江戸前期の旗本。町奴幡随院長兵衛と対抗した旗本奴の頭目として喧伝されている。幼名百助,はじめ貞義と名のったが,のち成之(なりゆき)と改めた。十郎左衛門は通称。父成貞は水野氏宗家の備後福山藩主勝成の三男で,分家して3000石が与えられた。母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮(よししげ)の女。十郎左衛門はその嫡子で,父の没後,1650年(慶安3)家を相続し,小普請となったが,病気と称して勤めを怠り,無頼の生活を送った。旗本奴の集りである大小神祇組の頭目だったといわれる。57年(明暦3)7月,幡随院長兵衛を殺害したが,そのときはとがめはなかった。その後,幕府はかぶき者の取締りを強化していき,64年(寛文4)3月,彼も不行跡を理由に母の実家徳島藩に預けの下命を評定所で受けた。しかしそのときの態度が不作法であったとして,翌日改めて切腹に処された。彼の子も殺害されている。
執筆者:林 亮勝 実録本《幡随院長兵衛一代記》(成立年未詳)によれば,水野は吉原での遊興の席上,幡随院長兵衛によって恥辱をうけ,これがきっかけで遺恨を含み,さらに木挽町の芝居で恥をかかされ,ついに自邸に招き寄せ,湯殿で殺害したことになっている。この経緯では水野はむしろ同情されてよいはずだが,江戸町民は旗本奴の暴虐を憎んで長兵衛に同情を寄せた。初世桜田治助作の《幡随長兵衛精進俎板(しようじんまないた)》(1803年8月,中村座初演)では,水野は〈白柄組の寺西閑心〉の名に仮託,純然たる敵役として描かれた。河竹黙阿弥作《極付(きわめつき)幡随長兵衛》でも,初演時(1881年10月,春木座)にははばかるところがあってか,〈水尾十郎左衛門〉の名で登場,殿様役者として名高い市川権十郎が演じたが,やはり敵役の性格は失われていない。岡本綺堂作《水野十郎左衛門》(1927年6月,歌舞伎座初演)では水野は長兵衛の墓参りをして己の所業を恥じ,また同時に闊達な人物として描かれ,2世市川左団次が演じて近代的性格が付与された。
執筆者:小池 章太郎
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江戸前期、「旗本奴(はたもとやっこ)」の頭目。名は成之(なりゆき)。徳川氏の譜代(ふだい)水野氏の一族で上総(かずさ)国(千葉県)に3000石の知行(ちぎょう)をもつ。旗本奴の群に投じ大小神祇組(じんぎぐみ)の首領となる。当時、江戸で人気の町奴(まちやっこ)幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を謀殺した事件で有名となり、錦絵(にしきえ)が残っている。その一件は、芝居見物中の喧嘩(けんか)で長兵衛が十郎左衛門配下の旗本奴を打ち負かしたのを恨みに思い、復讐(ふくしゅう)したものといわれる。幕府側の公式記録によれば、1657年(明暦3)7月29日、十郎左衛門は男達(おとこだて)幡随院長兵衛を討ち捨てた旨を老中に届け出たが、長兵衛が浪人者ということで無罪となった。しかしその後も市中で乱暴を働くので徳島藩主松平(蜂須賀(はちすか))光隆(みつたか)に預けられ、64年(寛文4)3月27日、評定所(ひょうじょうしょ)での尋問の際、「被髪白衣」の異様な風体が不敬であるとされ切腹を命ぜられ、翌28日、子百助(ももすけ)も父の罪で処刑された。
[煎本増夫]
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(吉沢敬)
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