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デジタル大辞泉
「永源寺」の意味・読み・例文・類語
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永源寺
えいげんじ
[現在地名]永源寺町高野
愛知川北岸、高野山(飯高山)南麓にある。臨済宗永源寺派本山。山号は初め飯高山と称したが、瑞石山と改称。山上を冠してよばれることもある。本尊聖観音は一般に世継観音とよばれている。
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
〔創建と寂室元光〕
康安元年(一三六一)六角氏頼(法名崇永)が臨済宗の高僧寂室元光(円応・正灯国師)を開山に請い、現在地に一寺を創建したことに始まる。寺名は氏頼の法名の一字永と源氏の源をとってつけられたと伝える。元光は美作国高田村(現岡山県勝山町)の出身、鎌倉禅興寺の約翁徳倹に師事して元光の名を与えられ、徳治二年(一三〇七)約翁とともに京都建仁寺に入った。元応二年(一三二〇)元光は入元を果し、嘉暦元年(一三二六)帰国した。元で師事した天目山の中峰明本は俗化した中国禅宗のなかで栄達を拒み、後進の指導にあたった人物で、元光ひいては永源寺派の禅風に強い影響を与えた。元光の道号寂室も明本から与えられたものである。また元光は古林清茂・清拙正澄らの文筆僧にも随侍しており、その題材を仏教内に限る偈頌主義を謳歌するという作詩活動の影響も強く受けたとみられる。
延文四年(一三五九)近江石塔寺(現滋賀県蒲生町)、翌年桑実寺(現同県安土町)に寓居していた元光に六角氏頼が帰依、その永住を望み、永源寺を創建した。腐敗した中央の禅風を嫌った僧たち二千余名が当寺に集まったという(寂室和尚行状)。氏頼は元光を厚く援助し、康安二年九月二日には衆僧御時料として永源寺対岸の山上郷熊原村を寄進、この地は根本寺領として永く維持された(「崇永寄進状」永源寺文書、以下とくに断らない限り同文書)。貞治六年(一三六七)九月一日、元光は永源寺内住房含空台において遺偈を書して死去。元光の遺偈(国指定重要文化財)は「屋後青山 檻前流水 鶴林双趺 熊耳隻履 又是空華 結空子」で、首二句で永源寺の自然、三句・四句は仏教故事を、終句で元光の最期の悟りを表している。末尾には「亡僧元光」と書かれる。また死去に先立ち遺誡(国指定重要文化財)を認め、熊原の地は氏頼に返還し建物は土地の者に与えて各自は離散すること、自分の葬送は首楞厳神呪一遍を唱えるだけでよいなどと弟子たちに言置いた。しかし氏頼は離散を望まず、後住を定めて寺を継続するよう命じ(応安元年八月二八日「六角氏頼書状」金剛輪寺文書)、応安元年(一三六八)元光の高弟弥天永釈が入寺、二世となった。
永源寺
えいげんじ
[現在地名]玉穂町下河東
玉穂中学校の西に位置する。豊田山と号し、曹洞宗、本尊は釈迦如来。縁起によれば、古くは甲斐大安寺の別院として建立され、華厳宗で蔵続山と号した。その後真言宗に改宗し、京都にいた加藤三郎兵衛照政が聖観音を奉祀し、天暦二年(九四八)再建したという。当時は現在地の南数百メートルの下河東と町之田の境に位置していたが、度重なる水害で荒廃していた。「甲斐国志」は加藤照政の位牌の天徳元年(九五七)という年号は「宝徳元巳ノ誤記」としている。
永源寺
えいげんじ
[現在地名]南国市比江
小高い比江山の南側中腹にあり、南前方に国分川の流れと土佐国府跡、西南方に国分寺の森が望まれる。曹洞宗。古峯山と号し、本尊は聖観音。古くは真言宗で観音寺と称した。天正一六年(一五八八)の廿枝郷衙府中国分地検帳に「観音寺」がみえ、その辺りの地四筆に「門前」の小字がみえる。この「門前」は現在永源寺に登る道の東側に残る御門前という地名の場所という。
山内一豊は入国後、観音寺を曹洞宗に改め、真如寺(現高知市)の末寺にしたという。家老の乾和三が国分・比江を知行するに当たり観音寺を乾一門の菩提寺とし、古峯山乾流寺と名付けたが、宝永五年(一七〇八)の火災で焼失、復興の際「乾流」の寺名を忌んで、同六年永源寺と改称したと伝える。
永源寺
えいげんじ
[現在地名]坂戸市仲町
坂戸市街地中央部にある。長渓山と号し、曹洞宗。本尊の釈迦如来は開基島田重次が長崎奉行勤務の時に入手した中国伝来の仏像と伝える。寺伝などによれば、天正一九年(一五九一)旗本島田重次は坂戸村など入間郡内二千石を与えられ、その縁で慶長一二年(一六〇七)父右京亮が三河から当地に移住、同一八年に没した。重次は父の菩提を弔うため龍穏寺(現越生町)一四世大鐘良賀を招いて一寺を創建、父の法名源翁永源をとって寺名を付けたという。以後島田氏の菩提寺となり、墓域内には同氏代々の墓がある。慶長一八年に将軍徳川秀忠から坂戸の内で寺領二四石寄進の朱印状、寛永一三年(一六三六)にそれを安堵する徳川家光朱印状(ともに写、永源寺蔵)を与えられている。
永源寺
ようげんじ
