日本大百科全書(ニッポニカ) 「淀藩」の意味・わかりやすい解説
淀藩
よどはん
山城(やましろ)国淀(京都市)周辺を領した譜代(ふだい)藩。淀の地は京都の南西郊、桂(かつら)川、宇治(うじ)川、木津(きづ)川の合流するあたり、山城と摂津・河内(かわち)の境界に位置する要地で、元亀(げんき)年間(1570~73)に三好(みよし)三人衆が砦(とりで)をつくり、天正(てんしょう)年間(1573~92)には豊臣(とよとみ)秀吉が京都・伏見(ふしみ)の前衛として城を築いていた。江戸時代1623年(元和9)に至り、廃城の再興工事に着手、松平定綱(さだつな)を遠江(とおとうみ)掛川(かけがわ)より移して淀藩(3万5000石)をおこし、伏見城の材を転用して25年(寛永2)に淀城は完工した。以来、この地は領主の交代が繁(しげ)く、1633年には永井尚政(なおまさ)(10万石)、70年(寛文10)には石川憲之(のりゆき)、1711年(正徳1)には戸田松平光煕(みつひろ)、17年(享保2)には大給(おぎゅう)松平乗邑(のりさと)(以上3氏約6万石)が相次いで入部したが、23年に稲葉正知(いなばまさとも)が入って以来、子孫世襲して明治に至った。
稲葉氏は元豊後臼杵(ぶんごうすき)の稲葉氏の支族、1627年(寛永4)正成(まさなり)のとき、下野真岡(しもつけもおか)で2万石を得、その妻は春日局(かすがのつぼね)として後の3代将軍徳川家光(いえみつ)を養育したことから、嫡子正勝(まさかつ)は老中を勤め、加増され1632年(寛永9)小田原8万5000石を受けた。その後、越後(えちご)高田、下総(しもうさ)佐倉を経て淀へ移封となったのである。正知以後、正任(まさとう)、正恒(まさつね)、正親(まさちか)、正益(まさよし)、正弘(まさひろ)、正諶(まさのぶ)、正備(まさちか)、正発(まさはる)、正守(まさもり)、正誼(まさよし)、正邦(まさくに)と12代在封、おおむね10万2000石を領して幕末に至る。正邦は京都所司代として京都守護職松平容保(かたもり)に協力、ついで老中に任じ、1867年(慶応3)より国内事務総裁として幕府の枢機に参じたが、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いが起こると時代を先見し、敗走する旧幕軍を城内に入れず、中立的立場をとった。71年(明治4)廃藩となり、淀県を経て京都府に編入された。
[平井良朋]