浄瑠璃(読み)じょうるり

精選版 日本国語大辞典 「浄瑠璃」の意味・読み・例文・類語

じょう‐るり ジャウ‥【浄瑠璃】

〘名〙
① 仏語。清浄、透明な瑠璃。また清浄なもののたとえ。
※本朝文粋(1060頃)一三・為左大臣供養浄妙寺願文〈大江匡衡〉「青苔鋪設、自展七浄瑠璃之茵」 〔法華経‐序品〕
② 平曲・謡曲などを源流とする音曲語り物の一つ。室町時代の末に、広く民衆に迎えられた琵琶や扇拍子を用いた新音曲の中、牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を内容とする「浄瑠璃物語(十二段草子)」が流行したところから、この種の語り物の名となったもの。のちに三味線の伝来とともにこれに合わせて語るようになり、江戸初期には人形あやつりと結んで人形芝居が成立。はじめは、金平、播磨、加賀、説経節などの古浄瑠璃が江戸・京坂に流行。元祿期(一六八八‐一七〇四)には竹本義太夫が近松門左衛門と組んで、義太夫節を完成した。のち、河東・宮薗・常磐津・富本・清元・新内などの各流派が派生した。浄曲。浄瑠璃節。
※宗長日記(1530‐31)「小座頭あるに浄瑠璃をうたはせ、興じて一盃に及ぶ」

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デジタル大辞泉 「浄瑠璃」の意味・読み・例文・類語

じょう‐るり〔ジヤウ‐〕【浄瑠璃】

仏語。清浄で透明な瑠璃(青金石)。また、清浄なもののたとえ。
語り物の一。室町中期から、琵琶扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平きんぴら播磨はりま嘉太夫かだゆうなどの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東一中宮薗みやぞの常磐津ときわず富本清元新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節。

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改訂新版 世界大百科事典 「浄瑠璃」の意味・わかりやすい解説

浄瑠璃 (じょうるり)

中世以来の諸音曲を総合した語り物。そのうち浄瑠璃姫と牛若との恋物語《浄瑠璃物語》の内容と曲節とが好評であったことから,これ以外の作品も含めた音曲名となった。初めは素朴な物語的音楽であり,伴奏には扇拍子や琵琶,後には三味線が使用された。操り人形も加わるにいたって独特の語り物による楽劇形態を完成し,ことに中世諸芸能の統合のうえに,近松門左衛門の詞章,義太夫節の曲節につれて舞台の人形が操られるとき,浄瑠璃は近世的・庶民的性格をもつ音楽・文学・演劇の融合芸能として登場した。近松門左衛門の活躍時代において文学性が最も高くなり,その後人形舞台の発達につれて舞台本位の演劇性を高度にもつにいたる。

1474年(文明6)ころから《浄瑠璃物語》は語られた(《実隆公記》紙背)という。その後の展開のうち,義太夫節成立までを〈古浄瑠璃〉と呼ぶ。江戸では1616年(元和2)京の滝野検校(浄瑠璃の伴奏に三味線を用いたという)の門人杉山七郎左衛門(杉山丹後掾)が下り,寛永(1624-44)初めころに下った薩摩浄雲とともに操り興行を行った。丹後掾の正本に《清水の御本地》があるが,その末流は扇情的・抒情的な軟派の流風に傾く。浄雲には《はなや》などあり,その勇壮な硬派の流派(薩摩節)は2世薩摩その他に受け継がれ,明暦(1655-58)から寛文(1661-73)ころ以後,それぞれが流派を立てて活躍した。その中で注目されるものに金平(きんぴら)節(金平浄瑠璃),外記節土佐節がある。金平節は大坂の伊藤出羽掾井上播磨掾にも影響した。土佐節は複雑な曲調で〈江戸〉として義太夫節にも採られ,近松にも影響したらしい。この門人広瀬式部の式部節は貞享・元禄(1684-1704)ころ江戸に流行したが,式部は市村座に出演して歌舞伎浄瑠璃化し,また酒宴の席などのくだけた浄瑠璃を語って座敷浄瑠璃化した。浄雲の弟子の虎屋源太夫の門からは虎屋永閑(永閑節)が出て,元禄ころまで金平風を語った。この門人には虎屋喜元,虎屋寿徳などがあったが,寿徳は歌舞伎に出演した。丹後掾の長男の江戸肥前掾(肥前節)の弟子江戸半太夫半太夫節),初世半太夫の弟子十寸見(ますみ)河東河東節)などの浄瑠璃は劇場音楽からむしろ江戸通人の粋なお座敷音楽化した。肥前節,半太夫節,河東節を江戸節と総称する。

