洪武帝(読み)コウブテイ(その他表記)Hóng wǔ dì

デジタル大辞泉 「洪武帝」の意味・読み・例文・類語

こうぶ‐てい【洪武帝】

しゅげんしょう(朱元璋)

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精選版 日本国語大辞典 「洪武帝」の意味・読み・例文・類語

こうぶ‐てい【洪武帝】

  1. しゅげんしょう(朱元璋)

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改訂新版 世界大百科事典 「洪武帝」の意味・わかりやすい解説

洪武帝 (こうぶてい)
Hóng wǔ dì
生没年:1328-98

中国,明王朝の初代皇帝在位1368-98年。姓名朱元璋(しゆげんしよう)。彼は中国史上に一世一元制を創始したので,その元号により洪武帝という。廟号により太祖ということも多い。彼は濠州(安徽省鳳陽県)の貧農の子に生まれ,若くして親,兄弟をなくし,一時僧侶となった。ちょうどこのころ,韓林児を首領とする紅巾の乱が起こり,その一党であった郭子興も濠州を占領して反乱にたちあがった。彼は意を決して郭子興軍に投じ,紅巾軍の一兵士となったが,たちまち頭角をあらわし一方の部将となった。やがて1356年(至正16)元朝の江南支配の拠点南京を占領すると自立し,63年には陳友諒を鄱陽(はよう)湖に破り,67年には張士誠を討つなど各地の群雄を平定,元朝討伐軍を送り出すと,68年(洪武1)南京を首府として,明王朝を建国した。彼は元朝をモンゴリアに駆逐し,漢民族支配を回復するのに成功したのである。

 即位すると,彼は最初に〈中華の回復〉というスローガンをかかげ,モンゴル色の一掃,漢・唐の伝統への復帰を宣言した。しかしこれは単純な復古主義ではなく,君主独裁体制を強化し,それに匹敵する国家の建設を目ざしたものであった。80年,彼は丞相胡惟庸(こいよう)の反逆事件を機に,丞相とともに政治の最高機関であった中書省を廃止,行政機関の六部を皇帝の直属とした。同時に軍隊もそれまでの大都督府を廃止して五軍都督府に解体し,統帥権を5人の都督に分掌させ,最高統帥権を皇帝が握った。官僚の監察機関である御史台も廃止され,代わって都察院が設置され監察が強化された。彼はこれよりさき1376年には地方行政の中心機関であった行中書省を廃止し,代わって布政使司(行政),都指揮使司(軍事),按察使司(検察)を設置し,三権を分立させてそれぞれを皇帝に直結させるという改革をも行った。こうした一連の改革によって皇帝は絶大な政治権力を握ることになり,皇帝独裁体制は中国史上最高のものとなったのである。そしてこの体制を補強するものとして彼はさらに24人の皇子を全国の要地に藩王として分封した。彼らには,独立割拠を防ぐため,土地人民の支配権は与えられなかったが,血縁関係を利用して帝国の藩屛としたのである。しかし中央集権による皇帝独裁権の強化策と矛盾するこの封建体制は,のちに〈靖難の変〉をひき起こすこととなる。

 ところで洪武帝の独裁体制の最も重要な基礎となったのは農民支配の強化であった。その方法として彼は81年,全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)と賦役黄冊(ふえきこうさつ)(戸籍資産台帳)を作成させた。とくに賦役黄冊は人民各戸の土地所有額,労働人口の変動などを記録したもので,以後10年ごとに改編され,明一代を通じて租税・力役課税の基本資料となった。これにもとづいて農民支配の末端組織として農村に編成されたのが里甲制である。土地所有農民110戸を基本単位(里)とし,この組織によって賦役黄冊を作らせ,租税の徴収,運搬や力役の徴発を行い,政治の浸透をはかった。また彼は〈聖諭六言〉を発布し,封建的儒教主義によって農民を教化する努力もはらっている。こうした政策によって皇帝独裁権は確立されたが,それはまた胡惟庸の獄,藍玉の獄などによる功臣の粛清や,錦衣衛のスパイを使う恐怖政治によって達成されたことも忘れてはならない。功臣たちを誅殺し尽くした彼は,皇后にも先立たれ,晩年孤独のうちに病没した。
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百科事典マイペディア 「洪武帝」の意味・わかりやすい解説

