デジタル大辞泉 「江戸幕府」の意味・読み・例文・類語
えど‐ばくふ【江戸幕府】
[補説]将軍は次の15人。
第1代 徳川家康
第2代 徳川秀忠
第3代 徳川家光
第4代 徳川家綱
第5代 徳川綱吉
第6代 徳川家宣
第7代 徳川家継
第8代 徳川吉宗
第9代 徳川家重
第10代 徳川家治
第11代 徳川家斉
第12代 徳川家慶
第13代 徳川家定
第14代 徳川家茂
第15代 徳川慶喜
徳川家康が1603年(慶長8)2月12日征夷大将軍に任命されて江戸に開いた幕府。以後,1867年(慶応3)10月15日15代将軍徳川慶喜の大政奉還までの265年の間,対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能した。徳川幕府ともいう。
1598年8月の豊臣秀吉の死後にその政権の運営を託された五大老の筆頭であった家康は,1600年9月の関ヶ原の戦の勝者となって実質的に天下人の位置につき,秀吉の創出した全国支配の体制(これを幕藩体制という)を受け継いだ。そして源氏の一族新田氏の後裔という系図を創作して朝廷から将軍に任ぜられ,名分の上でも全国を統治する権限を獲得した。
将軍の権限の中核は,全国の武士を動員・指揮する源頼朝以来の武家の首長という点にあった。頼朝は,荘園制下の各地域で現実の所領支配に基づいて武力を蓄えた武士を,所領の授受または安堵による御恩と奉公の主従関係で結ばれる御家人として組織した。ここに頼朝(鎌倉殿)-御家人の関係が私的な授封関係であるヨーロッパのレーエン制に比定されるゆえんがあった。しかし,御家人は将軍である頼朝から守護,地頭などの職に補任されることで国家的軍事体系に組み込まれ,その権限を足場に荘園を蚕食して地域的な領主制を展開していったのであり,この点では将軍-御家人の関係には国家の官職による指揮・命令関係という性格を無視することはできない。このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名,旗本あるいはその家臣たちの所領支配と武力の私的性格は極限的にまで失われていたが,彼らはなお独立した戦闘単位としての性格を保存しており,彼らを公的な軍隊に編成・統制するところに江戸幕府の将軍権力の本質があった。
次に頼朝が直接動員しえたのは彼と主従関係を結んだ御家人だけであり,当時の社会には朝廷,寺社,国衙などと結ぶ諸勢力が広範かつ強固に存在し,武士であっても頼朝と主従関係にない非御家人は幕府の統制外にあった。また,御家人が家子,郎党などを従者として戦場に動員するのも,御家人の所領支配上の力によったもので,幕府の直接かかわることではなかった。
室町幕府になると,とくに3代将軍足利義満のころから将軍が朝廷や寺社のことに実質的に介入する傾向が顕著になり,他方で国衙を通じて賦課されていた皇居や伊勢神宮の造営費用が守護大名によって一国平均役である段銭としてその領国内に賦課されるようになり,両者あいまって武家による国家と社会の掌握が強まった。戦国期に入ると,守護大名のあとを受けて各地方に成立した戦国大名は,領国内の土豪的武士の家臣化を強力に推進し,さらに寺社,職人,商人,農民などの諸勢力をも自己のもとに統合しようとした。
この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。検地帳に付けられた百姓は,年貢を納める存在として移動の自由を奪われ,百姓身分にともなう役として築城や兵糧運搬の労役を提供する義務を課せられた。町人も,それぞれの職能に従って編成され,労役を提供させられた。
この役賦課の方式は,本所と座の関係や一国平均役にその起源を有するが,秀吉は国土に平和を回復することを名分とする,私戦の禁止によってこの方式を全国土に徹底させた。喧嘩(けんか)も含めて私戦とは,個人または集団の権利や利益を武力によって実現する方法であるが,戦国期以前の社会では都市と農村,侍・凡下を問わず一般的であったこの自力救済の慣行を秀吉は禁止し,この禁を無視して平和を乱すものを征伐するための公の軍隊の統制に従い,かつ役を提供するという形でこの軍隊に非戦闘要員として参加することを百姓,町人の身分に伴う義務としたのであった。この軍隊では秀吉の動員によらない武力の私的な行使は禁止された。この原則を百姓,町人にも適用したのが〈刀狩〉であり,彼らは武器を取り上げられることで自力救済の能力を欠く身分におとしめられたのであった。
