海禁(読み)かいきん(その他表記)Hǎi jìn

精選版 日本国語大辞典 「海禁」の意味・読み・例文・類語

かい‐きん【海禁】

  1. 〘 名詞 〙 中国で、海上交通貿易漁業などに加えられた制限。明清時代に特に厳しかった。
    1. [初出の実例]「其比は大明の代も、万暦の比ほひにて、海禁の厳なる時なれば」(出典:随筆・折たく柴の記(1716頃)下)

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改訂新版 世界大百科事典 「海禁」の意味・わかりやすい解説

海禁 (かいきん)
Hǎi jìn

中国,主として明・清時代に実施された鎖国政策にもとづく海外との通交・貿易に関する制限のこと。明の太祖は建国後まもなく1371年(洪武4),倭寇対策の一つとして,中国人が外国と交易すること,および海外に渡航することを厳禁した。〈片板も下海を許さず〉ということで,これが海禁の始まりであった。そして王朝の厳しい管理のもとで諸外国とは朝貢貿易のみが許された。しかし時代とともに禁令緩み,一方国内産業の発達によって密貿易が盛んになった。明王朝がこれに対し海禁を再度強化した結果おこったのが,16世紀中ごろの倭寇の大侵寇であったが,結局1567年(隆慶1)明朝は海禁政策を緩和せざるをえなくなった。清朝は成立当初,南明鄭氏の活動を抑えるため厳重な海禁政策をとったが,そうした反清活動が鎮定されると,1684年(康煕23)禁令を解いて交易を奨励した。しかし1757年(乾隆22)以後ふたたび海禁政策が強化され,貿易港を広東1港に制限し,貿易は公行(特許商人)にのみ許可することになった。こうした鎖国政策が最終的に打ち破られたのが,アヘン戦争の結果結ばれた南京条約であった。
遷界令
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百科事典マイペディア 「海禁」の意味・わかりやすい解説

海禁【かいきん】

中国,明・清時代に政府が治安維持と密貿易取締りのために行った一種の鎖国体制。明では外国からの貢船が持ち込む貨物の貿易は認めたが,一般の商船には認めず,〈寸板といえども下海を許さず〉が原則であった。従って貿易は朝貢貿易のかたちをとり,勘合符を発行して船数や港を制限した。これに反発する勢力の代表が日本人を中心とした密貿易船の倭寇(わこう)で,明はこの鎮圧に苦しんだ。16世紀半ばに一時的に緩和されたが,清初の17世紀後半には明の遺臣鄭成功(ていせいこう)らの勢力に対して再び海禁し,1757年以降は貿易を広州のみに限ったが,アヘン戦争に敗北して南京条約(1842年)で5港を開港した。
→関連項目海関冊封体制鎖国

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海禁」の意味・わかりやすい解説

海禁
かいきん

海上の交通、貿易などに制限を加えること。国内治安を保ち、密貿易を取り締まり、外国との紛争を避けるのを目的とする。中国では、海禁は4世紀以来、何度か行われたが、体制的に完成したのは明(みん)初のことである。明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)は1371年、倭寇(わこう)の防御策として通蕃(つうばん)下海の禁令を出し、貢船とその積載する貨物の交易は許すが、民間の商船には認めないことにした。この禁令は厳しく実施されたが、密貿易はやまなかった。ことに嘉靖(かせい)年間(1522~66)には、密貿易を取り締まろうとして、かえって倭寇の大侵入を引き起こし、そのため海禁を緩和せざるをえなかったほどである。清(しん)朝は南明(なんみん)や台湾鄭(てい)氏の活動を封ずるため、遷界令(せんかいれい)を実施して、沿岸の住民を内地に移住させたが、鄭氏降伏後に解除した(1684)。ついで1757年以後、貿易港を広州1港に制限したが、この体制は1842年の南京(ナンキン)条約によって最終的に放棄された。

[寺田隆信]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海禁」の意味・わかりやすい解説

海禁
かいきん
hai-jin; hai-chin

中国,明・清時代の中国人の海外渡航と貿易を禁止制限する政策。海禁とは下海通蕃 (出海し外国に通交すること) の禁の意味。明では元末から倭寇,海寇の防止策として,洪武4 (1371) 年以来この政策が堅持され,海外諸国には朝貢貿易のみを許していた。しかし中期に禁令がゆるみ,中国人の密船,密貿易が盛んとなり,これを取締ろうとしてかえって嘉靖 (1522~66) の大倭寇を招く結果となり,ついに隆慶1 (67) 年に海禁を解き,海外渡航の緩和策がとられた。清では南明の勢力,特に台湾の鄭氏の活動を押えるため遷界令を出し,海禁は厳重であったが,その平定後に緩和され (84) ,次いで乾隆 22 (1757) 年には再び貿易は広州1港のみに限定して,閉関 (鎖国) 政策がとられた。アヘン戦争の結果,この政策はついに放棄された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「海禁」の解説

海禁(かいきん)

中国の明清時代,庶民の海上交通や貿易活動に対する王朝の制限政策。明の洪武帝は,元末以来の倭寇(わこう)を取り締まるため,王朝による朝貢貿易を推進する一方で,中国人の海外渡航や外国との貿易,外国船の往来を禁止した。16世紀半ばには,王直(おうちょく)をはじめとする中国人の密貿易が再び活発化した。1567年に中国人の海外渡航の禁を緩めたが,清初には,鄭成功(ていせいこう)に対抗して遷界令(せんかいれい)をしき,制限を強化した。アヘン戦争後の1842年に南京条約を締結し,この政策を最終的に放棄した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「海禁」の解説

海禁
かいきん

明・清両朝が治安維持や密貿易取締りのために行った鎖国体制
明では1371年倭寇対策のために海岸を封じ,貿易は朝貢貿易の形で勘合符により船数や港を制限した。しかし,嘉靖年間の倭寇の大侵入や王直の乱に苦しみ,1567年に緩和された。清では初期に明の遺王や鄭成功 (ていせいこう) に対して海禁を行ったが,平定後廃止した(1684)。1757年,乾隆 (けんりゆう) 帝は再び鎖国して,貿易を広東1港に制限したが,アヘン戦争後の1842年の南京条約で,中国の鎖国政策は最終的に放棄された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「海禁」の解説

海禁
かいきん

下海通蕃之禁(かかいつうばんのきん)の略。中国・朝鮮で,一般の中国人・朝鮮人の私的な海外渡航や海上貿易を禁止した政策。とくに明・清代の政策が知られる。明の太祖洪武(こうぶ)帝は,冊封(さくほう)関係を結んだ周辺の諸国王との朝貢貿易だけに限定。1371年,国内の人民に対して海外渡航と外国人との私的交流を禁止し,倭寇(わこう)を禁圧しようとした。清は1655年以降,海禁政策をとる。日本の江戸時代の鎖国を,海禁の一種とする見解もある。

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世界大百科事典(旧版)内の海禁の言及

【倭寇】より

…またこのころ東アジアの海域にはじめて姿をあらわしたポルトガル人も倭寇の同類としてあつかわれた。明では太祖以来海禁という一種の鎖国政策をとって中国人が海上で活動するのを禁じていたが,経済の発達につれこの政策の維持は困難になり,多数の海上密貿易者が発生した。彼らは郷紳(きようしん),官豪(かんごう)などとよばれた地方富豪層と結びながらさかんに密貿易を推進した。…

※「海禁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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