浜尾新(読み)ハマオアラタ

デジタル大辞泉 「浜尾新」の意味・読み・例文・類語

はまお‐あらた〔はまを‐〕【浜尾新】

[1849~1925]教育行政家。兵庫の生まれ。東大総長貴族院議員・文相枢密院議長などを歴任。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「浜尾新」の意味・読み・例文・類語

はまお‐あらた【浜尾新】

  1. 教育行政家。兵庫県出身。アメリカ留学後、東京開成学校文部省に勤務。貴族院議員、東京帝大総長、文相、枢密顧問官、東宮大夫、枢密院議長などを歴任。嘉永二~大正一四年(一八四九‐一九二五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「浜尾新」の意味・わかりやすい解説

浜尾新 (はまおあらた)
生没年:1849-1925(嘉永2-大正14)

明治・大正期の教育行政家。東京帝国大学の総長としても著名である。但馬(兵庫県)豊岡藩士の家に生まれ,明治維新前に京坂,江戸で英学・仏学を学ぶ。1872年(明治5)文部省に出仕大学南校(東京大学の前身)の舎中監事を務めた。73-74年アメリカに留学,帰国後東京開成学校長心得を経て,77年東京大学成立後は法・理・文3学部の綜理補として同郷の綜理加藤弘之を助けた。80年,文部省に転じ,官立学務局長,専門学務局長等を歴任し,東京職工学校(東京工業大学の前身),帝国大学農科大学(農学部)の設置等に貢献した。この間85年に文部省から学術制度調査のためヨーロッパに派遣されている。93年帝国大学総長となり講座制の創始参画,97年から1ヵ年文部大臣を務めた。東京帝大と文部省の抗争事件(戸水事件)収拾のため1905年再び東京帝国大学総長に迎えられ,12年まで在任した。このほか,1889年元老院議官,90年貴族院議員に選任され,晩年は東宮御学問所副総裁,枢密院議長などを歴任した。温厚な人柄で広く知られた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「浜尾新」の解説

浜尾 新
ハマオ アラタ


肩書
枢密院議長,文相,東京帝大総長

生年月日
嘉永2年4月20日(1849年)

出生地
但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)

学歴
慶応義塾 大学南校

経歴
豊岡藩の藩命により英学・仏学を学び、ケンブリッジ大学から栄誉学位を受けた。明治5年大学南校の中監事、7年東京開成学校校長心得を経て、東大副総理として加藤弘之総長を助け創立当初の東大とともに歩いた。この間、文部省入りして学務局長、学術制度調査のため欧州派遣。明治26年帝大総長。30年第2次松方内閣の文相。その後、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。大正時代には東宮御学問所副総裁として7年間、のちの昭和天皇の教育を担当し、大正13年枢密院議長に就任。また海外の推理小説に造詣が深く、自らも創作し、多くの作家を育てた本格派推理文学の開拓者でもある。

没年月日
大正14年9月25日

家族
孫=浜尾 実(東宮侍従)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「浜尾新」の解説

浜尾 新
ハマオ アラタ

明治期の教育行政官 東京帝大総長;枢密院議長;文相。



生年
嘉永2年4月20日(1849年)

没年
大正14(1925)年9月25日

出生地
但馬国豊岡(兵庫県豊岡市)

学歴〔年〕
慶応義塾,大学南校

経歴
豊岡藩の藩命により英学・仏学を学び、ケンブリッジ大学から栄誉学位を受けた。明治5年大学南校の中監事、7年東京開成学校校長心得を経て、東大副総理として加藤弘之総長を助け創立当初の東大とともに歩いた。この間、文部省入りして学務局長、学術制度調査のため欧州派遣。明治26年帝大総長。30年第2次松方内閣の文相。その後、元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。大正時代には東宮御学問所副総裁として7年間、のちの昭和天皇の教育を担当し、大正13年枢密院議長に就任。また海外の推理小説に造詣が深く、自らも創作し、多くの作家を育てた本格派推理文学の開拓者でもある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「浜尾新」の解説

浜尾新

没年:大正14.9.25(1925)
生年:嘉永2.4.20(1849.5.12)
明治の教育行政官。東大の揺籃期からの育成者。但馬(兵庫県)豊岡藩の下士浜尾嘉平治と妻ゆうの子に生まれた。明治初年,慶応義塾,大学南校などに学ぶ。明治5(1872)年南校舎中監事となり,6年米国オークランドの兵学校に留学,学校運営を実地に学ぶ。7年帰国し,東京開成学校長心得,東大法理文3学部綜理補を歴任。26年帝大総長,30年文部大臣となる。温厚な人柄ゆえ人望があり,東京帝大法科大教授戸水寛人が日露講和時期尚早論を展開し,時の桂内閣によって休職処分になった戸水事件(1905)の折は再び東京帝大総長に就任しこれを鎮めた。大正時代には東宮御学問所副総裁として7年間,後の昭和天皇の文化人としての教育に努め,大正13(1924)年には枢密院議長に就任した。

(吉家定夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浜尾新」の意味・わかりやすい解説

浜尾新
はまおあらた

[生]嘉永2(1849).4.20. 江戸
[没]1925.9.25. 東京
明治,大正期の教育行政家。豊岡藩士の家に生れ,英,仏学を学び,明治5 (1872) 年から文部省に勤務,1873年アメリカに留学,74年帰国して東京開成学校校長心得,77年東京大学創設に伴い法,理,文,3学部綜理補。 80年文部省に戻り,官立学務局長,専門学務局長などを歴任。 93年東京大学総長に就任し,講座制の創設などに努力。 97年松方正義内閣の文部大臣に就任,のち再び東京大学総長,東宮御学問所副総裁,枢密院議長などを歴任し,教育行政面に尽力した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「浜尾新」の意味・わかりやすい解説

浜尾新【はまおあらた】

明治・大正期の教育家,教育行政家。但馬(たじま)国豊岡藩士。英仏学を修め1872年文部省に出仕。大学南校,東大,文部省官立学務局等の要職を歴任,1893年東大総長(1905年再任)となり初期の東大運営に尽力。のち文相,枢密院議長。
→関連項目浜尾四郎

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「浜尾新」の解説

浜尾新
はまおあらた

1849.4.20~1925.9.25

明治期の教育行政家。但馬国生れ。1872年(明治5)以降文部行政にたずさわる。74年開成学校校長心得,81年専門学務局局長。外遊後農科大学の設立に尽力し,93年に帝国大学総長。この間元老院議員・貴族院議員などを歴任。96年高等教育会議議長をへて,同年文相。1905年戸水(とみず)事件収拾のため再び東京帝国大学総長となる。11年枢密顧問官兼務(のち枢密院議長),14年(大正3)東宮御学問所副総裁に就任した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浜尾新」の解説

浜尾新 はまお-あらた

1849-1925 明治-大正時代の教育行政家。
嘉永(かえい)2年4月20日生まれ。但馬(たじま)(兵庫県)豊岡藩士の子。明治5年文部省にはいり,南校監事,東京開成学校長心得などをへて26年帝国大学総長。30年第2次松方内閣の文相となる。38年東京帝大総長。のち東宮御学問所副総裁,枢密院議長などをつとめた。大正14年9月25日死去。77歳。幼名は貞次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「浜尾新」の解説

浜尾 新 (はまお あらた)

生年月日:1849年4月20日
明治時代の教育家。東京大学総長;枢密院議長;子爵
1925年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報