洪武帝【こうぶてい】

中国,の建国者。廟号は太祖(在位1368年―1398年)。本名は朱元璋(しゅげんしょう)。貧農の生れ,元末の紅巾の乱に従軍,やがて一軍の長となり,競争者を倒して,1368年皇帝となる。国号を大明と称し,元号を洪武と定めた。一世一元の制はこれより始まる。応天府(南京)を都とし,北上して大都(北京)をおとしいれ,元朝を北方に追う(北元)。1372年中国の統一を完成。1382年雲南を攻略,さらにビルマを服属させた。内には,皇帝独裁権の強化を図り,中書省を廃して各部局を皇帝に直属させた。里甲制を定め魚鱗図冊(土地台帳)と賦役黄冊(戸籍簿と租税台帳を兼ねたもの)を作り,統一政治の実をあげた。
→関連項目永楽帝元朝秘史靖難の変太祖内閣(中国)南京琵琶記六部

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洪武帝」の意味・わかりやすい解説

洪武帝
こうぶてい
Hong-wu-di; Hung-wu-ti

[生]天暦1(1328).濠州
[没]洪武31(1398).南京
中国,の第1代皇帝 (在位 1368~98) 。姓名は朱元璋,廟号は太祖。貧農の子に生まれ,若くして孤児となり托鉢僧をして暮らしたが,のち紅巾軍の部将郭子興の部下となって頭角を現した。元の江南の拠点南京を占領,呉王と称し,さらに各地の群雄をくだして明朝を建て (1368) ,洪武と建元し,同時に元をモンゴルに駆逐して中国を統一。漢民族王朝を回復して漢,唐の治世に返ることを旗印にしたが,単なる復古主義ではなく皇帝独裁体制の確立を目指した。中央では洪武 13 (1380) 年中書省を廃止して六部を独立させ,都察院 (検察) ,五軍都督府 (軍事) をおき,これらを皇帝に直属させた。地方でも布政使司 (行政) ,都指揮使司 (軍事) ,按察使司 (検察) の3権を分立しておのおのを中央に直結し,皇帝はこの統治機構の上に立って絶大な権力を握った。また皇子たちを全国の要地に分封し,帝国の防護にあたらせた。一方農民統治策としては里甲制を設け,賦役黄冊魚鱗図冊をつくらせて租税,力役の徴収を確実にし,政治の浸透をはかった。しかし皇帝独裁権の強化を目指す彼の制度改革は胡惟庸藍玉の獄などによる功臣の粛清や,錦衣衛を中心とするスパイ組織を使った恐怖政治によって実現したのであって,彼は一代で 10万人もの人を殺した。その結果,皇帝権は絶大となったが,晩年は皇太子標にも先立たれ,孤独のうちに病没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「洪武帝」の解説

洪武帝(こうぶてい)

朱元璋(しゅげんしょう)

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旺文社世界史事典 三訂版 「洪武帝」の解説

洪武帝
こうぶてい

朱 元璋 (しゆげんしよう)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「洪武帝」の意味・わかりやすい解説

洪武帝
こうぶてい

朱元璋

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世界大百科事典(旧版)内の洪武帝の言及

【胡藍の獄】より

…そして曹震,朱寿ら明朝成立後,辺境の平定に貢献した功臣とともに多くの高級官僚が連座し,故人までも爵を奪われた。この二獄によって計4万5000人が連座処刑され,その罪状は天下に公示されたが,事実のほどは明らかではなく,すべては洪武帝の猜疑心(さいぎしん)より出たともいう。ともあれこの一連の獄によって皇帝独裁体制の確立と懿文(いぶん)太子なきあとの明朝の安定がはかられた。…

【靖難の変】より

…中国,明初におこった帝位継承をめぐる内乱。太祖洪武帝は帝室の安泰を願って功臣を粛清し,皇子を全国の要所に封じて帝室の藩屛とした。その数は最終的には25にのぼった。…

【明】より


【王朝の創建と政治】
 元朝の末期,政治の混乱に乗じてモンゴル人の支配に反抗する群雄が各地に割拠したが,なかでも明教,白蓮教を奉ずる紅巾軍が最大の勢力であった(紅巾の乱)。その中から身を起こし,金陵(後の南京)を根拠として,西の陳友諒,東の張士誠らの強敵を下し,1368年明朝を建てて帝位についたのが朱元璋で,年号によって洪武帝とよばれる。全国統一が一応完成するのは,71年の四川平定をまたねばならないが,華中から興って全国を統一したのは,明朝が史上最初である。…

【陵墓】より

…南宋は紹興を陵園の地としたが陵墓はなお未調査である。 明の太祖洪武帝の孝陵は陵墓を大きく改革した。(1)陵墓を方形から円形に改めた。…

※「洪武帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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