元来狭義には軍艦どうしの海上戦闘をいうが,兵器の進歩発達によって様相は時代とともに変化し,現在広義には航空機,ミサイルなどを用いて海上で行われる戦闘の総称をいう。とくに近世以降の火薬と火砲の発達,近代における汽走軍艦の出現,第1次世界大戦における潜水艦,第2次世界大戦における航空機とレーダー,戦後のミサイルの発達は海戦の様相を大きく変化させ,新しい戦略戦術を生むに至っている。
軍船の役割は遠征する陸上兵力の輸送と補給が主で,海戦はそれを阻止する側との間に起きる海上覇権の争いであった。地中海で使用された古代ギリシア,ローマなどの軍船(ガレーgalley)は櫓を主とし,帆も併用するもので船首に衝角を装着していた。互いに風と地の利を利用して近接し,個々に体当りして敵の水線下に衝角をつきさし破口をあけ沈没させる衝角戦法や,弓矢,投槍などで敵に損害を与えたうえで接玄横付けし,敵船に乗り込み戦う戦法が用いられた。またその後投石と焼夷戦法が発達し,アクティウムの海戦(前31)ではローマ側がエジプトに対し,投石機の射程外から火矢と火壺を打ち込む焼夷戦法を使って勝利をおさめたといわれる。
ガレー船はその後堅牢大型となり,帆がラティンセール(三角形の帆)になるなどの変化はあったが櫓と帆を使って航進し,接玄横付けして敵船に乗り込み,投てき火焰や刀剣弓矢を用いて戦う戦法は中世を通じ変化がなかった。12世紀後半に十字軍とイスラム軍の海戦で初めて火薬がイスラム軍によって使用され,13世紀にはガレー船上でハンドカノンが使用されるなど,火砲はしだいに主要な武器へと発達していく。レパントの海戦(1571)は漕船どうしの最後の戦闘となったが,火砲の優れたスペイン・イタリア連合軍側が弓矢を主としたトルコ軍に圧勝した。
羅針盤など遠洋航海術,外洋航海能力をもつ船の開発などにより,15世紀になると大航海時代をむかえ,続いて領土拡張と植民地争奪が行われることとなった。16世紀ごろまでには数層の甲板に大砲を搭載した強武装大容量のガレオン船がスペインなどで作られ,イギリス,オランダ,フランスなどの新興海運国がこれに続いた。戦法が敵船と距離をとり片玄の大砲の一斉射撃(片玄斉射)により勝敗を決するよう変化したことに伴い,17世紀には船体強度を増すため二重,三重の甲板をもち,砲数も100門以上のものが出現した。また集中砲火発揮のため艦隊戦術運動が開発され,その優劣が海戦の勝敗を決するようになった。ポートランド沖海戦(1653)ではオランダ艦隊の前路を丁字型に抑えるいわゆる丁字戦法をとったイギリス艦隊が勝利をおさめ,北海南部の4日間継続海戦(1666)では風潮をじょうずに利用し適切な戦術運動をしたオランダ軍がイギリス軍に勝利した。スコーネウェルト海戦(1673)でも火船(可燃物を満載した小型船に火をつけ,敵艦の結集している港内へ放す)と風を利用し戦術運動に優れたオランダ軍がイギリス・フランス軍に勝利した。イギリス海軍は1703年艦隊戦術運動の規範を制定した。
当時の軍船は無炸薬(むさくやく)の実体弾(砲弾に炸薬が充てんされておらず,命中しても爆発しない)を発射する火砲50門以上装備の木造帆船が大部分で,200~400m以内に接近してから短時間に砲弾を発射する。射撃目標となるのは帆,マスト,索具,兵器,乗員などであり,敵船を操縦不能にすることが任務であった。火砲の射程が1500m程度となってからは,優位な態勢に早く占位し,単縦陣と単横陣を併用しながら集中火力を発揮し,敵船を撃沈する戦法へと発展した。栄光の6月1日の海戦(1794)では戦術運動に優れたイギリスがフランスに大勝し,トラファルガーの海戦(1805)では単縦陣突入の戦法をとったイギリスがフランスをやぶった。
19世紀中期に蒸気機関スクリュー推進へと変化した。艦砲も砲弾は炸薬弾となり,砲身には施条が入って命中精度,射程が向上し,少数の大型砲を搭載するようになり,防御力を向上させるため船体材料は木から鉄へ,さらに鋼へと変化していった。
19世紀後期には,戦艦,巡洋艦など各種の近代的軍艦が出現し,20世紀前期には艦砲は口径38cm,射程1万6000mにも発達し,速力は戦艦12~18ノット,巡洋艦20~24ノットとなり,これら主力艦の水上砲戦が海戦の主役となり,大艦巨砲による敵艦船撃破が海軍戦略の基本となった。1864年魚雷の出現によって高速小型の水雷艇が生まれ,海戦は戦艦とその戦艦を魚雷攻撃から守る補助艦を加えた艦隊どうしの戦闘へと変化した。魚雷は初め速力6ノット,射程350m程度であったが,20世紀前期には35ノット,7000mにもなり,戦艦は魚雷攻撃を避けるため大砲の射程延伸と高速力が要求され,海戦における参加艦艇も数十隻から十数隻へと減少した。19世紀末には主力艦中心の艦隊決戦により制海権の確保を主張するA.T.マハンをはじめとする戦略論が生まれた。
