浅草(読み)あさくさ

精選版 日本国語大辞典 「浅草」の意味・読み・例文・類語

あさ‐くさ【浅草】

[1] 〘名〙
① 丈が低い草。
※新撰六帖(1244頃)六「古川の岸のあたりのあさ草につばな浪よる夏の夕風〈藤原為家〉」
※洒落本・古契三娼(1787)自叙「南駅育(しながわそだち)(のり)も朝艸(アサクサ)の名によぶ」
[2] (海辺に近く浅い草むらにある村落の意) 東京都台東区東部の地名。かつての東京市三五区の一つ。金龍山浅草寺(せんそうじ)を中心とする一帯。特に、旧浅草公園の地域をいうことが多い。吉原日本橋から移転後は芝居小屋が集中して繁栄。明治以降公園内には興行物が集まり、大衆歓楽街の名が高い。

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デジタル大辞泉 「浅草」の意味・読み・例文・類語

あさくさ【浅草】

東京都台東区の地名。浅草寺せんそうじ門前町として発達仲見世・新仲見世の商店街、旧浅草公園を区分した際の六区の興行街などがある。三社祭ほおずき市羽子板市など江戸以来の行事が多い。もと東京市の区名。

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日本歴史地名大系 「浅草」の解説

浅草
あさくさ

台東区の東部、隅田川右岸上流の一部をさす広域呼称。地名の由来については諸説あり、もっとも一般的なものは武蔵野の「深草」に対して生れた地名だという説で、「江戸砂子」「求涼雑記」などにみえる。

〔古代・中世〕

古い集落は隅田川下流の微高地に形成された。浅草寺伝法でんぼう院庭園には境内で掘出された古墳時代の石槨が残る。浅草の中心にある観音堂(浅草寺)は推古天皇三六年檜前浜成・竹成兄弟が宮戸みやと川で観音像を網にかけ、土師直中知が引上げられた同像を祀ったのが起源という(浅草寺縁起)。土師・檜前の名は文明一五年(一四八三)の浅草寺輪蔵再興勧縁疏(関東禅林詩文等抄録)にも記録されており、令制下の武蔵国檜前ひのくま馬牧にかかわる氏族かと推定される。観音堂周辺からは和同開珎のほか奈良時代にさかのぼる遺物が発掘され、平安時代後期には瓦葺の堂宇が建てられていたらしい。天慶五年(九四二)には武蔵守平公雅が伽藍を整えたといわれ(前掲縁起)、武蔵国府の保護を受ける寺院となっていた。また円仁の巡錫以来天台宗の拠点として栄えたという。門前集落には多数の職人も集住していたらしい。治承五年(一一八一)七月八日には源頼朝の命により鎌倉鶴岡八幡宮造営に浅草の大工が招かれ、建久三年(一一九二)五月八日に頼朝が主催した後白河法皇四十九日法要には浅草寺の僧三名が招かれている(吾妻鏡)。浅草寺は坂東三十三観音霊場の第一三番札所として庶民信仰の拠点となり、鎌倉時代後期には関東の天台教学の学問的中心として学僧を集めた。浅草寺の寺領はおもに膝下の千束せんぞく郷にあった。

浅草から今津いまづ(今戸)石浜いしはまにかけての地域は隅田川の渡河点で、かつ水上交通の要衝であったため、鎌倉防衛の最前線として位置付けられた。観応三年(一三五二)閏二月には宗良親王を征夷大将軍に奉じる新田義宗の軍勢に圧された足利尊氏が石浜に陣を布き、地元の江戸氏・豊島氏を含む武蔵国内の秩父平氏を中心とする平一揆の支援を受け、かろうじて反撃に成功した(「太平記」巻三一武蔵野合戦事など)。その後畠山国清の離反によって平一揆が分裂・衰退すると、鎌倉公方足利基氏は東京湾岸地域を鎌倉府直轄領とする政策をとった。このためここに本拠を有する旧族領主は相次いで退転し、浅草周辺に本拠をもっていた江戸氏も姿を消した。応永二〇年(一四一三)には足利持氏が浅草寺に輪蔵を寄進し(前掲勧縁疏)、鎌倉公方の権力が浅草を掌握していることを象徴的に示した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅草」の意味・わかりやすい解説

浅草
あさくさ

東京都台東区(たいとうく)内の一地区名。狭義では、浅草寺(せんそうじ)周辺の繁華街、盛り場の呼称。江戸時代から台東区の東部一帯を浅草と総称し、1878年(明治11)区名とされた。旧浅草区は1947年(昭和22)旧下谷(したや)区と合併し、台東区となった。東に隅田川(すみだがわ)が流れ、白鬚橋(しらひげばし)、桜橋、言問橋(ことといばし)、吾妻橋(あづまばし)、駒形橋(こまがたばし)、厩橋(うまやばし)、蔵前橋(くらまえばし)が架かり、墨田区に接する。西は上野に続く。吾妻橋近くの花川戸から蔵前にかけて隅田川沿いに履き物、玩具(がんぐ)、文房具などの問屋が並ぶ。蔵前には蔵前国技館(1985年両国に移転)があった。東武鉄道伊勢崎線(とうぶてつどういせさきせん)、東京地下鉄銀座線(起点)、都営地下鉄浅草線、つくばエクスプレスが通じる。