天下統一の完成後に秀吉が無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったのは,このようにして戦争に国民を動員することが,そのまま支配体制の構築・強化であったからにほかならない。しかしこの出兵は現地では朝鮮人民の抵抗に出会うとともに国内では深刻な矛盾を引き起こし,敗色の濃いうちに秀吉は死んだ。
その死後の体制を五大老の筆頭として,そしてやがては征夷大将軍として引き継いだ家康の権限は,全国の武士と百姓,町人を軍事的に統率するほかに,室町幕府のそれをも受けて朝廷や寺社にも及ぶかつてない強大なものであった。ただし朝鮮出兵の失敗の教訓から,国内的には独自の大名配置などで軍事的緊張を維持しながらも戦争への動員ではなく,諸大名の参勤,築城,河川普請などへの動員によって体制の維持・強化に努め,対外的には蝦夷については秀吉の政策を受け継いだが,中国,朝鮮については秀吉が破壊した関係の修復に努めた。この基本方針によって諸大名の支持を得た家康は最後まで臣従しようとしなかった豊臣秀頼を大坂城に滅ぼし,徳川氏の幕府の基礎を磐石とした。
国土の平和と繁栄を代償として諸身分が本来的に有していた権利・能力を制限ないし剝奪することで成立していた秀吉以来の支配体制を受け継いだ幕府の政策の基本は,対外的には異文化の侵入から国土を守り体面ある独立を維持し,対内的には諸大名を指揮して百姓,町人の生活を安定させることにあった。国土の繁栄に関係があると当時は一般的に考えられていた宗教と呪術を支配する朝廷や寺社に対しては,幕府は〈禁中並公家諸法度〉や〈諸宗寺院法度〉によって天皇と公家,神官,僧侶が宗教的生活を全うし祈禱や儀式をしきたりどおり行うことを要求した。鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。
次に大名に対しては,〈武家諸法度〉などによって参勤と妻子を江戸に住まわせることを強制し,また城をかってに修理することを禁止するなど,規定以上に武力を蓄えることを防止した。さらに婚姻を許可制とするなど相互に同盟して謀反を起こすことのないように統制したほかに,随時に築城や河川の御手伝普請を命じて大名の財力を削減させる措置を講じた。他方では大名の領内の統治にも実質上介入し,領内の民衆の生活が保たれ,一揆などを起こすことのないよう指導した。大名の領内統治の状況は巡見使,隠密などによって監視し,治績の悪い大名は改易に処した。
農民に対しては,〈宗門人別改帳〉を事実上の戸籍として機能させてその離村を防止し,〈慶安御触書〉に見られるように耕作に専念して年貢を納めるのが百姓の義務であると教諭する一方で,五人組や村に相互監視と連帯責任を課した。初期には〈田畑(でんぱた)永代売買禁止令〉などで百姓が土地を手放すことを防いだが,18世紀以降は地主小作関係を事実上公認した。さらに農村工業の発展を背景とした農村構造の変貌が打毀などに至る過程に有効に対処することができず,幕府崩壊の遠因を招くことになった。
商工業については貨幣,度量衡の制度を統一し,西廻海運,東廻海運などの沿岸航路を開発してその振興をはかる一方で重要都市とくに京,大坂,江戸の三都を直轄することを通じて全国的流通の掌握をはかった。しかし19世紀になると諸大名が独自に国産の開発にのり出したことや,さらに開港後の外国貿易による混乱を統制しきれず,崩壊の一因となることを防げなかった。