大戦中,戦艦は1万4000~4万トン,速力24~28ノット,主砲は口径38cm,射程2万mにも発達した。航空機を搭載する商船改造の航空母艦が出現し,潜水艦と魚雷と機雷の発達によって,海戦は三次元の戦闘様相へと発展した。とくに潜水艦は軍艦のみならず商船をも攻撃し,被害は非戦闘員にも及んだ。また戦域は世界的規模に拡大し,敵主力艦を撃沈し勝利を得る戦略にかわり,敵戦力の消耗を目標とする消耗持久戦略の思想が生まれた。
第1次世界大戦における被害艦艇の沈没原因別パーセントは表のとおりで,魚雷と機雷による損失が多く,近代以降海軍戦略の大勢を支配した大艦巨砲主義に一つの転機を迎えた。とくに潜水艦によって多大の戦果をあげたことにより,ドイツは高価な戦艦の建造をやめ,潜水艦による海上交通破壊戦重視の戦略へと移行した。また,ソ連もドイツの戦略思想を見習って潜水艦重視の戦略を採用した。しかし,日米英などの海洋国家は依然大艦巨砲による敵艦船撃破重視の思想をもって主力艦建造にいっそうの拍車をかけた。
第1次世界大戦後,とくにレーダーの出現と航空機と潜水艦の発達によって,海戦は水上艦どうしから潜水艦と水上艦および航空機と水上艦という異兵種間の戦闘へと変化した。戦術的にはとくに先制奇襲が,戦略的には海上封鎖と国力の消耗戦が重視された。
レーダーは1939年イギリスで発明され,英米は40年末から艦艇と航空機に装備して敵の捜索発見,味方の識別および部隊の指揮運用が容易となり,敵潜水艦の活動を大きく阻止できるようになった。
航空機の発達によって,制空権の獲得維持が海上作戦の勝敗を左右し始め,戦艦中心の大艦巨砲主義は後退し,空母機動部隊を中心とする航空機の運用が海上作戦に大きなウェートを占めるようになり,海戦は水上砲戦による敵艦船撃破から航空機による敵艦船攻撃へと変わった。海洋国は1920年代から大型航空母艦(空母)の建造を始め,アメリカは22年3月ラングレーの改装を,日本は22年12月鳳翔を,イギリスは23年5月ハーミスをそれぞれ完成就役させた。41年開戦時に日本は空母6隻を保有し,空母機動部隊による真珠湾攻撃に成功した。41年マレー沖海戦では直衛援護機をもたなかったイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズは日本軍占領下の陸上基地から発進した軍用機によって撃沈され,45年沖縄沖へ向かった戦艦大和は直衛戦闘機を欠いていたため,空母から発進した軍用機によって撃沈された。
潜水艦は,偵察,哨戒,奇襲の任務から人員物資の輸送にも従事し,行動範囲は全作戦海域へと拡大し,水上艦と比肩できる戦略兵力へと発展し,第2次大戦末期には戦艦,巡洋艦に代わり,海上交通破壊戦には不可欠の存在となり,航空機とともに制海権の獲得,維持上必須の艦種となった。
とくにミサイル,偵察衛星,原子力推進機関などの著しい進歩発達によって600年にわたる水上艦中心の大艦巨砲重視の時代は終わり,海戦は水上艦,潜水艦および航空機使用のミサイル戦の時代へと変化している。1967年の第3次中東戦争において,アラブ連合(現,エジプト)の250トン級のミサイル艇から発射された対艦ミサイルが,約30km離れたイスラエルの駆逐艦エイラートに命中し撃沈した。また,82年のフォークランド紛争では,イギリス艦隊はアルゼンチン海軍機から対艦ミサイルのエグゾセで攻撃を受け多くの損害を蒙り,駆逐艦シェフィールドは沈没した。今後ミサイルの重要性はますます増加していくものと思われる。
執筆者:田尻 正司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