 また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。やはり豊後系の鶴賀若狭掾の弟子鶴賀新内は妖艶な新内節の曲風を語った。河東節,豊後三流,新内節を江戸浄瑠璃ともいう。豊後掾の門弟宮古路薗八が京で薗八節(宮薗節)を広め,この分派の春富士正伝が正伝節を上方の歌舞伎で語り,豊後掾の門弟宮古路繁太夫は繁太夫(しげたゆう)節を元文(1736-41)ころから大坂の劇場や座敷で語った。河東節,新内節,薗八節などは酒席で多くうたわれたので肴(さかな)浄瑠璃,歌浄瑠璃といわれた。

 京都では最も早く浄瑠璃の発生をみた。1613年(慶長18)1月藤原吉次(監物(けんもつ))が河内目(掾)(かわちのさかん)を受領(浄瑠璃太夫口宣案ほか)したのが,浄瑠璃太夫受領の初めである。次郎兵衛も上総介(掾)を受領し,寛永(1624-44)ころ四条河原で操り興行を行った。女太夫も六字南無右衛門(ろくじなむえもん)(語り物に《やしま》)はじめ左門,よしたかなどが活躍する。しかし1629年女太夫は禁止された。42年には山城出身の左内が若狭守藤原吉次を受領した(語り物に《ともなか》ほか)。浄雲系で伊勢出身の宮内(伊勢島宮内)が寛永末に上京し,四条河原で興行する(語り物に《石橋山七きおち》ほか)。競っていた左内,宮内が没した後に,すでに江戸から上京していた虎屋喜太夫が台頭し硬派の浄瑠璃を語り,58年(万治1)に上総少掾を受領,天下一上総と称した。語り物には《大友のまとり》ほかがあるが,京,大坂に多くの影響を与えた。江戸から上った太夫たちによって江戸の浄瑠璃,とくに金平風が上方で流行した。これは上方にまだ特色ある太夫が現れず,過渡期的現象であった。大坂の出羽掾座で文弥節を学んだ山本角太夫(かくたゆう)(山本土佐掾)が,75年(延宝3)ころ京でうれい節を語った(語り物に《しのだづま》ほか)。その門下に松本治太夫がある。京で最も注目すべきは宇治嘉太夫宇治加賀掾)で,天王寺五郎兵衛(後の義太夫)をワキに抱え,細かい節回し,情趣的余情をもつ新鮮な芸風を示した。歌舞伎の廓場を移入し,稽古用に八行大字丸本を刊行,語り物には近松作品も多くみられる。

 大坂では京,江戸に比して寛永ころは低調であったが,1648年(慶安1)に伊藤出羽掾は二郎兵衛ほかとともに《親鸞記》を上演して本願寺より禁止されている(《粟津家文書》)から,このときすでに出羽掾を受領しており(《町人受領記》は1658年),操り座をもっていた。この座で活躍した太夫に大坂二郎兵衛,岡本文弥(文弥節)がある。文弥の語り物に《四十八願記》《善光寺》などがあり,泣き節と呼ばれた。この門下の岡本阿波(鳴渡)太夫ほかは,京の土佐掾のうれい節を受け継ぐ。井上播磨掾は大坂浄瑠璃操りの開祖といわれ,特徴は段物集《忍(しのび)四季揃》などにうかがわれる。門下に清水(きよみず)理兵衛(義太夫の師)と井上市郎太夫がある。前述の大坂二郎兵衛,大坂源太夫,道具屋吉左衛門,木屋七兵衛,表具屋又四郎,難波規明太夫,規明新太夫などが当流浄瑠璃への過渡期にみられる。

