平安京の北東に位置し,鬼門(艮(うしとら))にあたるところから,王城鎮護の山として信仰された。山内は三塔(東塔,西塔,横川)に分かれ,さらに16谷と2別所に区分されて,それぞれ教学や修法を競った。山下の東坂本(大津市坂本)には一山の護法神として日吉大社があり,政所や里坊がおかれて山上生活を支え,京都側の西坂本(修学院付近)や八瀬なども基地として諸院や下級の奉仕者集団が存在した。11世紀後半から中世を通じ,比叡山はその霊威と財力と武力により強大な支配力を誇った。また山上生活を捨てて山下の別所や諸地方に移って宗教活動をする僧も多く,彼らの中から法然,親鸞,日蓮,道元ら中世諸宗派の宗祖も出た。
1571年(元亀2)織田信長延暦寺焼打で3000坊を数えたといわれる堂塔のすべてを失い,僧も離山した。しかし豊臣秀吉,徳川家康の援助で復興に着手し,天海によって諸堂が整備された。江戸時代には5000石の朱印寺領を与えて幕府が保護したものの,昔日の宗教的権威は失われた。明治初年の神仏分離で日吉大社が分離され,一時荒廃したが,現在は天台宗総本山として信仰を集めている。
→延暦寺 →日吉大社
執筆者:西口 順子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
湖南で近江と京都を分ける山嶺。この山を山号とする延暦寺が営まれた霊地として知られる。北に連なる比良山地、南に続く
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市と滋賀県大津市との境界をなす山地。北は比良(ひら)山地から続く近江(おうみ)盆地の西側を画する地塁山脈で、琵琶(びわ)湖に面する東斜面と、京都盆地に面する西斜面は、ともに南北に走る断層崖(がい)をなしている。秩父中・古生層で構成されているが、南の大文字(だいもんじ)山との間には花崗(かこう)岩が広く露出している。山頂部には比較的平坦(へいたん)面が残り、東の大比叡(848メートル)と西の四明ヶ岳(しめいがたけ)(838メートル)の二峰に分かれる。山頂からは、東は琵琶湖を隔てて湖東、湖西方面、西は丹波(たんば)高地から京都市内を越えて南山城(みなみやましろ)や大阪方面まで望むことができる。四明ヶ岳には展望台などがある。琵琶湖国定公園の一部で、寺域のため自然状態が良好である。スギ、ヒノキ、モミなどの針葉樹が多く、またキツツキ、オオルリ、キビタキ、クロツグミ、サンコウチョウなど約80種の鳥が生息し、「比叡山鳥類繁殖地」として国の天然記念物に指定されている。
比叡山は古くから山岳信仰の対象となり、大山咋神(おおやまくいのかみ)などの山神が祀(まつ)られたといわれるが、785年(延暦4)最澄(さいちょう)(伝教(でんぎょう)大師)が入山して草庵(そうあん)を結んだのが天台宗総本山の延暦寺(えんりゃく)の始まりであり、比叡山は平安京北東の鬼門にあたり、護国鎮護の霊山として今日まで法燈(ほうとう)を伝えている。中世には三千坊と称される堂塔があり、多数の僧兵を擁した。1571年(元亀2)織田信長の焼打ちで一時衰微したが、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康らによって再興された。
寺域は東塔(とうとう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三つの地区に分かれ、三塔16谷に点在する堂塔を総称して延暦寺という。中心は老杉に囲まれた東塔の根本中堂(こんぽんちゅうどう)(国宝)で、現在の建物は1642年(寛永19)に家光によって再建されたもの。東塔には根本中堂のほか、大講堂、戒壇(かいだん)院、阿弥陀(あみだ)堂がある。東塔の西にある西塔は人影もまばらな静寂の地。釈迦(しゃか)堂は1595年(文禄4)に秀吉が園城(おんじょう)寺金堂を移築したもので、比叡山最古の鎌倉時代の建造物。西塔にはこのほか常行(じょうぎょう)堂、法華(ほっけ)堂などの堂舎がある。釈迦堂から北へ4キロメートルの峰路(みねみち)とよばれる回峰行者(かいほうぎょうじゃ)のたどる尾根道を進むと奥比叡の横川に達する。横川は慈覚大師円仁(えんにん)によって開かれ、大師信仰の道場とされる幽邃(ゆうすい)の地である。横川中堂は1971年(昭和46)に再建された建物で、浄土思想の祖といわれる恵心僧都(えしんそうず)の住んだ恵心院もある。
比叡山への交通は、京都市左京区北白川から大津市に向かう山中越から分岐して根本中堂に達する比叡山ドライブウェイがあり、また大津市坂本からケーブルカーが、京都市左京区八瀬(やせ)からケーブルカー、ロープウェーが通じている。さらに根本中堂から横川を経て大津市堅田(かたた)の上仰木(かみおうぎ)で国道161号と結ぶ奥比叡ドライブウェイも開通した。
[織田武雄]
『景山春樹・村山修一著『比叡山』(NHKブックス)』▽『景山春樹著『比叡山寺』(1978・同朋舎出版)』
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京都市と滋賀県大津市にまたがる山。標高848m。山上に天台宗総本山延暦寺,東麓に日吉(ひよし)大社がある。最澄が788年(延暦7)に延暦寺の前身の一乗止観院を建立。古くからの山岳信仰の流れをひく日吉(ひえ)神社(現,日吉大社)は,一山の地主神(じぬしがみ)とされた。平安遷都後には王城鎮護の山とされる。延暦寺は,寺門(じもん)(園城寺)の分派後は山門(さんもん)と称され,南都諸寺や南山(高野山)に対しては北嶺(ほくれい)と称される。日吉神社は山王神道の拠点となっていく。1571年(元亀2)の織田信長の延暦寺焼打は全山を壊滅させたが,豊臣秀吉や徳川家康が復興した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…滋賀県大津市にある天台宗の総本山。山号は比叡山。山門とも呼ぶ。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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