日本大百科全書(ニッポニカ) 「浄御原律令」の意味・わかりやすい解説
浄御原律令
きよみはらりつりょう
7世紀後半、天武(てんむ)・持統(じとう)朝に編纂(へんさん)された法律。飛鳥(あすか)浄御原律令ともいう。681年(天武天皇10)に律令の編纂が開始され、天武天皇没(686)後の689年(持統天皇3)に全22巻が諸司に班賜された。この令を、天武・持統朝が浄御原朝廷と称されたことにちなんで、浄御原令と称す。浄御原律令の存否については、(1)天智(てんじ)天皇即位元年(668)に近江(おうみ)律令が完成し、681年の措置はその改定作業にすぎないとの説、(2)浄御原令は近江令とは別であり、近江律は存在しないが浄御原律は存在した徴象があるとの説、(3)近江令は存在せず、日本最初の令は浄御原令であり、最初の律は大宝(たいほう)律(701制定)であり、浄御原律は存在しないとの説などがあるが、近江令の存否は別として、浄御原令が存在したことと浄御原律が存在しなかったことは認めてよかろう。ただし、天武・持統朝においても、唐律の継受と准用(じゅんよう)、日本律の編纂と部分的施行は認められる。浄御原令は、すでに685年に位階制が先行的に施行されたが、全面的には法典の班賜に引き続く官制改革、造籍(庚寅年籍(こういんねんじゃく))、畿内(きない)班田、藤原京遷都などにより実施された。その実態は、近年の藤原宮の発掘調査によっても、官制、地方組織、税制などが明らかになってきているが、未成熟かつ過渡的であり、律令法制の完成は大宝律令の成立をまたねばならなかった。
[石上英一]
『坂本太郎他編『日本書紀 下』(1967・岩波書店)』▽『井上光貞他編『律令』(1976・岩波書店)』