[小森隆吉]

沿革

浅草寺を中心にして、奈良時代には集落の形成があったといわれ、東京のなかでも、もっとも古い歴史のある土地。記録上は『吾妻鑑(あづまかがみ)』治承(じしょう)5年(1181)の項に、「浅草大工……」とあるのが初めとされている。江戸時代、浅草は市街化され、目覚ましい発展を遂げた。浅草御門(現、浅草橋)から千住宿(せんじゅしゅく)へ、奥州街道が南北に浅草を貫通して発展を促進し、沿道に町が形成された。1620年(元和6)街道南部の隅田河岸に幕府が浅草米蔵を建造。その蔵の前通りには札差(ふださし)商人が店を並べた。北部の浅草日本堤(にほんづつみ)には、1657年(明暦3)日本橋葺屋町(ふきやちょう)東側(現、中央区)にあった遊廓(ゆうかく)吉原が移され、新吉原と称して大いに栄えた。1842年(天保13)から翌1843年にかけて、新吉原近くの浅草猿若町(さるわかちょう)に中村座、市村座、河原崎座(のち森田座、守田座)の江戸三座が移転し、芝居街を形成した。地域の中央に浅草寺があり、その周辺は門前町としてにぎわった。江戸の浅草はこのような発展を遂げるとともに、町人の町、寺院街という特徴をもち、位置的には江戸の下町に属した。町人の町であったことは下町人情、下町情緒、下町気質といった独特の伝統を生んだ。

[小森隆吉]

繁華街

浅草寺周辺は、いま東京都内屈指の盛り場である。元禄(げんろく)時代(1688~1704)ごろから盛り場であったといわれ、享保(きょうほう)年間(1716~1736)以降は、盛り場として定着した。浅草寺境内には水茶屋が小屋掛けし、名物の楊枝屋(ようじや)が所狭しと並んでいた。浅草寺本堂西側と裏手は、俗に「奥山(おくやま)」とよばれ、軽業(かるわざ)や奇術、異形の人、珍獣の展覧などの見せ物興行が行われ、辻講釈(つじこうしゃく)の志道軒、品玉(しなだま)の東芥子之助(あずまけしのすけ)、独楽回(こままわし)の松井源水、居合(いあい)の長井兵助らの大道芸人が諸芸を演じ、矢場もあった。

 浅草寺境内は、1871年(明治4)明治政府に公収、1873年太政官布告(だじょうかんふこく)に基づいて公園地に指定された。公園は一般に浅草公園とよばれた。1883年浅草寺西側の水田(旧火除地(ひよけち))を掘って池とし、掘り出した土で池畔を埋立てて街区(後の六区にあたる)をつくった。池は大池、公園の池という。1884年公園地は一区から七区に分けられた。一区は浅草寺本堂周囲で、浅草神社(あさくさじんじゃ)、二天門、宝蔵門(1964年4月再建。旧称仁王門)、五重塔(1973年旧位置と参道を隔てた反対側に再建)、淡島堂(あわしまどう)などのある所。二区は仲見世(なかみせ)の地。三区は浅草寺本坊の伝法院(でんぽういん)がある所。四区は公園中の林泉地で、大池、ひょうたん池(大池の東隣にあった)があった。五区は俗に奥山とよばれた所で、花屋敷がここに属した。六区は初め見世物小屋が並び、のち映画館街となる。七区は公園南東部の公園付属地で、のち公園地から除外。行政町名上、一区から六区までは1965年(昭和40)まで存続したが、浅草公園地は1947年(昭和22)浅草寺に返還され、公園ではなくなった。

 1945年(昭和20)浅草寺、六区の映画街をはじめ一帯は戦災で焼失した。しかし浅草寺は1958年本堂再建、1960年雷門(かみなりもん)の復原、1973年五重塔の竣工(しゅんこう)をみた。六区も戦後まもなく再開され、大衆娯楽の街として栄えてきた。現在も映画館、ストリップ劇場、演芸場などがあるが、近年客足をほかに奪われ、電気館の閉館(1976)、国際劇場の閉鎖(1982)などが続いたため、六区の再開発が進められている。

 この間、1890年(明治23)から関東大震災(1923)で崩壊するまで、凌雲閣(りょううんかく)は浅草の名所であった。俗に浅草十二階とよばれ、眺望を楽しむ施設であった。六区は日本最初の活動写真常設館「電気館」の開館した所であり、以来、幾多の映画が上映された。それは無声映画からトーキーの歴史であった。演劇面での六区は、大正のオペラ、昭和初年のレビュー、軽喜劇、ついで軽演劇、女剣劇、ストリップが流行、それぞれの時代を彩った。浅草の舞台を踏んで世に出た俳優は数多く、清水金一(シミキン)、田谷力三(たやりきぞう)、榎本健一(えのもとけんいち)(エノケン)、古川緑波(ふるかわろっぱ)、益田喜頓(ますだキートン)、伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)ら枚挙にいとまがない。

