琵琶湖から流出し京都盆地を横切ってから大阪平野に入り、南西方向へ流れて大阪市内を貫流した後に大阪湾に注ぐ河川。淀川流域の最大の水源は琵琶湖水系で、
淀川の名称は「日本紀略」延喜一八年(九一八)八月一七日条に「淀河水如海岸流、人者共屋流死、獣者溺斃、其日、山崎橋南端入水二間許」と初見するほか、同書長徳元年(九九五)一〇月二一日条、長保二年(一〇〇〇)三月二六日条、寛仁元年(一〇一七)九月二二日条などにもみえる。また「今昔物語集」巻一一に淀川にまつわる説話「田村将軍、はじめて清水寺を建てたる語」などが載る。記紀では「日本書紀」仁徳天皇一一年条に「北河」、同三〇年条に「
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
近畿地方の中央部を流れて大阪湾に注ぐ川。淀川水系の最大の水源は琵琶湖で,瀬田川から流出して宇治川と名を改めて京都盆地に入り,京都・大阪府界の山崎狭隘部において木津川と桂川を合流して大阪平野に入る。次いで芥川,天野川などの支流を合わせて南西方向へ流れ,新淀川と神崎川,大川(旧淀川)に分かれて大阪湾に注ぐ。神崎川には支流の安威川,猪名川があり,また大川は寝屋川を合流し,大阪市西部で安治川,尻無川,木津川に分岐する。大津市瀬田から河口までの幹川流路延長75km。全流域面積は8240km2で,滋賀,京都,三重,奈良,兵庫,大阪の6府県にまたがる。
1704年(宝永1)の付替え工事前の支流大和川を含めた淀川流域は,古代国家の都が相次いで建設されて以来,日本の政治・経済・文化の中心地としての歴史を展開してきた。したがって,淀川は文献史料に早くから姿をみせ,また治水・利水のための大規模な土木事業が他のどこよりも早くから組織的に実施され,さらに活発な水運によって近畿地方のみならず全国的に重要な経済動脈としての役割を果たしてきた。
縄文時代前期の約7000~6000年前には,大阪平野の淀川低地と,河内低地に海が深く入りこんでいたが,上町(うえまち)台地北側に砂州が発達してその湾口をしだいに狭め,淀川,大和川による土砂の堆積が進んだため,水域は縮小しながら半淡半塩の潟湖から淡水の湖沼へと変化した。7世紀にはまだそのなごりの茨田(まんだ)池,日下(くさか)江,川俣江,難波潟の湖沼が広がっていて,淀川と大和川がこれに北と南から流入し,次いで大阪湾に注いでいた。こうした下流の低湿な地形環境に対して,茨田堤,横野堤の築造や難波堀江の開削が行われるとともに,感玖(こんく)大溝,栗隈(くりくま)大溝,葛野大堰,狭山池,依網(よさみ)池などの灌漑施設が設けられ,沿岸における農業開発が進んだ。奈良時代も淀川下流における治水・利水工事が継続し,行基によって堀川,溝が整備され,785年(延暦4)には和気清麻呂(わけのきよまろ)により三国川(神崎川)への通水路が掘られ,以後下流はこれと長柄川(中津川),堀江川(大川)に分かれて海に入ることとなった。難波,淀,山崎,宇治,木津,大津,次いで江口,神崎,河尻などが河港として淀川水運の拠点となり,中世には川関が各地に置かれた。
16世紀末の豊臣氏による伏見から大坂まで約28kmの連続堤防(文禄堤)の構築と18世紀初めの大和川付替え工事は,淀川水系の地図を大きく塗り変えた。遊水池としての巨椋(おぐら)池が分離し,大和川は堺への新放水路を流れることになって淀川と切り離され,河内低地の新開池,深野(ふこの)池とそれに注ぐ長瀬川,玉串川が干拓され新田となったからである。河口付近でも新田開発が進み,沿岸の低湿地の農村は頻発する洪水対策として村の周囲に堤防をめぐらし,用排水路を構築していた。
一方,近世初期から中期にかけて,近江・越前境の運河計画と関連して淀川上流の瀬田川の川浚(かわざらえ)を行い,敦賀~琵琶湖~坂本または大津~京坂を縦貫するルートが幾度か計画された。しかし淀川中・下流域の村々は瀬田川浚があっては大洪水になるとして反対闘争を繰り返したが,大坂町人は大坂港が浅くなってきているとして市中の淀川筋の川浚を要望し,事業家の出願もあった。結局部分的改修となり,1830年(天保1)の御救大浚となったが,たいした成果はなかった。
近世淀川筋の特権川船は過書船(かしよぶね)で,貨客の運送に当たった。18世紀初めころは,乗客を主とした三十石船671艘,貨物運送を主とした二十石船507艘であったが,伏見の繁栄のために新設の伏見船が盛大になるにつれて衰え,後期になると両者とも斜陽化して在方船が進出し,また屎尿船も航行が繁く,これらが在方の商品作物や農間稼ぎ商品を盛んに運んだので,しばしば過書船と紛争を起こした。
こうして江戸期には大坂と伏見が水上交通の中心となり,とくに大坂は天下の台所として,〈出船千艘,入船千艘〉,〈天下の貨,七分は浪華にあり,浪華の貨,七分は船中にあり〉といわれた。
執筆者:服部 昌之+小林 茂