幕府は譜代大名と旗本,御家人から成る軍事組織であり,その長である将軍が全国を行政的に支配するものであった。大名の所領支配は形式上は独自性が認められていたが,実質的には大名は幕府の意図を忖度し,それにそった施政を行った。大名の所領支配そのものが領内の平和の維持を含めて将軍の軍事的統率下にあることに立脚していたからである。幕府,大名の意思疎通は日常的には種々なレベルの個別的人脈によっていたが,公的には幕府の意思は大目付によって伝達された。大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。
幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。
それぞれの支配系統に属する者の間の紛争はその系統の内部で内済に付されるのが原則であったが,内済が不調な場合や支配系統を異にする者の間の紛争は最終的には幕府の裁決に持ちこまれた。
初期には,これらの支配と裁判を左右する意思の決定機関は将軍とその側近グループであった。各行政担当者からの報告は側近を経て将軍に伝えられ,将軍の決定は側近を通じて各担当者に下達された。家康の側近には,商人,職人,僧侶,儒者など多彩な人物が活躍したが,秀忠が将軍になると側近から遠ざけられ,秀忠の親衛隊である小性組などの隊長から取り立てられた人々が側近を固めるようになった。これらの人物は家光の代にも幕府の老(としより)/(おとな)として将軍の意思決定・下達に参加したが,このほかに家光の親衛隊長上がりのグループが〈若き老〉として新たに台頭した。前者が老中であり,後者が若年寄であるが,以後老中が主として幕府の全国支配に関することを担当し,若年寄が旗本,御家人の統率など幕府内部にかかわることを担当したのは,このころの職掌が先例として固定したためである。老中,若年寄が日常的に執務した江戸城中の御用部屋には右筆が付属し,先例調査,文書記録の作成に従事した。同じころに評定所一座の制が定められ,老中の指揮・立会いのもとに,政策決定や裁判が行われることになった。以上のように,家光のころ以降の幕府の組織は老中,若年寄を中心とした機構によって先例にのっとり運営されることとなった。初期にはそれぞれの軍事的・政治的能力によって将軍の親衛隊としての役割をになった旗本や譜代大名であったが,その子孫になると家柄(家格)によって幕府内部の地位が決定されることになり,その直参としての役割は形骸化する。他方では,将軍の代替りごとに新たに形成される側用人などの側近が将軍の取次ぎとして幕府の意思決定に実質的に参加することにより,老中以下の評定所の機能が形式化する場合や,家格制の下で有能な下級役人が実務上に大きな手腕を発揮する場合がしばしば見られたことも,中・後期の特徴であった。
幕府崩壊の遠因は貨幣経済の浸透による農村の変質と都市へのその反映に対処できなかったことにあり,享保,寛政,天保の幕政改革も十分な効果をあげえなかった。しかし直接の原因は,ペリーの来航に始まる開国の要求に直面しながら,鎖国にかわる新たな外交体制の樹立に失敗し,征夷大将軍として外国を統御する能力を幕府がもっていないことが天下に明らかになったことによる。来航の当初は別として,近代工業を基礎としたヨーロッパ諸国の軍事力に敵対しえないことが国内で認識されると,これら諸国をオランダのように江戸城に参府させるものとして受け入れるにせよ,対等な相手として国交を打ち立てるにせよ,相手方に対抗できる軍事力の建設が幕府の急務となった。しかし武器や操練法の導入には見るべき成果があったが,軍制の改革は不徹底なものに終わった。これは,幕府の軍制が家格によって成り立っており,その全面的改変は幕府の組織の全面的崩壊に連なりかねなかったからである。その点で幕府の軍制改革は,奇兵隊をはじめとする諸隊によって領内諸階層の軍事的再編に成功した長州藩のそれと対照的であり,その差が第2次長州征伐の敗北から大政奉還へと結果したのである。
→江戸時代
執筆者:高木 昭作