竹本義太夫義太夫節)の出現は古浄瑠璃に対し,近世的曲風の当流浄瑠璃を大坂に招来した。義太夫は1684年(貞享1)竹本座を道頓堀に創設,近松の《世継曾我》で好評を得る。98年(元禄11)筑後掾受領,1705年(宝永2)11月の《用明天王職人鑑》以後,竹田出雲(座本),近松門左衛門(作者),辰松八郎兵衛(人形),竹沢権右衛門(三味線)を擁し活躍した。その没後は竹本政太夫(《吉備津彦神社史料》《熊野年代記》に筑後掾悴義太夫の名があり,政太夫は2世義太夫とされてきたが3世か)が近松作品を深く語り分け,豊竹座の若太夫(豊竹若太夫,越前少掾)も紀海音の義理にからむ作風を巧みに観客の時代感覚に訴えて,西風(竹本),東風(豊竹)が競演し,浄瑠璃の近世意識が最高に発揮された。

 享保(1716-36)後半からの人形機巧の発達,舞台装置の発達は浄瑠璃の脚本化,舞台装置の歌舞伎化を招く。一時は《菅原伝授手習鑑》などの大作による操り最盛期を迎え,義太夫節は江戸,京で浄瑠璃の先頭に立った。しかし極度の歌舞伎への接近はやがて人形劇の本質の喪失となり,天明(1781-89)以後,新作は出なくなった。太夫も過去の芸風の踏襲,繰返しとなる。操り芝居全体が末期現象を呈した寛政(1789-1801)ころ,植村文楽軒が大坂に出て,その経営手腕によって文楽の芝居が成立した。これが今日まで続く文楽の浄瑠璃である。
人形浄瑠璃

特殊な古浄瑠璃に奥浄瑠璃がある。寛文(1661-73)ころ以後,仙台地方で盲法師が語った曲節で,琵琶,三味線,扇を伴奏とし,《義経東下り》などを語った。また石川県尾口(おぐち),佐渡,宮崎県山之口,鹿児島県薩摩川内市東郷町斧淵(おのぶち)その他に文弥節と称するものが現存。都会を追われた文弥節が土俗化したもの。近松作品をおもに語る。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浄瑠璃」の意味・わかりやすい解説

浄瑠璃
じょうるり

日本音楽の一種目。平曲(へいきょく)・謡曲・説教などを源流とした語物(かたりもの)。現代では三味線を伴奏に使い、台詞(せりふ)と旋律によって物語を進めていく音曲(おんぎょく)の総称。義太夫節(ぎだゆうぶし)の異称でもある。

[倉田喜弘]

初期の形態

起源はさだかでないが、1531年(享禄4)連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)は静岡で座頭(ざとう)に「浄瑠璃をうたはせ」た(『宗長日記』)。また伊勢(いせ)の神官荒木田守武(あらきだもりたけ)は、1540年(天文9)の『守武千句』で浄瑠璃を題材に詠んでいる。こうした資料に基づき、1880年(明治13)に修史館一等編修官の重野安繹(しげのやすつぐ)は、浄瑠璃の成立時期を足利義政(あしかがよしまさ)から義晴の間(1453~1546)とみなした。初期の語物は、三河国(みかわのくに)(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃と牛若丸の『浄瑠璃物語』で、これから「浄瑠璃」という名称が生まれたといわれている。この物語は12段に分かれているため、「浄瑠璃十二段」とか「十二段草子」ともいう。『阿弥陀胸割(あみだのむねわり)』『牛王姫(ごおうのひめ)』など神仏霊験(れいげん)の物語も行われた。演じるときは、扇を開いて左手に持ち、右手の爪先(つまさき)で骨と地紙をかき鳴らして拍子をとったと、竹本義太夫は『鸚鵡ヶ杣(おうむがそま)』(1711)に記している。そうした浄瑠璃が、いつのころか人形や三味線と結び付いて人形芝居になった。1500年代の末、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は京都の人形芝居を四条河原へ移しているから、すでに興行化していたことがわかる。しかし初期の展開には不明な点が多く、また浄瑠璃の形式も未成熟であったから、義太夫節以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と総称する。

[倉田喜弘]

