江戸時代に移植・研究された西洋学術の総称。西洋学術の移植・研究がはじまるのはキリシタン時代で,当時それは〈南蛮学〉または〈蛮学〉とよばれた。ポルトガル,スペインなどの南蛮国から渡来した学術という意味である。鎖国後,代わってオランダ系学術が,長崎のオランダ通詞を中心に学ばれるが,それもやはり,〈蛮学〉とよばれた。オランダ系西洋学術が〈蘭学〉という名でよばれるようになるのは,江戸でオランダ解剖書が翻訳され,蘭書に基づく本格的な西洋学術研究が開始されて以来のことである。これにたいして〈洋学〉は,はじめ〈蘭学〉と同じ意味で用いられた。しかし,この名称が一般化するのは,幕末開港後である。この時期になると,オランダ系のほか,イギリス系,フランス系などの学術が移植・研究された結果,蘭学という名称では,これらを包括することができなくなったからである。
鎖国後,南蛮系西洋学術に代わって,オランダ系の学術が移植・研究されるようになるが,17世紀を通じて本格的な西洋学術研究はおこらず,わずかに医学の領域で南蛮流外科と並んでオランダ系外科が,紅毛流という名で伝習されたにすぎない。しかもその内容は,出島駐留の蘭医から学んだ簡単な外科手術や膏薬療法からなる低俗なものであった。本格的な研究が開始されるためには,元禄期(1688-1704)を境とする国内の経済的発展と,これに伴う経験諸科学の興隆の気運をまたなければならなかった。なかでもその糸口を開いたのは享保期(1716-36)の将軍徳川吉宗の実学奨励である。吉宗の治世は商品経済の発達に伴い,封建的支配がようやく動揺を示しはじめた時期にあたる。彼はその対策として殖産興業策を取りあげ,おりから発達の途上にあった自然科学を政治的に利用しようとした。彼が禁書制度を緩和して漢籍系西洋科学書の輸入を容易ならしめたのはその現れであるが,ほかに野呂元丈に命じて西洋本草学の内容を参府の蘭人に尋ねて調査させ,あるいは青木昆陽に蘭語学習を命ずるなどして,西洋学術の育成につとめている。その結果,吉宗の殖産興業策を大規模に推進したつぎの田沼時代になると,西洋学術への関心が一段と高まり,杉田玄白,前野良沢らによる解屍実見と,これにつづくオランダ解剖書の翻訳《解体新書》の刊行となって結実した。彼らはこの挙をもって新学問の創出とみなし,これを〈蘭学〉とよんだが,それは単に蘭書の翻訳による西洋学術の本格的な移植・研究の道が開かれたことを意味しただけではない。彼らは西洋学術の根底をなす科学的認識に注目し,陰陽五行の空理に依拠する在来科学にたいし対決の意味をこめて,そうよんだことを忘れてはならない。
蘭学は,その出発点となった医学を中心に発達したが,まず一方では外科,内科,眼科,産婦人科などの臨床部門がつぎつぎと紹介されるとともに,他方これと並行して解剖学,生理学,病理学の順序で基礎医学の研究が行われ,さらにこれとの関連で物理学,化学などが逐次開拓されている。もちろん基礎医学,基礎科学の研究といっても紙上の研究にすぎないが,それにもかかわらず重要なのは,彼らがこの研究にかなりのエネルギーをさいていることである。このことは,彼らが技術的実践における基礎科学のもつ意味を理解していた事実を示すものと評価してよいであろう。
江戸を中心に発達した医学系蘭学のほかに,今一つあげられるのは天文暦学系蘭学である。それは細別すれば,江戸における天文方の改暦事業と結びつくものと,長崎の通詞系蘭学に分けられる。前者は漢籍系西洋天文学書の研究にはじまり,のちにラランデ暦書のような蘭書の翻訳・研究も行われるようになるが,目的はもっぱら造暦技術の修得におかれていた。その点で,基礎科学研究を重視する江戸の医学系蘭学とは系統を異にする。これにたいして通詞系蘭学の場合,天文学・暦学・航海術,それに地理学・医学をも含むが,それらはおおむね通詞が本務のかたわら余技としてなされたもので,研究的な要素は稀薄である。もっとも,例外としてあげられるのは志筑忠雄の《暦象新書》である。同書は単なるニュートン力学の紹介書の翻訳ではなく,高度の研究的内容をもつことは研究者の等しく認めるところである。だがしかし,志筑が研究対象としたニュートン力学が伝統的な学問と異質なものであるにもかかわらず,彼の研究態度にはこれと対決する姿勢が認められぬばかりか,陰陽五行理論を援用しながら,その理解につとめている。その意味で彼の蘭学は,旧自然観に接木された西洋自然科学の体系と評価されてもやむをえまい。これにたいして江戸の医学系蘭学は在来科学の空理性をあばき,これとの対決を通じて展開されたもので,これが蘭学の主流を占めたのはけだし当然であろう。