江戸幕府財政の構造は,直轄領(天領)からの貢租収入を基本とし,鉱山収益や,貿易,商業,運輸などの商工業者からの運上等の収入を加え,旗本,御家人への切米(きりまい)・扶持(ふち),役料,奥向や役所の経費,修復費や貸付金などに支出するという形態をとり,財政窮乏が進むと年貢外収入に依存することが多かった。幕府の財政基盤は,(1)関東,畿内,東海を中心に元禄以後400万石を超す直轄領の保持,(2)江戸,大坂,京都,奈良,堺,長崎など政治,商工業,貿易,運輸の要点の直轄と都市商工業者の掌握,(3)鎖国体制と糸割符(いとわつぷ)仲間を通じての貿易独占,(4)貨幣鋳造権の独占と貨幣材料の金銀や主要輸出品の銅の鉱山の直轄,(5)城郭や都市建設材産地の原始林の直轄である。幕府財政は質,量ともに卓越し,大坂を中核とする幕藩制的市場を掌握して藩財政,旗本財政を従属せしめた。
幕府の財政状態は,初期は金銀の産出,貿易の伸張により潤沢で,家康遺金は190万両余にのぼり,三家に75万両を配分,残りを久能(くのう)の蔵に納めたが,家康の蓄財は豊臣氏の遺金も合わせて膨大な額であった。秀忠の遺金は330万両余,大名,旗本らに分配後家光に267万両余が残った。家光は11回の日光社参,1634年(寛永11)の上洛,島原の乱,金56万8000両,銀100貫を要した日光東照宮造替など多額の出費にもかかわらず,死後52万両を一族に分与し財政は豊かであった。57年(明暦3)の大火で江戸城も焼失,本丸再建に93万両余,米6万7000石を使い,大名,旗本,江戸町人への拝借金,恩賜金があったが,駿府,大坂より103万両余を江戸に回送し,384万両余あった天守金銀には手をつけずにすんだ。しかし甲府,館林,尾張家などの拝借,下賜金米があり,76年(延宝4)20万両余の不足を生じ,家康以来の非常用金銀分銅や奥金蔵にも手をつけはじめた。寛永以後技術的限界により金銀採掘量が激減,貿易も不振なのに,旗本子弟の新規召抱えや役料創設など支出増が原因である。綱吉は遺金分配を廃し,80年堀田正俊を農政・国用専管の老中とし,82年(天和2)勘定吟味役を創置,不正代官51名を死罪または免職にした。89年(元禄2)小普請金を創設し収入増をはかったが,館林家臣団の幕臣編入,役料復活,綱吉の大名邸御成(おなり)と恩賜,造寺造仏への支出が膨張したので,荻原重秀は95年より慶長金銀を改悪し500万両の利益を収めたという。97年6000両の酒運上,99年貿易利潤から年数万両を収公する長崎運上金制度を設定した。けれども凶作・地震・大火の災害復旧,貨幣経済発展による物価上昇などで改鋳益金も霧消した。1707年(宝永4)の富士山噴火の灰除(はいよけ)金48万8000両も16万両を使ったのみで財政に繰り入れ,金銀分銅もほとんど鋳つぶした。
正徳の治は勘定吟味役を再置,代官の不正をただし,大庄屋を廃止した。荻原重秀を罷免し貨幣を古制に戻して正徳金銀を鋳造,金銀海外流出防止のため15年(正徳5)長崎貿易の年額を制限した。元禄以来の財政は窮迫し,22年(享保7)奥金蔵金銀は13万6616両に減少,切米支給や商人への支払いが停滞したので吉宗は上米(あげまい)の制を設け,年貢定免(じようめん)制を施行した。財政改革のため老中水野忠之を勝手掛に任じ,不正代官を退け,25年代官所経費を別途支給して口米(くちまい)を収公し,新田開発を奨励した。奥金蔵は100万両に達したが,米価低落に苦しみ,その対策と飢饉で享保末年21万両に減った。37年(元文2)勝手掛老中松平乗邑(のりさと)のもと神尾春央(かんおはるひで)が勘定奉行に就任,有毛検見(ありげけみ)取法による収奪強化で年貢総量,賦課率とも最大となり,宝暦初年まで高度収奪が続く。一方,頻発する江戸大火による拝借金,再建時の瓦ぶき・塗屋・蠣殻(かきがら)ぶき奨励貸付け,新田開発に伴う治水工事費の支出が増加した。年貢増徴は財政を安定させ,42年(寛保2)奥金蔵は100万両に回復,以後増加した。田沼時代には財政収入の重点を年貢外収入に移した。すなわち五匁銀・南鐐二朱銀新鋳,大坂銅座による産銅独占,棹銅・俵物輸出,朝鮮人参などの専売,株仲間への運上・冥加(みようが)賦課である。さらに印旛沼干拓,蝦夷地開発を企てたが,天明の飢饉,農民一揆により挫折,将軍家葬祭・社参費用,新田開発土木事業,飢饉災害救済など臨時出費が重なり,奥金蔵は130万両も激減した。寛政改革では倹約令の頻発にもかかわらず年貢収入は増えず,禁裏・日光・聖堂の修復,米買上げ,治水事業,蝦夷地入用が加わり支出増となった。