古浄瑠璃

徳川家康が江戸の町づくりを始めた1600年代初頭(慶長・元和)、薩摩浄雲(さつまじょううん)や杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)が江戸浄瑠璃の開祖となった。続いて永閑節(えいかんぶし)や肥前節(ひぜんぶし)も生まれてくるが、和泉太夫(いずみだゆう)(のち桜井丹波少掾(たんばのしょうじょう))の出現で金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)が大流行する。坂田金時の子金平が剛勇を振るう物語で、そのほか『四天王武者執行(してんのうむしゃしゅぎょう)』『渡辺岩石割(がんせきわり)』など、源頼光(みなもとのよりみつ)や渡辺綱(わたなべのつな)の武勇談も愛好された。振袖火事(ふりそでかじ)が起こる1657年(明暦3)前後のことである。この和泉太夫の語り口を柔らかくしたのが土佐少掾で、義太夫節のなかに土佐節の名でおもかげを残している。京都では、古くに目貫屋長三郎(めぬきやちょうざぶろう)、次郎兵衛(じろべえ)、六字南無右衛門(ろくじなむえもん)らがいたようだが、詳しいことはわからない。1600年代後半になって、山本角太夫(やまもとかくたゆう)、松本治太夫(まつもとじだゆう)、宇治加賀掾(うじかがのじょう)らが輩出し、ようやく浄瑠璃の音曲性が明らかになる。この時代、大坂では井上播磨掾(いのうえはりまのじょう)、伊藤出羽掾(いとうでわのじょう)、岡本文弥(おかもとぶんや)らが活躍したが、とりわけ井上播磨掾の演奏は竹本義太夫に大きな影響を与えた。なお説経節(せっきょうぶし)では、大坂与七郎、佐渡七太夫、江戸の天満八太夫らが、『苅萱(かるかや)』『三荘太夫(さんしょうだゆう)』『百合若大臣(ゆりわかだいじん)』などを語っている。

[倉田喜弘]

竹本義太夫以後

1684年(貞享1)竹本義太夫は大坂道頓堀(どうとんぼり)に竹本座を建てた。これを義太夫節の紀元元年とする。義太夫は古浄瑠璃を集大成して曲節を整え、物語の表現形式を定めた。また後継者は、浄瑠璃の表現技法や三味線奏法の開発に努めていく。一方、浄瑠璃の骨子となる作品には、近松門左衛門、竹田出雲(たけだいずも)、近松半二(はんじ)、そのほか大ぜいの作者が関与して、浄瑠璃の文学性を高めるかたわら、娯楽性も追求した。そうした作品は、時代物と世話物に大別できる。ごく一例を示すと、時代物は時代浄瑠璃ともいい、貴族社会や武家社会を題材にした『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』など。また世話物は世話浄瑠璃ともいい、庶民社会のできごとを仕組んだ『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』『新版歌祭文(うたざいもん)』『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』など。これらの作品は、経済都市大坂の力を背景に日本列島全域へ広がり、義太夫節は浄瑠璃の一大主流という地位を築き上げた。歌舞伎(かぶき)も浄瑠璃作品の舞台化に努め、あわせて演奏形式までも取り入れたので、義太夫節は近世日本演劇にとって不可欠の存在になった。また、義太夫以降の浄瑠璃本(丸本(まるほん))と現存の演奏を観察、分析するとき、近世日本人がもっていた音楽性の変化が鮮やかに浮かび上がる。ただ義太夫節は、どちらかといえば叙事的な表現に優れており、時代物に特色がみられる。そのためであろうか、世話物では豊後節(ぶんごぶし)が人気を博した。

 豊後節は宮古路節(みやこじぶし)ともいい、優艶(ゆうえん)なメロディを駆使して叙情を主とする。1720~1730年代(享保)に宮古路豊後掾が創始したが、1830年代(天保)に廃れたようだ。大量に残っている歌本と義太夫化された曲節から推し量ると、浄瑠璃本来の語るという技法は捨て去られ、歌うことに終始している。このような浄瑠璃を「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」とよぶ。豊後掾の流れをくむものから、正伝節(しょうでんぶし)、繁太夫節(しげたゆうぶし)、薗八節(そのはちぶし)(宮薗節ともいう)なども生まれた。

[倉田喜弘]

江戸浄瑠璃

義太夫節は江戸でも流行し、平賀源内が著した『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』をはじめ、『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』などが上演された。これら江戸生まれの作品を、義太夫節では「江戸浄瑠璃」とよぶ。この用語はさらに広義に使用されて、江戸で行われた各種の浄瑠璃をさす場合もある。江戸でもてはやされた諸流派が、近年に至るまで江戸だけで愛唱され、各地へ広がらなかったためでもあろう。

