精選版 日本国語大辞典 「河内木綿」の意味・読み・例文・類語
かわち‐もめん かはち‥【河内木綿】
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河内(大阪府南河内・北河内)地方でつくられた木綿織物。江戸初期から農家の副業として綿を栽培し、手織りで織っており、すでに産物として『日本鹿子(かのこ)』(1691)に河内木綿・久宝寺木綿がみえる。糸は太く地質が厚かったことから、のれんや幟(のぼり)、はっぴ、浴衣(ゆかた)地、ふとん地、足袋(たび)表、酒袋などに重宝されたという。もともと白木綿であったが、各地に問屋組織が生まれ、商品化されるにつれて、縞(しま)物、型染めしたものも織り出されるようになった。そして天保(てんぽう)年間(1830~44)の河内国の織出し高は200万反以上にもなったといわれる。ところが明治時代になると、外国の木綿糸が輸入される一方、洋式紡績業が移植されて、しだいに衰える。明治中期には手織り木綿は消滅し、現在は機械紡績糸による中小企業の工場がそれを受け継ぎ、木綿を織り続けている。
[角山幸洋]
『武部善人著『河内木綿史』(1981・吉川弘文館)』
近世以来おもに河内国で生産された白木綿・縞(しま)木綿・雲斎・厚司などの糸太地厚の綿布。河内は近世初期から綿作が盛んで,やがて繰綿(くりわた)・手紡糸・綿布が農家によって生産されるようになった。そのうち綿布は大永・享禄年間(1521~32)に作られ始めたともいわれるが,本格的発展は元禄年間(1688~1704)とみられる。以後河内は他の綿織物産地を圧倒して成長し1830年(天保元)頃年産300万反に達したというが,近世を通じこの水準に到達した綿織物産地は他に例がない。幕末の弘化年間(1844~48)以後河内の綿布生産は停滞し,明治期には後発産地の泉南などに押され不振となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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… 河内は木綿生産地として早くから知られ,《毛吹草》(1638序)にも名産〈久宝寺木綿〉の名がある。河内木綿は糸太の厚地で染めも洗練されておらず,大坂の商家などでは丁稚(でつち)の仕着などの服地とされ,また京坂の綿服はほとんど河内木綿を用いるなど庶民に愛用された。綿作も摂津,和泉,尾張,三河と並ぶ全国有数の地域で,明治前期の実綿生産額は河内で709.4万斤(1876‐82年平均)と全国第3位(1位は摂津で768.6万斤)であった。…
※「河内木綿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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