年貢外収入は大名手伝金,国役金に公金貸付け返納と利子収入が経常収入として固定,未返済元金,延滞利金の回収困難から天保期には縮小せざるをえなかった。1819年(文政2)の貨幣改悪以降は改鋳益金が財政収入上比重を占め,同時に大坂・江戸町人への御用金や地方的な上納金に依存するようになる。天保期の財政は収支償わず,改革失敗後の老中土井利位(としつら)の財政改革は,江戸城本丸炎上と再建費67万両支出により失敗,改鋳益金に依存する態勢が固定した。開港後の関税収入は多くなく,将軍上洛,台場築造,海軍創設,製鉄造船所建設,対外事件償金,長州征伐などに巨費を要し,御用金,改鋳益金やついに外債を頼るに至り,明治政府の引き継いだ幕府外債は約600万ドルに達した。
江戸幕府の文書,記録は大量に作成されたにもかかわらず,現在わずかな量が残されているにすぎない。徳川宗家および幕府諸役所の文書,記録は,幕府倒壊,徳川氏江戸退去にあたってその多くが処分され散逸した。幕府の紅葉山文庫は明治以後修史館のち内閣文庫(現,国立公文書館内)に引き継がれ,書籍類のほか幕府日記等を所蔵している。評定所文書の一部は司法省・太政官文庫を経て帝国大学法科大学に移され,同図書館で関東大震災により焼失した。勘定所文書は散逸,隠滅し,大蔵省に引き継がれたわずかのものも震災で焼失した。寺社奉行所文書は内務省に引き継がれ関東大震災で焼けたが,一部は国立国会図書館と内閣文庫に所蔵されている。町奉行所文書は市政裁判所,東京府ついで上野の帝国図書館に引き継がれ,現在国立国会図書館が管理し,旧幕府引継書と呼ばれる。旧幕府引継書は,法令類を編集した《撰要類集》や《市中取締類集》,触留・町触,南北町奉行所年番書類,諸問屋再興調,札差記録,町方書上・寺社書上,外国事件書などが主要なもので,寺社奉行所の仕置類例集,評定所書留,普請奉行役所の御府内沿革図書などを含む。外国奉行の文書,記録は外務省ついで東京大学史料編纂所に移管され,《大日本古文書・幕末外国関係文書》編纂の基本史料となっている。徳川宗家文書は孝明天皇宸翰,将軍家茂・慶喜関係文書,幕末外国関係文書など点数も少ない。家康・東照宮の宣旨・位記等は日光東照宮に納められている。《江戸幕府日記》は御用部屋日記と本丸,西丸の右筆所日記が代表的であり,将軍や世嗣の動静や諸行事,人事,法令を記す。幕府日記は内閣文庫のほか東京国立博物館,宮内庁書陵部,国立国会図書館にも写本が架蔵され,姫路市立図書館酒井家文書,島原松平文庫にも幕府日記が所蔵されている。
執筆者:大野 瑞男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代、将軍徳川氏の統治機関をいう。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になったときに開府し、1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還上表を提出したことによって閉じた。この間、将軍は、2代秀忠(ひでただ)から家光(いえみつ)、家綱(いえつな)、綱吉(つなよし)、家宣(いえのぶ)、家継(いえつぐ)、吉宗(よしむね)、家重(いえしげ)、家治(いえはる)、家斉(いえなり)、家慶(いえよし)、家定(いえさだ)、家茂(いえもち)と継いだ。
[佐々木潤之介]
将軍徳川氏はもともと武士の棟梁(とうりょう)であり、封建的主従関係の頂点に位置しているとともに、公儀として幕藩制国家の君主としての地位をも占めていた。そこで、その将軍の統治機関としての幕府も、その両面の性格を兼ねもつこととなった。
そこで幕府の機能については、大きく次のようにまとめることができる。
〔1〕幕藩制国家の国家中央権力としての機能。幕藩制国家の国家権力機関は、幕府と、大名の統治機関である藩とからなっていた。藩は、大名領に区分された地方統治機関であったが、その統治の独自性は兵農分離制のもとで著しく制約を受け、幕府を中心とする中央集権的な国家機構の一部を担っているにすぎなかった。
