中国、河南(かなん)省北西部の地級市。崤山(こうざん)山脈の北邙(ほくぼう)山や熊耳(ゆうじ)山脈に囲まれ、黄河(こうが)の支流洛河(南洛河)の河谷盆地にある。市街行政区は老城(ろうじょう)、西工(せいこう)などの6市轄区に分かれ、ほかに孟津(もうしん)、新安(しんあん)など8県を管轄下に置き、偃師(えんし)市の管轄代行を行う(2016年時点)。人口696万2000(2014)。
1948年、洛陽県の市街部に市制が敷かれ、洛陽市が成立。市街は、東部の金(きん)代以来の旧市街地である「老城」と、中華人民共和国成立後に発展した西部の新市街部からなる。70余万平方メートルの広さをもつ中国有数の洛陽(東方紅)トラクター工場をはじめ、軸受、鉱山機械、ガラス、綿紡織などの近代工業が発達している。市外の農村部では小麦、トウモロコシ、大豆、ワタを産出する。とくにワタは揚子江(ようすこう)デルタや江漢平原に次いで高い単位当りの生産高を誇っている。洛陽東駅では隴海(ろうかい)線と焦柳線(焦作(しょうさく)―柳州(りゅうしゅう))が交差するほか、市内を鄭西旅客専用線(鄭州(ていしゅう)―西安(せいあん))が通り、省内の各都市と城際(都市間)鉄道で結ばれるなど、河南省西部の交通の拠点ともなっている。
北京(ペキン)、西安、開封(かいほう)などとともに中国六大古都の一つで、市内には竜門石窟(せっくつ)や中国仏教の発祥地と伝えられる白馬寺、三国時代の英傑関羽(かんう)の墓のある関林、各時代の故城などの古跡が数多く残っている。
[駒井正一・編集部 2017年12月12日]
中国古代史の主要な舞台となった中原(ちゅうげん)と関中平原とを結ぶ交通の要衝に位置し、西周時代の洛邑(らくゆう)以来、政治や文化の一中心として栄えた。洛陽の地は、南は洛河に臨み、北は邙山を控えた小平野で、邙山の北には黄河本流が西から東へ流れている。
初めてここを国都としたのは東周で、その後、後漢(ごかん)、魏(ぎ)、西晋(せいしん)もここに都を定めた。北魏もまた大同(だいどう)から都をこの地に移し、さらに隋(ずい)・唐時代には西都長安に対する東都として繁栄した。このあと、五代十国の後唐(こうとう)や後の中華民国も一時洛陽を都としたので、九朝の都とよばれている。
東周洛陽城は、現市街地西方の一角に位置し、漢魏洛陽城は東郊に、それぞれ遺跡を残している。57年、倭(わ)の奴国(なこく)王は後漢に使者を送り、光武帝から印綬(いんじゅ)を賜ったという記録が『後漢書(ごかんじょ)』に記載されているが、倭の使者が皇帝に謁見したのはこの漢魏洛陽城であり、古代日中交流史にとって重要な遺跡である。
北魏は493年に都を洛陽に移したが、この北魏洛陽城は前代の都城を四周に広げ、東西約9キロメートル、南北約7キロメートルの規模とした。ここには11万人が住み、仏寺は1367を数えたと記録されているが、北魏末には兵火に焼かれ壊滅した。隋・唐時代には、ふたたび漢魏洛陽城の西方の地に大規模な都城を建設し、江南や華北の物資がここに集積され、大いに栄えた。先年発掘された含嘉倉(がんかそう)は、唐の地下穀倉群であり、400余基に上る巨大な穴倉(あなぐら)が発見されている。
洛陽は、中国古代文化の中心地でもあり、漢代には史家の班固(はんこ)、紙の発明者蔡倫(さいりん)、名医華佗(かだ)などが活躍し、唐代には李白(りはく)、杜甫(とほ)、白居易(白楽天)がここで多くの名詩を残した。洛陽には、中国最古の仏寺といわれる白馬寺や、南郊には北魏に始まる竜門石窟があり、仏教の一中心地でもあった。後唐以後、洛陽は一地方都市として衰微の一途をたどったが、中華人民共和国の建国によって再生し、近代都市として発展しつつある。
[田辺昭三 2017年12月12日]
竜門石窟が2000年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録されたほか、2014年には後漢北魏洛陽城、隋唐洛陽城定鼎門(ていていもん)が「シルク・ロード:長安‐天山(てんざん)回廊の交易路網」の構成資産として、また含嘉倉遺跡、回洛倉(かいらくそう)遺跡が「中国大運河」の構成資産として、世界文化遺産に登録されている。
[編集部 2017年12月12日]
『西嶋定生編『奈良・平安の都と長安』(1983・小学館)』
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東周,後漢,三国魏,西晋,北魏,武周(則天武后)などの古代王朝の都。周の時代には東西に10km隔てて二つの洛陽が築かれたといわれている。周公旦(しゅうこうたん)が築き平王以降に東周の王の居所となった東周王城と,その東に西周成王が築き殷(いん)民を居住させた洛邑(らくゆう)(成周)とがある。黄河中流の支流洛河(らくが)の北(陰陽の陽)につくられたので洛陽と呼ばれた。後漢は東周城を河南城として残し,その東に洛陽城を築いて都とした。漢魏洛陽城と呼ばれ,北魏の都,隋唐の副都として引き継がれていく。後漢の洛陽城は南北9里,東西6里の長方形で九六城と呼ばれ,北宮と南宮が分散していたが,北魏の洛陽城では宮城が北に寄り,その南に官庁街が整然と並んだ。戦国や後漢の時代には「雒陽」という字を使った。
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…中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。古くから宋代まで全中国の政治・経済・文化の中心で,中原を制圧するものは天下を支配することができると信ぜられた。…
…中国の古代地理書である〈禹貢〉(《書経》の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。古くから宋代まで全中国の政治・経済・文化の中心で,中原を制圧するものは天下を支配することができると信ぜられた。…
…これが隋代の江南河のもとである。その後,東晋の桓温,宋の劉裕の北伐のときには,淮河,泗水を経て済水(清水)をさかのぼって黄河に入り洛陽に達した。劉裕はさらに長安まで行ったのであるが,その帰途は洛水から黄河に入り,汴渠を開いて泗水,淮河を経由し長江に到達したのである。…
…中国で最初の統一王朝を建国した秦の始皇帝は,長安(現,西安)の北西にあたる咸陽城を拡張して統一帝国の首都にふさわしい大都城としたが,秦の滅亡の際にすっかり焼き払われた。前漢は長安に,後漢は洛陽にそれぞれ都城をおいて以後,これら長安と洛陽は,しばしば後の王朝の首都あるいは副都となった。すなわち長安は五胡十六国時代の前趙,夏,前秦,後秦と西魏,北周,隋,唐の各王朝の首都であり,洛陽は三国の魏,西晋,北魏,後唐の首都で,隋と唐の副都とされた。…
※「洛陽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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