[小森隆吉]

行事

2月の節分会(せつぶんえ)、3月の観音示現会、5月の三社祭(さんじゃまつり)、6月の浅間神社(せんげんじんじゃ)の植木市、7月のほおずき市、10月の菊供養、11月の鷲神社(おおとりじんじゃ)の酉の市(とりのいち)、12月の歳の市(としのいち)はとくに多くの人出がある。なかでも三社祭に行われる古風を残す田楽舞(でんがくまい)と、大神輿(おおみこし)3基の宮出し・宮入りの豪華さは、関東一を誇っている。浅間神社は浅草寺北方にあって、初夏の縁日市として開かれる大規模な植木市によって、東京都内の縁日植木の値が定まる。ほおずき市は浅草寺の境内いっぱいに、よしず張りの売店が並んで、鉢植えホオズキが売られる。夜の風景がことさらみごとである。菊供養は、菊慈童の故事にちなむ、延命息災祈願の菊替(きくかえ)仏事で、古式をいまに残す行事としては珍しい。暮れには本堂の煤(すす)払いがあって、年に1回の本尊の開扉(かいひ)が行われる。歳の市は『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の再現をみるような羽子板市がたち、関東には類のないにぎわいを呈する。

[小森隆吉]

『『浅草区誌』(1914・浅草区)』『『台東叢書1~4』(1962~1968・台東区)』『石津三郎著『浅草蔵前史』(1958・蔵前史刊行会)』


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百科事典マイペディア 「浅草」の意味・わかりやすい解説

浅草【あさくさ】

東京都台東区浅草1丁目,2丁目地区。浅草(せんそう)寺の門前町から発達,1657年吉原に遊廓移転後江戸最大の盛り場に発展,明治以後浅草公園となった。以後関東大震災まで,その中心は観音堂から雷門へ煉瓦造の小店が続く仲見世(なかみせ),剣劇や浅草オペラ,活動写真でにぎわう六区興行街,盆栽と演芸の花屋敷,煉瓦建築の十二階(凌雲閣)などであった。現在も新仲見世,仲見世,浅草通り,旧六区,国際通りなどが下町の代表的な繁華街をなしている。東武鉄道,地下鉄銀座線の起点でもある。広義の浅草は旧浅草区をさし,山谷(さんや),蔵前,旧吉原(千束4丁目),隅田公園などを含む。
→関連項目浅草文庫元禄の大火台東[区]文化3年の大火

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅草」の意味・わかりやすい解説

浅草
あさくさ

東京都台東区東部の地区。旧区名。一般に浅草寺とその周辺の公園,繁華街をさす。地名の由来は,西方の武蔵野の深草に対し,東方の浅い草むらの土地であることによる。かつては隅田川口の寒村であったが,江戸時代に入って浅草寺の門前町として発展。関東大震災までは東京随一の庶民的繁華街であった。大震災後は山ノ手の住宅地化や国鉄の便がないことなどにより,衰退した。特に第2次世界大戦後はいっそう衰退が目立った時期もあるが,現在は下町きっての庶民的な歓楽街。映画館,劇場,仲見世商店街,金竜山浅草寺,浅草公園に加え,近年は高層ホテル,ビール会社のレストランなど新しい施設もつくられた。東京地下鉄銀座線,都営地下鉄浅草線が通り,東武鉄道伊勢崎線の発着駅がある。

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世界大百科事典 第2版 「浅草」の意味・わかりやすい解説

あさくさ【浅草】

東京都台東区東部,隅田川西岸にある地名。江戸時代より浅草(せんそう)寺の門前町として栄え,明治以降も繁華街として発展した。1878年東京市15区制によって寺を中心とする南北に長い地区が浅草区となり,1947年に下谷区と合併して台東区の一部となった。1873年浅草寺域は浅草公園に指定され,のち園地は一区観音堂,二区仲見世,三区伝法院,四区木馬館一帯,五区花屋敷一帯,六区興行街の6区画に整備された。そのうち六区の興行街は1903年に日本最初の常設映画館〈電気館〉ができて東京の大衆娯楽の代表地となり,浅草公園の代名詞ともなった。

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動植物名よみかた辞典 普及版 「浅草」の解説

浅草 (アサクサ)

植物。ウシケノリ科の紅藻。アサクサノリの別称

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世界大百科事典内の浅草の言及

【軽演劇】より

…既成演劇の枠を外した芝居やレビューのスタイルをとり入れた構成が好まれて,日本古来の伝統とは無縁なジャンルが隆盛をきわめることになった。大正の半ばから隆盛となった〈浅草オペラ〉が震災によって消えたあとに,やはり庶民の娯楽・芸術として登場したのが軽演劇で,それは日本版ボードビルということもできる。
[エノケンとロッパの時代]
 まず,29年に浅草公園水族館2階の演芸場で,エノケンこと榎本健一を座長とするレビュー式喜劇団〈カジノフォーリー〉が旗揚げした。…

※「浅草」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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