蘭学には科学技術のほかに,今一つ世界地理学ないし西洋事情の研究が含まれる。この研究を促進した主要な要因は対外関係の危機化である。対外的危機が発生したのは18世紀の後期で,科学技術としての蘭学が興起した時期とほぼ一致していた。そこで蘭学者は,西洋諸科学の研究につとめるかたわら,海外事情の紹介者ともなった。これにたいして為政者側も,蘭学者を動員して世界知識の吸収につとめている。いま世界地理学を例にとれば,すでに蘭学興起の当初から世界地理書の訳述が行われ,朽木昌綱の《泰西輿地図説》(1789)や山村昌永の《訂正増訳采覧異言》(1803成立)のような学術的な地理書が撰述されている。しかしこれとは別に,対外関係の緊張に伴い時局的な立場からの研究も行われるようになる。その種のものでは前野良沢が公命により訳出した《柬砂葛記(カムサスカき)》(1789成立)をはじめ,ロシア使節ラクスマンが渡来したさい桂川甫周が訳出した《魯西亜志(ロシアし)》(1793成立)があり,またロシアとの関係が悪化した文化年間(1804-18)には山村昌永が《魯西亜国志》《魯西亜国世紀》(ともに1806成立)などを訳出している。さらに1808年(文化5)には世界地図編纂のために通詞馬場佐十郎が天文方高橋景保の下に招致され,幕命によりロシア関係の地理書や史書を翻訳している。このようにして幕府と蘭学者の間に共生関係が生まれた結果,11年には,暦局の付属機関として蘭書翻訳の部局が設けられ,前記馬場のほか江戸の蘭学者が動員されて,翻訳業務にたずさわることになる。しかし,このことは,蘭学がいわゆる封建制補強の具として,つねに権力と癒着していたことを意味するものではない。
蘭学の興起をもたらした国内の経済的発展は,封建制度を内部から掘りくずしたばかりでなく,封建的イデオロギーの相対化をもたらし,新思想を生みだす前提をつくった。蘭学はまさにこの時期におこったのである。したがってその研究は,単なる科学技術の領域にとどまったのではない。科学技術としての蘭学の優秀性を認めることは,これまで〈夷狄〉と価値づけられた西洋諸国の文化的優越を認める道を開くことを意味する。とくに蘭学者あるいは蘭学系思想家にとって,卓越した科学技術を生んだ西洋の社会機構,あるいは西洋文化の全体に通ずる思想的原理はいかなるものか,という素朴な疑問が提起される。あるいは対外的危機をもたらした西洋諸国の富強に注目して,そのよってきたる原因をさぐることにより,衰退にひんした封建社会の危機を克服しようとする経世的思索が生まれる。しかし,権力側が,このような洋学の封建制批判的な動きを黙視するはずはなかった。とくに寛政改革の一環として行われた思想抑圧策は洋学にも及び,林子平の処罰を境に幕府は蘭学の統制にのりだした。このことが蘭学者に衝撃を与え,彼らは権力の庇護下に入ることにより弾圧を免れようとした。その結果が前述した暦局の付属機関としての訳局の成立であり,これにより蘭学が私学から転じて公学化した。とはいえ蘭学の属性というべき科学的探究心や批判的精神は,これを学ぶものの内部に生きつづけた。シーボルト事件(1828)といい,蛮社の獄(1839)といい,いずれもこのこととは無関係ではなかった。
蘭学は権力側の規制・弾圧をうけながらも,内外の危機の深化につれて,しだいに権力内部に浸透する。その時期は危機が幕末段階に入った天保以降である。とくにアヘン戦争(1840-42)が権力側に深刻な衝撃を与えた結果,洋学の重点は医学から軍事へと転じ,西洋軍事科学の移植・研究が活発となった。このような時局を反映して,民間の蘭学塾も繁栄を示した。なかでも江戸の伊東玄朴の象先堂や大坂の緒方洪庵の適塾はいずれも天保年間(1830-44)に設立され,門人は膨大な数にのぼり,出身地も全国に及んでいる。その中には医者ばかりでなく武士階級出身者が相当含まれ,彼らが幕府や諸藩に仕え,軍事科学の担い手となった。