慶安元年(一六四八)の徳川家光朱印状(永福寺文書)によると、朱印地五石を
飯岡山と号し、真言宗智山派。本尊は薬師如来。天平宝字七年(七六三)鑑真によって創建されたと伝える。近くに鑑真が居住した跡といわれる唐鑑房や鑑真が持参した唐の竹を植えたと伝える
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
富山市にある真宗大谷派の寺。山号は医王山。通称は松寺。寺伝によれば,783年(延暦2)僧浄定がその師泰澄の遺志をついで礪(砺)波郡の医王山中に創建,聖護寺と称し,真言宗に属していた。1471年(文明3)当寺の住持寂浄は蓮如に帰依し,法名を道海と改め,76年蓮如は当寺を礪波郡の才川七村へ移し,松寺と改めて甥の蓮真を住持にすえた。これが当寺の中興である。1596年(慶長1)前田利長は当寺を越中東方300余寺の総録所触頭(ふれがしら)と定め,99年本願寺の教如は石山合戦ならびに東西分派の功績をもって永福寺の寺号を与え,永世院家地(えいせいいんげじ)の寺格に列した。1609年当寺は高岡に移り,38年(寛永15)さらに富山に転じ,翌年前田利次より富山藩総録所触頭に任ぜられ,寺法・国法の役寺として重きをなした。しかし1861年(文久1)大火に焼失し,70年(明治3)には廃仏毀釈の災厄にあい,寺勢は衰えた。
執筆者:中井 真孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「ようふくじ」ともいう。源頼朝が奥州平定で死去した弟義経や藤原泰衡(やすひら)はじめ数万の怨霊(おんりょう)を弔うため、1192年(建久3)に鎌倉市内の現在の二階堂(にかいどう)に平泉中尊寺の大長寿院(だいちょうじゅいん)の伽藍形式を模して建てた天台密教系の寺院。山号は三堂山(さんどうさん)。廃寺。二階堂(本堂)・阿弥陀堂・薬師堂の主要な建物が回廊で結ばれていた景観は、極楽浄土を連想させるほどに荘厳華麗であったらしい。だが1333年(元弘3・正慶2)に鎌倉幕府が滅亡するや徐々に衰え、さらに1405年(応永12)に火災にみまわれ、以後廃絶した。近年の発掘調査により、3堂の配置状況や中島を築いた庭園の遺構、苑池の汀石(みぎわいし)(池に配置された景石)の状況なども明らかになった。1966年(昭和41)、国指定の史跡となる。
[高橋秀栄]
『『鎌倉市史 社寺編』(1959・吉川弘文館)』▽『貫達人・川副武胤著『鎌倉廃寺事典』(1980・有隣堂)』▽『『国指定史跡永福寺跡 遺構編』(2001・鎌倉市教育委員会)』
化学式 CH4 。最も簡単なメタン系炭化水素で,天然ガスの主成分をなしている。また石炭ガスにも 25~30%含まれる。有機物の分解,たとえばセルロースの腐敗,発酵の際に生成され,沼気ともいわれる。また...
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