幕府が国家中央権力として果たした機能は、以下のとおりである。
(ア)鎖国制のもとでの対外的国家主権の確立。長崎貿易における貿易独占、キリシタンの禁止と宣教師・信者の弾圧・追放がその例である。同時に、朝鮮に対する対馬(つしま)の宗(そう)氏、中国に対する琉球王府(りゅうきゅうおうふ)―島津氏、アイヌに対する松前氏などの、近隣他民族との関係についての国家的見地からの措置もとられた。
(イ)鎖国制と石高制(こくだかせい)のもとでの国内における国家的支配機能。(1)都市、商品流通の統制・支配の機能。三都(江戸、京都、大坂)をはじめとする主要都市の直轄支配とそれを通じての全国的商業に対する支配、流通支配と不可分に結び付いている貨幣鋳造権の独占、金銀銅など鉱産物に対する独占的統制、全国的交通運輸体制の支配と統制などの機能を果たした。(2)イデオロギー、宗教統制の機能。国家思想としての儒学に基づくイデオロギー体系とイデオローグの編成、キリシタンをはじめとする異端宗教・宗派の国家権力による弾圧・否定と寺社統制権の掌握と支配の機能を果たした。(3)国家支配の正統性論拠としての、伝統的呪術(じゅじゅつ)的権威の取り込みと統制。禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)に代表される天皇・朝廷の国家権力への包摂を実現し維持する機能を果たした。
〔2〕集権的領主制支配の中央権力としての機能。将軍は幕藩領主制の最高位者であり、その幕藩領主制は兵農分離の過程の所産として、統一的・集権的特質をもっていたから、将軍を君主とする国家統治機関としての幕府は、領主制権力中央機関としての性格をも強くもっていた。徳川氏は、その領主制的性格においては、日本全国の土地(約3000万石)の土地所有者であった。他方、徳川氏は、大名(御三家(ごさんけ)、親藩(しんぱん)、譜代(ふだい)、外様(とざま)に区分される)、旗本、御家人(ごけにん)よりなる直属家臣団を擁していた。このうち、大名と一部の旗本とは将軍から知行(ちぎょう)として所領を宛行(あてが)われ、それぞれにその所領支配をゆだねられていた。この部分を私領といい、その総額は約2300万~2500万石であった。旗本の他の部分と御家人とは、将軍から知行として禄米(ろくまい)を与えられて、支配所領をもたなかった。これらの直属家臣団と将軍との関係は、基本的には知行給与と御恩・奉公としての軍役関係によって貫かれていた。しかし同時に、これらの直属家臣団、とくに親藩、譜代大名、旗本、御家人は幕府行政の担当者でもあった。
この関係のもとで、幕府が果たした機能の一つは、約700万石の御領(幕府直轄領。天領ともよばれるようになった)支配であった。御領からの年貢諸役の収入は、前記の禄米と、幕府の行政経費と、将軍の家財政との主要な財源だったのである。そしてそのことは、集権的国家財政の主要な財政基礎であるということをも意味した。こうして幕府は、重要な機能の一つとして「地方(じかた)」支配を行った。そしてこの幕府の財政機能は、将軍財政が幕府財政と統合されていたから、将軍財政の財政機能をも果たすことになった。
同時に、幕府は、大名以下の武士団の結合の機関でもあった。武家諸法度に示されるように、集中と統一の原理に基づいて、武士団の結束を固めることが至上命令とされ、これに反する者は、将軍のもとに統一的に集結している圧倒的に強大な軍事力を背景にした、改易・移封・減封という懲罰方法によって処分された。
[佐々木潤之介]
幕府のこれらの機能は、一挙に形成されたものではなかった。関ヶ原の戦い後、西軍の諸大名の所領没収や減・転封と譜代大名への所領配分を終わってのち、畿内(きない)の諸都市をはじめとする都市の直轄支配への組み込み、貨幣鋳造権の独占と鋳貨、農政の基本方針の決定などのことは、幕府が開府される前にすでに進行したことであった。