西洋軍事科学の導入はアメリカ艦隊来航(1853)以後になると全国的規模にまで広がる。これに基づく軍備の充実は封建的軍事組織の解体を不可避としたが,新設の海軍はともかく,陸軍にかんするかぎり,旧軍制との妥協のうえに火砲を主体とする編成替えを行ったにすぎない。しかし,鉄砲鋳造のために反射炉や溶鉱炉などの施設が設けられ,火薬の製造と結びついて理化学方面の研究が開かれ,また長崎における海軍伝習に伴い組織的な科学技術教育が行われ,あるいは総合工場というべき横須賀製鉄所が設けられた結果,ここに日本における近代科学技術の素地がつくられた。またこれとならんで殖産興業技術の導入がはじまるのもこの時期である。幕府の洋学校である蕃書調所に1861年(文久1)物産学が特設されたのはこの目的からであり,また薩摩藩の集成館にしろ,佐賀藩の精煉方にしろ,同様の任務を兼ねていた。軍事工業の振興=強兵と殖産興業=富国とが表裏一体の関係におかれていたのが,幕末洋学の特徴的な点である。もっとも,幕末洋学は富国強兵のための科学技術の導入にのみかぎられていたわけではない。その範囲は法律・経済・社会・統計などの社会科学から歴史・哲学などの人文科学にまで及んでいる。しかも鎖国時代とはちがって,オランダ語のほか英語,フランス語,ドイツ語等が学ばれ,あるいは直接外国人について学ぶ機会に恵まれ,海外に留学生も派遣されたから学問的レベルは高まり,明治以降における学問の近代化を準備した。
執筆者:佐藤 昌介
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江戸時代後期を中心にして、西洋事情・西洋科学に関して行われた研究およびその知識の総称。西洋の学術・文化・技術の日本への伝来は、16世紀中ごろ、キリスト教の布教とともにポルトガル人、スペイン人によって始まったが、これは南蛮学、蛮学などとよばれた。やがて江戸幕府が鎖国政策をとったことにより、西洋の学術・文化は、日本への渡来を許された唯一の西洋の国オランダが長崎出島(でじま)に建てたオランダ商館を通じて、オランダ語を介して移入されることになり、これは蘭学(らんがく)とよばれた。鎖国政策が緩み、開国政策がとられた幕末期になると、オランダ人以外の諸外国人も渡来するようになり、イギリス・フランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。洋学ということばはこの時期以降に一般化した。洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。
[大鳥蘭三郎]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
江戸時代に学ばれた西洋学術の総称。大航海時代にポルトガル・スペインなどからキリスト教とともに伝わった学術を蛮学とよんだ。鎖国後は宗教色の少ないオランダ系学術の移植・研究が行われ,蘭学とよばれて広く用いられた。洋学ははじめ蘭学と同じ意味に用いられたが,幕末・開港期にイギリス系・フランス系などの学術が移植・研究されると,蘭学の名称で包括することができなくなり,一般的名称になった。蛮学に続く蘭学の初期はオランダ語を通じて医学を中心に学ばれ,享保期の天文学・暦学をへて,田沼時代以降多方面に本格化した。18世紀後半から生じた北方問題を契機に,世界地理や地図の調査・研究が行われ,海外情報の収集・研究が進められた。アヘン戦争以降,ペリー来航に至る日本をめぐる国際情勢の変化にともない,兵学・築城学など軍事科学・技術の習得が盛んとなった。洋学の発達にともなって,封建制批判も芽ばえたが,幕政批判は弾圧され,以降の洋学は殖産興業・富国強兵にむかった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…それに加わる条件を上述のなかから探ろう。その前に幕末の洋学の意味を経済の見地からみておこう。 幕末の洋学は軍事面と医学を中心とする。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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