 ところで、1732年(享保17)宮古路豊後掾が江戸へ下ったころは、河東節(かとうぶし)が栄えていた。江戸半太夫(はんだゆう)の門から出た江戸太夫河東がおこした一流だが、約50年間劇場へ出演しただけで、「助六」以外は座敷浄瑠璃として、一部の人たちから迎えられてきた。京都から下った都一中(みやこいっちゅう)の流儀もそうで、今日、河東節、一中節、薗八節などは「古曲」と総称されている。次に常磐津節(ときわずぶし)は、宮古路豊後掾の門弟文字太夫(もじたゆう)がおこした浄瑠璃である(成立期未詳)。この文字太夫の門弟の一人が、1748年(寛延1)に分離して富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)となった。富本節の始祖である。さらに1814年(文化11)斎宮太夫(いつきだゆう)は富本から分かれ、清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)の名で清元節をたてた。3流ともに豊後掾の流れをくんでいるので、常磐津、富本、清元を、豊後三流あるいは豊後節とよぶ。いずれも歌舞伎舞踊に欠かすことのできないもので、唄浄瑠璃の性格が濃い。

 以上が豊後三流成立の通説であるが、実は豊後掾と常磐津を結び付ける確証は知られていない。むしろ反証が多く、音楽性も異なる。今後の研究をまたなければならない。なお、新内節(しんないぶし)も豊後掾から生まれたといわれている。リズムのとり方が違うためであろうか、劇場で用いられることは少なく、豊後三流から除外されている。

[倉田喜弘]

取締りと自主規制

江戸時代から明治初期にかけては、生産性向上のため、施政者は絶えず労働を強調した。いきおい芸能は疎外され、それに従事する者は差別視された。天保(てんぽう)の改革(1842)の際、江戸滞在中の大坂の義太夫語りは、一般庶民との会話や金銭の授受を禁じられ、草履(ぞうり)も尻切(しりきれ)を履くよう命じられた。京都では、「浄るり、はうた、稽古致間敷事(けいこいたすまじきこと)」という禁令も出ている。義太夫節の題名も干渉され、1750年代(宝暦)には『将軍太郎東文談(あずまぶんだん)』の「将軍」と「東」が、変更を命じられた。禁制の鉄砲を文中に組み込んだばかりに、一段全部の上演が不能となった例もある。明治以降になると、皇室の尊厳や個人の名誉にかかわる作品は見合わされ、また卑猥(ひわい)な歌詞は自主的に改定された。とくに清元の歌詞は変更されるものが多く、常磐津の題名『忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』は『忍夜孝事寄(こうにことよせ)』となった。こうした過程に一顧を与えておくのも、浄瑠璃の理解に役だつところが大きいであろう。

[倉田喜弘]


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百科事典マイペディア 「浄瑠璃」の意味・わかりやすい解説

浄瑠璃【じょうるり】

三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。室町時代に発生した語り物の一つに,牛若と浄瑠璃姫とのロマンスを扱った《浄瑠璃物語》があり,これが好評を得たため,この種の語り物を〈浄瑠璃〉と総称するようになった。最初は琵琶法師によって扇拍子,琵琶の伴奏で語られていたが,江戸時代に入ると操(あやつり)人形劇と結びつき,三味線を伴奏とするようになって,人形浄瑠璃が発生するに至った。貞享〜元禄ころ,大坂に近松門左衛門および竹本義太夫が現れ,新しい様式の浄瑠璃を創作するに及んで,浄瑠璃は文学的にも音楽的にも飛躍的発展を遂げた。したがってこれ以前の浄瑠璃を〈古浄瑠璃〉と呼ぶ。いっぽう,京都の都太夫一中(いっちゅう)の門弟宮古路(みやこじ)豊後掾から派生した浄瑠璃のうち,常磐津(ときわづ)節富本節清元節などのように歌舞伎と結びついて発展したもの,新内節のようにまったく劇場を離れてしまったものなどもあり,これらは歌い物的性格が強くなった。なお,浄瑠璃という言葉は,浄瑠璃の演奏の際三味線に対する声楽,またはその声楽の演奏者をさすのにも用いられる。また,京阪地方では浄瑠璃といえば義太夫節のみをさすことが多い。
→関連項目安寿・厨子王一中節院本唄浄瑠璃写絵大薩摩節河東節口説外記節粉河寺五行本十返舎一九信田妻説経節近松半二錦文流西沢一風豊後節本地物宮薗節百合若大臣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浄瑠璃」の意味・わかりやすい解説