開府後2年で家康は秀忠に将軍職を譲ると駿府(すんぷ)(静岡市)に移ったが、なお幕政の実権を握っていた。家康は秀忠に軍事政権としての徳川政権の強化を任せ、自らは駿府で本多正信(ほんだまさのぶ)らを重用して、国政にかかわる財政から貿易、キリシタン問題などを扱っていた。この体制を駿府・江戸両政権併立の体制という。やがて、大坂の陣の帰趨(きすう)が明らかになるころから、陣後にかけて、家康は、軍役規定の改定、一国一城令、五山をはじめとする仏教諸宗への法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度の制定、畿内の御領への組み込み、大坂・堺(さかい)支配などの重要政策を次々と強行したうえで、1616年(元和2)に病死した。両政権併立時代は終わり、幕府は江戸に一本化されたが、家光時代の幕府体制の確立は、秀忠の死(1632)後に始まった。後の若年寄(わかどしより)の先駆である六人衆の設置、溜詰(たまりづめ)の始まりとされる補佐役の任命、駿府・京都などの町奉行(まちぶぎょう)の新・再置、作事(さくじ)・書物方(かきものかた)などの奉行や大目付の設置など諸役が整えられるとともに、評定所(ひょうじょうしょ)取扱規定や、老中・若年寄以下の幕府職務規定が定められ、ついで武家諸法度や軍役規定の改定を行った。同時に1633年(寛永10)に第1回の鎖国令が出た。一方で、大坂を中心とする国内の経済体制を整えながら、鎖国は進められていき、1637年の天草・島原の乱を経て、1639年に鎖国は完成した。それに続いて、凶作による農村立て直しを機に、新たな「地方(じかた)」支配の方向が追求され、展開していく。田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)(1643)から慶安御触書(けいあんのおふれがき)(1649)に至る経緯はその所産であった。
参勤交代制も譜代大名の交代制までを含めて1642年に確立したし、幕府財政・勘定方制度の確定や、年貢米の大坂への廻米制(かいまいせい)、大坂・江戸の町方制度の整備等々のことが行われたのも、1643年(寛永20)から1651年(慶安4)までの間のことであった。そして、幕府の中央国家権力としての絶対的地位の確立を示すのが、正保(しょうほう)の国絵図と郷帳の作成(1644)であったといわれる。
[佐々木潤之介]
家康・秀忠時代、幕政の国政的側面を担当したのは、大久保長安(おおくぼながやす)らの出頭人(しゅっとうにん)とよばれる人々であった。それは封建的主従関係の序列とは別の、行政的能力によって登用された者であった。家光時代に至り、幕府職制が確定するにつれて、譜代大名・旗本の国政上の役割が明らかにされるようになり、分役制度によって、彼らによる幕政の実際が運用されることとなった。そしてそのことは、譜代大名・旗本の、幕藩制的官僚化をも進めた。将軍の直属家臣団は、軍事的体系である番方(ばんがた)と、行政的体系である役方(やくがた)との、二つの序列によって編成されることとなった。
将軍の家臣は、それぞれに、将軍との間の封建的体系と秩序のなかに位階制的に編成され、その序列は格として定められていた。したがって、軍事的序列と行政的序列とは、この格によって対応させられることとなった。
このように形成された幕藩制的官僚が担い手となった幕政は、家光時代に続く寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)年間(1661~1681)に展開した。この時期は、幕府体制や幕政の諸機構の整備と、幕政の展開によって、幕藩体制の確立期ともいわれる。しかし、現実の戦争状態と可能性とが遠ざかり、国内の社会経済が変動しつつ進展してくるにつれて、格は軍事的序列との間には矛盾がないものの、行政的な資質と能力とを必要とし、それによって体系だてられるべき、行政的体系・秩序との間に矛盾関係が出てくるのは当然であった。また、官僚制的機構が確立したとはいっても、なお将軍の公儀としての絶対的権力が前提となっており、将軍の独裁性は保持されていた。
