精選版 日本国語大辞典 「浅草」の意味・読み・例文・類語
あさ‐くさ【浅草】

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古い集落は隅田川下流の微高地に形成された。浅草寺
浅草から
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都台東区(たいとうく)内の一地区名。狭義では、浅草寺(せんそうじ)周辺の繁華街、盛り場の呼称。江戸時代から台東区の東部一帯を浅草と総称し、1878年(明治11)区名とされた。旧浅草区は1947年(昭和22)旧下谷(したや)区と合併し、台東区となった。東に隅田川(すみだがわ)が流れ、白鬚橋(しらひげばし)、桜橋、言問橋(ことといばし)、吾妻橋(あづまばし)、駒形橋(こまがたばし)、厩橋(うまやばし)、蔵前橋(くらまえばし)が架かり、墨田区に接する。西は上野に続く。吾妻橋近くの花川戸から蔵前にかけて隅田川沿いに履き物、玩具(がんぐ)、文房具などの問屋が並ぶ。蔵前には蔵前国技館(1985年両国に移転)があった。東武鉄道伊勢崎線(とうぶてつどういせさきせん)、東京地下鉄銀座線(起点)、都営地下鉄浅草線、つくばエクスプレスが通じる。
[小森隆吉]
浅草寺を中心にして、奈良時代には集落の形成があったといわれ、東京のなかでも、もっとも古い歴史のある土地。記録上は『吾妻鑑(あづまかがみ)』治承(じしょう)5年(1181)の項に、「浅草大工……」とあるのが初めとされている。江戸時代、浅草は市街化され、目覚ましい発展を遂げた。浅草御門(現、浅草橋)から千住宿(せんじゅしゅく)へ、奥州街道が南北に浅草を貫通して発展を促進し、沿道に町が形成された。1620年(元和6)街道南部の隅田河岸に幕府が浅草米蔵を建造。その蔵の前通りには札差(ふださし)商人が店を並べた。北部の浅草日本堤(にほんづつみ)には、1657年(明暦3)日本橋葺屋町(ふきやちょう)東側(現、中央区)にあった遊廓(ゆうかく)吉原が移され、新吉原と称して大いに栄えた。1842年(天保13)から翌1843年にかけて、新吉原近くの浅草猿若町(さるわかちょう)に中村座、市村座、河原崎座(のち森田座、守田座)の江戸三座が移転し、芝居街を形成した。地域の中央に浅草寺があり、その周辺は門前町としてにぎわった。江戸の浅草はこのような発展を遂げるとともに、町人の町、寺院街という特徴をもち、位置的には江戸の下町に属した。町人の町であったことは下町人情、下町情緒、下町気質といった独特の伝統を生んだ。
[小森隆吉]
浅草寺周辺は、いま東京都内屈指の盛り場である。元禄(げんろく)時代(1688~1704)ごろから盛り場であったといわれ、享保(きょうほう)年間(1716~1736)以降は、盛り場として定着した。浅草寺境内には水茶屋が小屋掛けし、名物の楊枝屋(ようじや)が所狭しと並んでいた。浅草寺本堂西側と裏手は、俗に「奥山(おくやま)」とよばれ、軽業(かるわざ)や奇術、異形の人、珍獣の展覧などの見せ物興行が行われ、辻講釈(つじこうしゃく)の志道軒、品玉(しなだま)の東芥子之助(あずまけしのすけ)、独楽回(こままわし)の松井源水、居合(いあい)の長井兵助らの大道芸人が諸芸を演じ、矢場もあった。
浅草寺境内は、1871年(明治4)明治政府に公収、1873年太政官布告(だじょうかんふこく)に基づいて公園地に指定された。公園は一般に浅草公園とよばれた。1883年浅草寺西側の水田(旧火除地(ひよけち))を掘って池とし、掘り出した土で池畔を埋立てて街区(後の六区にあたる)をつくった。池は大池、公園の池という。1884年公園地は一区から七区に分けられた。一区は浅草寺本堂周囲で、浅草神社(あさくさじんじゃ)、二天門、宝蔵門(1964年4月再建。旧称仁王門)、五重塔(1973年旧位置と参道を隔てた反対側に再建)、淡島堂(あわしまどう)などのある所。二区は仲見世(なかみせ)の地。三区は浅草寺本坊の伝法院(でんぽういん)がある所。四区は公園中の林泉地で、大池、ひょうたん池(大池の東隣にあった)があった。五区は俗に奥山とよばれた所で、花屋敷がここに属した。六区は初め見世物小屋が並び、のち映画館街となる。七区は公園南東部の公園付属地で、のち公園地から除外。行政町名上、一区から六区までは1965年(昭和40)まで存続したが、浅草公園地は1947年(昭和22)浅草寺に返還され、公園ではなくなった。
1945年(昭和20)浅草寺、六区の映画街をはじめ一帯は戦災で焼失した。しかし浅草寺は1958年本堂再建、1960年雷門(かみなりもん)の復原、1973年五重塔の竣工(しゅんこう)をみた。六区も戦後まもなく再開され、大衆娯楽の街として栄えてきた。現在も映画館、ストリップ劇場、演芸場などがあるが、近年客足をほかに奪われ、電気館の閉館(1976)、国際劇場の閉鎖(1982)などが続いたため、六区の再開発が進められている。
この間、1890年(明治23)から関東大震災(1923)で崩壊するまで、凌雲閣(りょううんかく)は浅草の名所であった。俗に浅草十二階とよばれ、眺望を楽しむ施設であった。六区は日本最初の活動写真常設館「電気館」の開館した所であり、以来、幾多の映画が上映された。それは無声映画からトーキーの歴史であった。演劇面での六区は、大正のオペラ、昭和初年のレビュー、軽喜劇、ついで軽演劇、女剣劇、ストリップが流行、それぞれの時代を彩った。浅草の舞台を踏んで世に出た俳優は数多く、清水金一(シミキン)、田谷力三(たやりきぞう)、榎本健一(えのもとけんいち)(エノケン)、古川緑波(ふるかわろっぱ)、益田喜頓(ますだキートン)、伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)ら枚挙にいとまがない。
[小森隆吉]
2月の節分会(せつぶんえ)、3月の観音示現会、5月の三社祭(さんじゃまつり)、6月の浅間神社(せんげんじんじゃ)の植木市、7月のほおずき市、10月の菊供養、11月の鷲神社(おおとりじんじゃ)の酉の市(とりのいち)、12月の歳の市(としのいち)はとくに多くの人出がある。なかでも三社祭に行われる古風を残す田楽舞(でんがくまい)と、大神輿(おおみこし)3基の宮出し・宮入りの豪華さは、関東一を誇っている。浅間神社は浅草寺北方にあって、初夏の縁日市として開かれる大規模な植木市によって、東京都内の縁日植木の値が定まる。ほおずき市は浅草寺の境内いっぱいに、よしず張りの売店が並んで、鉢植えホオズキが売られる。夜の風景がことさらみごとである。菊供養は、菊慈童の故事にちなむ、延命息災祈願の菊替(きくかえ)仏事で、古式をいまに残す行事としては珍しい。暮れには本堂の煤(すす)払いがあって、年に1回の本尊の開扉(かいひ)が行われる。歳の市は『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の再現をみるような羽子板市がたち、関東には類のないにぎわいを呈する。
[小森隆吉]
『『浅草区誌』(1914・浅草区)』▽『『台東叢書1~4』(1962~1968・台東区)』▽『石津三郎著『浅草蔵前史』(1958・蔵前史刊行会)』
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…既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代]
まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。…
※「浅草」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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