浄瑠璃
じょうるり

三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。平曲,幸若,説経などの語り物の影響を受け,『浄瑠璃十二段草子』 (『浄瑠璃姫物語』ともいう) が 15世紀後半までに成立し,好評を博した。これにより浄瑠璃という新しい語り物が生れ,琉球から渡来した三絃,および傀儡師 (かいらいし) の人形と結びついて,16世紀末~17世紀初めに舞台芸術としての人形浄瑠璃が成立した。以後古浄瑠璃時代を経て,17世紀末,竹本義太夫と近松門左衛門により浄瑠璃の主流としての義太夫節が生れ,『曾根崎心中』『心中天の網島』など,近世庶民の生活を描く世話浄瑠璃に傑作が続出した。義太夫,近松の死後もその後継者により,『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』などの時代物傑作が作られ,人形浄瑠璃は歌舞伎をしのぐほどの隆盛をきわめたが,18世紀中期以後は発展が止り,古典化した。このほか,豊後節の系統をひく常磐津,富本,清元,新内などは,歌舞伎の劇場音楽として,あるいは座敷浄瑠璃として近世後期,江戸で発達した。また,江戸の古浄瑠璃の系統をひく河東節や,京都における豊後節以前の浄瑠璃である一中節,あるいは豊後系の宮薗節などは,いずれも江戸においておもに座敷浄瑠璃として行われ,現在では古典として扱われている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浄瑠璃」の解説

浄瑠璃
じょうるり

三味線を伴奏楽器とする語り物の一部門。奥州下向途次の牛若丸と,三河国矢矧(やはぎ)(矢作)の長者の娘浄瑠璃姫との恋物語を描いた「浄瑠璃物語」に由来する名称。当初,琵琶や扇拍子で語られ,その起源は15世紀にさかのぼる。16世紀後半に渡来した三味線と結びつき,操りとも提携して,人形浄瑠璃を形成した。承応・明暦期に始まる金平(きんぴら)浄瑠璃の人気が創作時代の幕開けを告げ,ついで貞享年間,作者に近松門左衛門をえた竹本義太夫が諸流の長所をとりこんで義太夫節を創始し,人形操りの語りとして絶大な人気をえて,今日の文楽に及ぶ。一方,歌舞伎に舞踊的場面が重用されはじめた元禄期頃からは,江戸の外記節(げきぶし)・永閑(えいかん)節・半太夫節,京都の一中(いっちゅう)節などが歌舞伎界に進出。なかでも一中節からおこった豊後(ぶんご)節は,江戸の劇場音曲の中心となり,その系統から常磐津(ときわづ)節・富本節・清元節・新内(しんない)節・薗八(そのはち)節などがあいついでうまれ,劇場と遊里で盛んに行われた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浄瑠璃」の解説

浄瑠璃
じょうるり

操 (あやつり) 人形芝居の詞章,またはその演奏としての語り物音曲
室町中期,座頭が語ったものが始まり。源義経と浄瑠璃姫の恋愛を描いた『浄瑠璃姫物語』(十二段草子)が名称の起源。江戸中期,元禄(1688〜1704)ころが完成期。竹本義太夫が新曲風の義太夫節を大坂で完成し,作者近松門左衛門によって劇文芸に高められた。以後歌舞伎の一要素に採用され,江戸中期〜後期には一中節・豊後節・常磐津節・清元節・新内節などが派生した。

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日本文化いろは事典 「浄瑠璃」の解説

浄瑠璃

三味線音楽における語り物の総称です。室町時代に成立して、江戸時代に最盛期を迎えました。人形芝居や、歌舞伎の音楽、あるいは純粋な語り物として広く庶民に愛好され、日本音楽の一大ジャンルを形成しました。

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世界大百科事典(旧版)内の浄瑠璃の言及

【古浄瑠璃】より

…人形浄瑠璃のうち,義太夫節以前に成立した古流派に属する浄瑠璃の総称。御曹司牛若丸と矢矧(やはぎ)宿の長者の娘浄瑠璃御前との恋物語の語り物は,室町中期ころより語られていたが,この語り物はその娘の名をとって浄瑠璃と呼ばれた(《浄瑠璃物語》)。…

【日本音楽】より

…以上はすべて武家社会の芸能である。 室町時代の中期には小歌(こうた)といわれる流行歌(はやりうた),後期には浄瑠璃という語り物が興った。それらは室町時代の末期に輸入された三味線と結びつくことによって,次の第5期で大いに発展することになる。…

※「浄瑠璃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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