[現在地名]婦中町友坂
友坂集落西端の呉羽山丘陵東側山麓にある。大徳山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。開基は近江国滋賀郡出身の大徳で、大宝元年(七〇一)の創建と伝える。当時熊野神社の別当寺であったが、大同年間(八〇六―八一〇)弘法大師に従って真言宗に転じ、正念院覚心坊と称し、のちに大徳山友坂寺と改めた。教円坊・西智坊・一僧坊・西塔坊など四八坊を有したが、寿永二年(一一八三)木曾義仲乱入の際、本寺の中興島倉治部少輔が戦い寺坊とも焼かれた。
永源寺
ようげんじ
[現在地名]掛川市各和
原野谷川右岸にある曹洞宗寺院。境内は中世の各和城跡に含まれる。山号は大昌山、本尊は釈迦如来。康正二年(一四五六)の創立と伝え、開山は可睡斎(現袋井市)三世川僧恵斎の第一法嗣の大年正椿で、初め東方の会下谷に建てられ竜昌院といった(寺記)。天文七年(一五三八)六月一日、伊与守道空が「竜昌院」を天庵に与えているが(「各和道空書状」永源寺文書)、開基をこの各和伊与守道空とみる見解があり、道空は法名を竜昌院殿青山道空居士という(掛川誌稿)。
永源寺
えいげんじ
[現在地名]大子町大子
押川右岸の高台に位置する。曹洞宗で臥雲山と号し、本尊は釈迦如来。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると、文安三年(一四四六)の創建、茂木村(現栃木県芳賀郡茂木町)能寿院の末寺で、除地六石余、百姓地一二石、末寺一ヵ寺、檀那九三七人を有した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
永源寺
えいげんじ
滋賀県南東部,東近江市東部の旧町域。鈴鹿山脈の西斜面,愛知川上流域を占める。 1955年市原村,永源寺村が合体して町制。 2005年八日市市,五個荘町,愛東町,湖東町の1市3町と合体して東近江市となった。大部分は山地で,古くから林業が行なわれた。愛知川支流御池川流域の政所は茶の産地。その上流域にある君ヶ畑,蛭谷は木地師 (→木地屋 ) 発祥の地として有名。耕地は西部愛知川沿いに開け,米を産する。愛知川の谷口近くにある永源寺は臨済宗永源寺派の本山で,文化財が多く,付近は紅葉の名所。上流に永源寺ダムがある。東部一帯は鈴鹿国定公園に属する。
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永源寺
えいげんじ
山上寺とも。滋賀県東近江市永源寺にある臨済宗永源寺派の本山。はじめ飯高山,のち瑞石山と号す。開山は寂室元光(じゃくしつげんこう)(円応禅師・正灯国師)。1361年(康安元・正平16)に六角氏頼(法名崇永)が開創。修行僧が多く集まり,83年(永徳3・弘和3)に足利将軍家の祈願所となる。応仁・文明の乱の時期には戦火をさけて京都五山の名僧が滞在した。1564年(永禄7)5月には一山が焼失し,織田信長が六角氏を滅ぼしたために庇護者を失い衰退したが,1643年(寛永20)に住持となった一糸文守(いっしもんじゅ)が彦根藩主井伊氏の後援をうけて復興。塑造寂室和尚座像・「約翁徳倹像」(ともに重文)などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
永源寺【えいげんじ】
滋賀県永源寺町(現・東近江市)にある臨済宗永源寺派本山。本尊聖観音は世継観音と称される。1361年国守佐々木氏頼が寂室元光を迎えて開創。たびたびの兵火で荒廃したが,1643年,後水尾天皇の勅願により沢庵門下の一糸文守が彦根藩主井伊家の助勢で復興した。紅葉の名所として有名。寂室元光の座像や墨跡などがあり,重要文化財。
→関連項目永源寺[町]
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えいげんじ【永源寺】
滋賀県神崎郡永源寺町にある寺。臨済宗14派の一つ,永源寺派の大本山。山号は瑞石山。創建時は飯高山と号し,寺号は山上寺ともいう。佐々木氏頼は愛知(えち)川渓谷高野の幽境に後光厳院の勅を奉じて伽藍を営み,1361年(康安1)寂室元光(1290‐1367)を開山に請うて開創し,翌年愛智郡山上郷熊原村を寄進して寺領とした。寺領は将軍足利義満,義持,義政などが安堵し,また佐々木氏は夫役諸公事課役等を免除して経済的保護を加えた。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典内の永源寺の言及
【永源寺[町]】より
…滋賀県南東部,神崎郡の町。1955年永源寺村と市原村が合体,町制。人口6500(1995)。…
※「永源寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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