精選版 日本国語大辞典 「沢村宗十郎」の意味・読み・例文・類語
さわむら‐そうじゅうろう【沢村宗十郎】
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歌舞伎(かぶき)俳優。屋号は代々紀伊国屋(きのくにや)。
[服部幸雄]
(1685―1756)武士の家に生まれたが、青年時代に俳優を志し、旅回りの端役(はやく)から出発。初め大坂で修業したが、のち江戸に下り、1718年(享保3)沢村宗十郎と改め、やがて江戸歌舞伎を代表する名優になる。のちに3世沢村長十郎、さらに初世助高屋高助(すけたかやたかすけ)と名を改めた。容姿に優れ、口跡(こうせき)はさわやかであった。上方(かみがた)の長所を取り入れて江戸風の欠点を補い、和事(わごと)・実事(じつごと)の演技に独自の芸風を築き上げた。人気抜群であった2世市川団十郎と並んで「両輪の名花」とたたえられた。
[服部幸雄]
(1713―70)初世の養子。若女方(わかおんながた)から立役(たちやく)に、さらに実悪(じつあく)に転じたが、実悪にもっとも優れた。風姿がよく、品格があった。
[服部幸雄]
(1753―1801)2世の次男。沢村田之助を名のり子役で名をあげ、立役に進んで1771年(明和8)3世を襲名。初世並木五瓶(ごへい)が彼のために多くの名作を書いたので、人気はいよいよ高まり、江戸立役の名優として重んじられた。容姿に優れて、和事が得意で、色事師の随一と称された。大星由良之助(ゆらのすけ)は古今無比と絶賛された。
[服部幸雄]
(1784―1812)3世の長男。初世尾上(おのえ)栄三郎(後の3世菊五郎)・7世市川団十郎と並び、江戸若手の三幅対(さんぶくつい)と称されて期待されたが、29歳の若さで病死した。
[服部幸雄]
(1802―53)4世の門弟。1844年(天保15)7月5世を襲名。後に5世沢村長十郎、3世助高屋高助を襲名した。容姿に優れ、品位があり、とくに家の芸である和事に技量を示した。
[服部幸雄]
(1838―86)5世の長男。2世沢村源平(げんぺい)、2世訥升(とっしょう)を経て、1879年(明治12)4世助高屋高助を襲名した明治の名優。この人は実際には沢村宗十郎を名のらなかったが、沢村家では6世に数えている。
[服部幸雄]
(1875―1949)4世助高屋高助の養子。1908年(明治41)7世を襲名。女方(おんながた)をも兼ね、江戸役者の伝統を継ぐ最後の和事師と称された。『太功記』の十次郎、『双蝶々(ふたつちょうちょう)』の与五郎、『吉田屋』の伊左衛門などを当り芸とし、女方では『矢口渡(やぐちのわたし)』のお舟、『妹背山(いもせやま)』のお三輪(みわ)などの娘役のほか、晩年には微妙(みみょう)・覚寿(かくじゅ)など老婆役の難役にも優れた味をみせた。当り役を集めた「高賀(こうが)十種」がある。
[服部幸雄]
(1908―75)7世の三男。一時、2世市川左団次の養子になって市川松莚(しょうえん)を名のったが、1933年(昭和8)実家に戻り、新宿の新歌舞伎座時代には4世訥升の名で立女方(たておやま)として活躍。53年(昭和28)8世を襲名。
[服部幸雄]
(1933―2001)8世の長男。本名沢村寿一。1976年(昭和51)5世沢村訥升から襲名。古風な狂言にとぼけた味の出せる貴重な俳優であり、立役・女方を兼ね、悪婆役にも意欲をみせる。毎年「宗十郎の会」を催していた。なお、弟に女方の2世沢村藤十郎(1943― )がいる。
[服部幸雄]
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