海上で行う戦闘のこと。初期の海戦はもっぱら船上の陸地戦であった。統一された指揮はなく、勝敗は戦闘員の力と勇気に依存していた。火薬が発明され砲が船に装備されると海戦は新しい意味をもつようになったが、それでも司令官は敵船をさして「砲手、あの船を沈めよ」といえば事足りた。当時の基準では砲撃の理想的な距離はピストルの射程とされ、20ヤード(約18メートル)まで接近することが望ましいとされていた。19世紀になると世界の植民地化が進んだ結果、西欧列国海軍は大規模化し、したがって海戦も信号旗による統一指揮の下、戦術運動や片舷(へんげん)斉射などをもって戦われるようになる。しかし信号旗は天候や砲煙ですぐ見えなくなるから、戦闘の基本は依然として見敵必戦、独断専行であった。トラファルガーの海戦に臨むネルソン提督の命令には「私の信号が見えないときには敵のほうへ突っ込んで行け、そうすれば大きく誤ることはない」とある。鋼鉄動力艦隊どうしが初めて大規模な海戦を展開した1905年(明治38)の日本海海戦では無線電信が指揮の統一に大きな威力を発揮した。仮装巡洋艦信濃(しなの)丸が発した「敵艦隊見ゆ」に始まるバルチック艦隊の陣形、針路、速力に関する動静報告は、無線電信が海戦で実際に使われた世界最初の例である。この海戦で旗艦三笠(みかさ)の12インチ砲が火を吹いたのは敵艦との距離6400メートルの位置からだった。潜水艦と航空機の海軍への参加は海戦の性格をいっそう複雑、広範囲、立体化させる要素として作用した。とくに航空母艦の出現によって海戦は水平線のかなたに拡大され、対水上砲戦より対空砲戦が重視されるようになる。1942年(昭和17)日米両海軍で戦われたサンゴ海海戦は、対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視野に入れない史上初の海戦であった。第二次世界大戦は海戦から巨砲と測距儀と望遠鏡を追放し、かわってレーダー、ソナー(水中音波探知器)、航空機を登場させたのである。現代の海戦は、ミサイルと半導体技術の驚異的な進展によって自動化、遠隔化がますます進む一方、海軍の目的それ自体が、敵の水上艦隊を撃滅して制海権を獲得する使命から、戦略ミサイル潜水艦による敵国政治中枢の戦略的破壊を主軸とする核抑止戦略の一環へと移行したため、海上決戦とよぶにふさわしい海上戦闘が生起する公算はきわめて少なくなった。将来ありうる海戦の形は、朝鮮戦争、ベトナム戦争型の海上交戦を欠く封鎖作戦、もしくはその逆の海軍力の弱い国がテロやゲリラの形で大国の海軍に挑戦するようなものであると考えられる。
[前田哲男]
『外山三郎著『西欧海戦史――サラミスからトラファルガーまで』(1981・原書房)』
ドイツの劇作家ラインハルト・ゲーリングの一幕戯曲。1917年作。翌年ドレスデンとベルリンで初演。表現主義の代表的戯曲の一つ。第一次世界大戦中のスカゲラークの海戦(1916.5.31)を素材に、戦場へ向かう戦艦の砲塔内に閉じ込められた7人の水兵が、不安におびえながら、互いの心の内奥を探り合う。人殺しの義務を選ぶか、勇を鼓して反乱を選ぶか、7人の決断とためらいが激しくぶつかる。やがて敵艦と遭遇し、砲塔内も被弾、ガスマスクをつけてだれとも区別のつかなくなった水兵たちが次々と倒れてゆくなかで、反乱を扇動した水兵が最後まで残って戦う。日本では24年(大正13)、築地(つきじ)小劇場の杮落(こけらおと)しに土方与志(ひじかたよし)演出で上演。わが国の新劇史上、記念碑的作品。
[山本 尤]
『茅野蕭々訳『海戦』(『近代劇全集11 独逸篇』所収・1927・第一書房)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…台詞が音に還元される〈絶叫劇Schreidrama〉を書いたのは第1次大戦で戦死したA.シュトラムである。戦争が末期に近づくと,平和的・反戦的傾向を示すウンルーFritz von Unruh(1885‐1970)の《一族Ein Geschlecht》や砲塔に閉じこめられた水兵を描くゲーリングReinhard Göring(1887‐1936)の《海戦Seeschlacht》(1917)などが現れる(なお,ゲーリングの《海戦》は創立当初の築地小劇場でとりあげられ,当時の日本の新劇界に大きな影響を与えたといわれる)。すでに第1次大戦中からマンハイム,フランクフルト,ハンブルクなどで表現主義劇が多く舞台に登場するようになり,ベルリンでもM.ラインハルトが〈若いドイツ〉というスタジオ上演を開始した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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