そこで、17世紀末ごろから、幕政の主導権は不安定に変転していった。(1)将軍がその政治的実権を自ら行使した場合(綱吉時代、吉宗の享保(きょうほう)の改革など)、(2)将軍の政治的無能力を前提として、格序列に基づく行政担当者が実権を掌握した場合(寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革など)、(3)行政的能力によって登用され、格序列はその登用につれて変動していった者が実権を握った場合(側用人(そばようにん)政治の時代や正徳(しょうとく)の治、田沼時代など)に分けることができる。しかし、江戸時代を通じて、開国に至るまで、幕府とその政治は、一貫して、どのように、幕府成立期の状態に即して幕藩体制を立て直すかという方針をとり続けていた。その方針が開国によって否定されたところから、幕府はその倒壊の仕方について、大きく動揺し始めた。安政(あんせい)・文久(ぶんきゅう)・慶応(けいおう)年間(1854~1868)の幕政の改革はその現れであった。
[佐々木潤之介]
『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(1971・日本評論社)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』(1982・東京大学出版会)』▽『北島正元著『江戸幕府』(1975・小学館)』▽『北島正元著『江戸幕府の権力構造』(1964・岩波書店)』
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徳川将軍家を最高権力者として,江戸に存在した武家による全国支配政権。1603年(慶長8)の徳川家康の征夷大将軍職任命に始まり,1867年(慶応3)の徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還までの265年間,将軍は15代続いた。将軍は全国の大名らとの間に主従関係を結び,改易など大名への処分権を前提に,外様大藩の支配領域などに対しても間接支配を行った。一方幕府組織および軍事力の中核をなしたのは,徳川氏の従来からの家臣の譜代大名や旗本・御家人である。組織は老中および若年寄を中心とする。老中の下には勘定奉行・町奉行をはじめ,大名の監視にあたる大目付・遠国奉行など,全国政権としての幕府の機能に関わる役職が多く存在した。これに対して若年寄の下には,将軍の親衛隊としての書院番頭・小姓組番頭や,新番頭・目付など将軍直属家臣団の指揮に関わる役職が多い。このほか朝廷の護衛・監視および取次などを行う京都所司代,将軍と老中・若年寄の連絡にあたる側用人などがある。財政的基盤としては全国に400万石以上(中期以降)の直轄地をもち,主要な都市・鉱山などを直轄支配して,全国の市場構造を掌握。軍事的には旗本・御家人中心の直属軍をもち,その規模は単独の外様大名のそれをはるかに上回った。しかし長期的には,農民的商品生産の進展に代表される全国市場構造の変化に対応できなかったため慢性的な財政危機を招き,数度の幕政改革による建直しにもかかわらず,幕府の全国政権としての地位は少しずつ傾いていく。幕末期の列強の外圧に対しては,幕藩制的な軍役構造の無力さを露呈。最終的には,鹿児島や萩などの雄藩勢力に全国政権としての地位を否定されるにいたった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ただし藩法という名称は,明治になって用いられたもので,江戸時代には〈家法〉〈国法〉などと呼ばれた。宗門改め,度量衡,交通など江戸幕府の全国的支配権に属することを除けば,藩はかなりの自律を認められ,〈万事江戸之法度の如く,国々所々に於て之を遵行すべし〉(寛永12年武家諸法度)といった限定はあるものの,各藩はそれぞれ別個の藩法を施行した。一方,幕府制定法には,諸大名にも触れ知らせる法と,幕府領のみに発する法とがあった。…
…江戸幕府の職制を記した書物。向山篤(誠斎)編。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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