精選版 日本国語大辞典 「江川太郎左衛門」の意味・読み・例文・類語
えがわ‐たろうざえもん【江川太郎左衛門】
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(所荘吉)
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1801.5.13~55.1.16
幕末期の幕府代官・砲術家。父は英毅。名は英竜(ひでたつ),号は坦庵(たんあん)。中世来の名家である江川家は1596年(慶長元)から伊豆韮山(にらやま)(現,静岡県伊豆の国市)の世襲代官となり,代々太郎左衛門を襲名。ただし1723年(享保8)英勝のとき罷免され,英彰のときに復職。英竜は1835年(天保6)家督を相続。洋学者と交流し,38年目付鳥居耀蔵(ようぞう)とともに江戸湾の海防巡見を行った際,渡辺崋山から測量技師の推薦をえたことが蛮社の獄の一因となった。41年高島秋帆から高島流砲術を伝授され,その隆盛に努めた。幕府の海防政策に重用され,伊豆諸島の巡見,下田警備などにあたり,ペリー来航後,勘定吟味役格海防掛となり品川台場建設,反射式溶鉱炉建設などに尽力。
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… 携帯食糧の発達は軍事上の必要によってうながされることが大きいが,日本では幕末・明治になってヨーロッパの技術を習得し,乾パン,ビスケットが軍用に供されるようになるまで大きな変化はみられなかった。軍事行動中の予備食としての乾パンを最初に研究試作したのは伊豆韮山(にらやま)代官の江川太郎左衛門で,1842年(天保13)のことだという。当時乾パンは兵糧パンと呼ばれ,その後諸藩もこれにならって兵糧パンをつくった。…
…1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840‐42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。…
…翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。…
…農兵が現実的に構想されるのは,外国船が日本近海に現れ,また農村で一揆が頻発する,いわゆる幕末の内憂外患を迎えてからである。 幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官江川太郎左衛門が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。…
…さらに武蔵,上野に領地をもつ譜代大名に対し戒厳体制をとらせた。一方,代官江川太郎左衛門が編成した武州農兵は,横浜襲撃をめざして南下した一揆勢を多摩川築地河原で洋式銃をもって迎え撃ち壊滅させた。また入間郡所沢村より江戸方面に向かう一揆勢も,江川支配下の田無村組合農兵により阻止壊滅させられた。…
…なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
[世直し騒動]
1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。…
※「江川太郎左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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