1885年夏の記録的な大洪水は,地元住民の淀川改修運動を激化させたため,明治政府は欧米の近代工法と大型土木機械を導入し,日本最初の本格的な河川改良工事に着手した。琵琶湖の水位調節のための南郷洗堰の建設,宇治川の河道付替え,幹線河道の直線化,大川と神崎川の締切りと水門設置,新淀川放水路の開削などの諸工事が,1910年までに完成をみた。河水の多目的利用は1890年完成の琵琶湖疎水に始まり,次いで宇治川,志津川,大峰の各発電所が稼業し,1895年には大阪市への上水道供給が開始された。現在淀川から取水する上水道は沿岸都市のすべてに及んでいる。また大阪市とその周辺から始まった工業化に伴って,工業用水も淀川に求められることとなった。第2次大戦後は多目的ダムによる総合開発,1960年代からは流域の都市化・工業化の急速な進展に応じた水資源開発計画によって,上流のダム建設が進み,琵琶湖の総合開発が着手された。地盤沈下と高潮対策のための下流における防潮堤と防潮水門の設置,流域の市街地化が進む諸支流の改修,河川の総合的な保全と利用のための淀川大堰,新毛馬水門の建設と低水路の拡幅,高水敷を利用した淀川河川公園の設置,大型電子計算機に直結した雨量,水位,流量など水文情報の収集システムによる洪水の予報・制御が最近進められてきた。しかしその一方,工場廃水と都市下水の流入による水質汚染と河川環境の悪化が重要な問題となっている。
淀川流域は三重県を含めた近畿圏の総面積の約1/4であるが,近畿圏総人口1952万(1980)のうち流域の人口は1050万で54%弱を占め,さらに淀川の水の恩恵を受ける利水範囲をとると,その人口は1290万で66%に相当すると計算されている。近畿圏の経済活動と社会生活において淀川が占める重要性は,昔も今も変わらないといえよう。
執筆者:服部 昌之
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琵琶湖(びわこ)の南端から流れ出し、京都盆地、大阪平野北半部を流れて大阪湾に注ぐ川。延長75キロメートル。流域面積8240平方キロメートルに及び、近畿地方の約4分の1の広さにあたる。流域には大阪市、京都市をはじめ都市も多く、近畿における社会、経済、文化の発展の基盤をなしている。上流部は瀬田川(せたがわ)といい、やがて宇治川(うじがわ)となり、京都・大阪府境の山崎(やまざき)の狭隘(きょうあい)部で木津川(きづがわ)・桂川(かつらがわ)をあわせて淀川となる。下流では、東淀川区江口(えぐち)で神崎川(かんざきがわ)を分かち、都島(みやこじま)区毛馬(けま)で新淀川と分かれて大阪市街地を貫通、中之島(なかのしま)で堂島川(どうじまがわ)と土佐堀川(とさぼりがわ)に分流、中之島西端からは安治川(あじがわ)、尻無川(しりなしがわ)、木津川の3分流となって海に流入する。河川行政上、淀川とよぶのは宇治市天ヶ瀬(あまがせ)ダム(関西電力発電所放水口)から新淀川河口までで(1965年建設省告示)、毛馬から安治川に至る流路は旧淀川として区別している。
淀川は古来、畿内(きない)の交通動脈として政治・文化の動向に深く関係してきた。古代には河口部に難波京(なにわのみやこ)が、中流部に長岡京(ながおかきょう)、上流部に平安京が置かれた。中世には河口部の水運が神崎川に移り、江口と神崎(尼崎(あまがさき)市)が河港として栄えた。近世には伏見(ふしみ)と大坂の八軒家(はっけんや)との間に川舟が盛んに通航した。豊臣(とよとみ)秀吉は1596年(文禄5)淀川左岸に堤防(文禄堤(ぶんろくづつみ))をつくり、伏見(ふしみ)―大坂間の近道としたが、江戸時代になって堤が整備されて東海道の延長として京街道となり、伏見、淀(伏見区)、枚方(ひらかた)、守口(もりぐち)の宿駅が置かれ、河港としても栄えた。明治以降、水運は衰えたが、京阪神地方の上水源、工業用水源としてきわめて重要な役割を果たしている。一方、洪水をたびたび起こし、治水対策として南郷(なんごう)・毛馬の洗堰(あらいぜき)、淀の3川分流、新淀川の開削などの治水工事が行われ、1983年(昭和58)には毛馬に淀川大堰(おおぜき)が設けられた。
[前田 昇]
『鉄川精他著『淀川――自然と歴史〈大阪文庫1〉』(1980・松籟社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…近世における京都・大坂間の街道。豊臣秀吉が大坂・淀・伏見に築城の後,1594年(文禄3)に淀川左岸に文禄堤を築造し,堤防上を道路として伏見・大坂間の近道としたのが起源である。江戸幕府は道路をさらに整備し,京街道に伏見・淀・枚方・守口の4宿駅を設定し,品川から大津までのいわゆる東海道五十三次のほかにその延長上の宿とみなし,道中奉行の管轄下に置いた。…
…堤防にはニレやヤナギなどを植えさせて補強を促し,池・溝の小破は用水を受ける家に修築させた。761年(天平宝字5)の遠江国荒玉河堤の修築,翌年の河内国狭山池の修築,また785年(延暦4)の淀川と安威川とをつなぐ水路(神崎川)の開削などはその例である。また行基や空海に代表されるような僧侶による資金調達・労働編成による池溝開発があったことも忘れてはならない。…
…京都市伏見区の地名。かつては木津川,宇治川,桂川の三川合流地点,淀川の起点にあたり,山陽・南海両道の諸国貨物の奈良・京都への陸揚港として栄え,淀津(よどのつ)といわれた。現在の淀水垂(みずたれ)町,淀大下津(おおしもづ)町,納所(のうそ)町あたりである。…
※「淀川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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