精選版 日本国語大辞典 「清元節」の意味・読み・例文・類語
きよもと‐ぶし【清元節】
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邦楽の種目で、豊後(ぶんご)系浄瑠璃(じょうるり)の流派名。豊後三流(常磐津(ときわず)、富本(とみもと)、清元)とよばれるなかでも、最後に生まれた新しい浄瑠璃であり、清元延寿太夫(えんじゅだゆう)を始祖とする。1748年(寛延1)に富本節一流をたてた富本豊前掾(ぶぜんのじょう)の高弟、初世富本斎宮(いつき)太夫(後の清水延寿)の弟子となった岡村吉五郎が、2世斎宮太夫を継いだ。吉五郎は師の没後(1802)家元の2世豊前太夫と不和になり、一時は芸界から身を引いていたところ、1812年(文化9)3世中村歌右衛門(うたえもん)から中村座の興行に迎えられ、豊後路清海(ぶんごじきよみ)太夫を名のって長唄(ながうた)との掛合い『再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)』に再勤し、14年市村座の『御攝花吉野拾遺(めぐみのはなよしのしゅうい)』の浄瑠璃で清元延寿太夫と称し、ここに清元節一流が誕生した。初世は天性の美音家であり、清沢万吉(後に清元斎兵衛と改名)を立(たて)三味線に据え、『保名(やすな)』『鳥羽絵(とばえ)』『累(かさね)(かさね)』『傀儡師(かいらいし)』など、名曲を次々と創作して新興流派としての基盤を着実に固めた。24年(文政7)剃髪(ていはつ)し、延寿斎と改めたが、翌年刺客の凶刃に倒れた。
2世を継いだ実子巳三治郎(みさじろう)(前名栄寿太夫)は、初世をしのぐ美声を存分に生かして、独吟、二吟という形式によって、初世の化政(かせい)期(1804~30)の庶民性を反映した粋(いき)の精神をよりいっそう強調した語り口へと発展させた。これに加えて、当時流行の俗謡を積極的に曲中に取り入れるなど、時代の要望する嗜好(しこう)に迎合した曲風を練成することによって独流の体勢固めに徹して、他の2流を圧するまでに至った。天保(てんぽう)年間(1830~44)後半の一時期には、劇場音楽を離れた座敷浄瑠璃としての清元節にも心を尽くした。1845年(弘化2)太兵衛を名のってからは、流派の地位をさらに確固不動のものにした。2世の娘お葉の婿養子に迎えられた斎藤源之助、後の4世は、2世河竹新七(黙阿弥(もくあみ))に技量を認められ、その知遇に報いて深く信頼したことから、提携して『梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)』に、ついで『由縁色萩紫(ゆかりのいろはぎのむらさき)』へ出演、これが大好評で、以来、4世延寿太夫の清元が黙阿弥劇で用いられた総数は約100曲の多きにのぼった。それにまた、付近の家とか別の部屋で語る浄瑠璃にあわせて俳優が仕種(しぐさ)をする「余所事(よそごと)浄瑠璃」の趣向が図にあたり、『夕立』『雁金(かりがね)』『筆幸(ふでこう)』などの傑出した代表曲が生まれた。しかし、清元節は創成期以来、庶民階級の通俗と意気を眼目に置いて受け継がれ、語られてきた結果、格調において欠ける点が多かった。
4世の養子となった5世延寿太夫は、この時代の推移を敏感に察知し、上品繊細な奏法に改め、流派の社会的地位の向上確保に率先垂範し、愛好者の層の転換を図り、目的を達成した。だが1922年(大正11)2世梅吉ともども5世の相三味線を勤めた3世梅吉がたもとを分かち、清元流を創設するに及んで、高輪(たかなわ)派(延寿派)と赤坂派(梅吉派)の2派に分裂した。そして5世延寿太夫の没後、孫の清道が48年(昭和23)に6世を継ぎ、55年3世梅吉は2世寿兵衛を継承、孫の清之介が4世梅吉を襲名した。64年になってようやく清元協会設立の話がまとまり、6世延寿太夫が会長、2世寿兵衛が名誉会長に就任し、寿兵衛逝去のひと月後の66年7月、両派融和を図る合同演奏会が開催されたが、その後、赤坂派は清元協会を脱会、ふたたび分裂した。
清元節の特色として、発声および節回しには他流に比べて装飾技巧が多い。「カエシ」(節を下げておとす旋律型)、語り出しにかぶって高い音程から出てなだらかに低い音程へ移行する技法、「振り出し」や声帯を振動させころがすといった語呂(ごろ)をきかす技法、節尻(ふしじり)の押しなど、多彩で華麗である。三味線は中棹(ちゅうざお)で、豊かで潤いのある柔らかい音を身上とする。また音色に緩急強弱の表情が多く、浄瑠璃を生かすときには撥(ばち)数も少なく控え目で、間拍子(まびょうし)も独特のはずし方で効果を高める奏法がとられたりする場合もある。上調子(うわぢょうし)は、舞踊の伴奏の場合を除き、語物の色濃いものにはとくに障らないように留意してつきあっている。
[林喜代弘・守谷幸則]
『忍頂寺務著『清元研究』(1930・春陽堂)』▽『町田佳聲・植田隆之助著『現代・邦楽名鑑清元編』(1967・邦楽と舞踊出版部)』▽『岩沙慎一著『江戸豊後浄瑠璃史』(1968・くろしお出版)』
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清元延寿(えんじゅ)太夫が創始した浄瑠璃。豊後節の系統をひき,常磐津節・富本節とともに豊後三流といわれる。豊後節の禁圧後,江戸に残った高弟のうち宮古路文字太夫が,1747年(延享4)改姓し常磐津節を創始。翌年に常磐津小文字太夫が常磐津からわかれ,富本節を創始した。2世富本斎宮(いつき)太夫は,富本節の家元豊前太夫と不和となり,1814年(文化11)清元延寿太夫と改姓し,富本から独立した。初世延寿太夫は25年(文政8)に刺殺され,疑いが富本にかかり,富本節衰退の一因となった。清元節は江戸町人文化の爛熟した文化・文政期に成立し,粋で艶のあるところが特色とされる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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… また京の都太夫一中の弟子宮古路豊後掾の曲節は江戸で豊後節として流行したが,風紀を乱すとして1731年(享保16)と36年(元文1)に自宅の稽古を禁止され,39年には一部劇場以外厳禁された。その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。…
…拍子のはっきりした舞踊向きの部分は常磐津節が受け継ぎ,イキとかツヤは富本が拡大したものであろう。しかし,この面は2世豊前のような美声の持主にしてはじめて可能だったらしく,結局それはさらに拡大した清元節に取って代わられた。そして富本初期の名作のほとんどが清元節にとり込まれてしまった。…
…なかでも浄瑠璃は江戸時代の初期に,人形と結びついた人形浄瑠璃の音楽と,歌舞伎と結びついた歌舞伎の音楽とに分かれて発展した。前者の代表は義太夫節であり,後者の代表は常磐津節(ときわづぶし),清元節などである。歌のほうは,三味線組歌を最古の三味線芸術歌曲とし,これから京坂地方の三味線歌曲である地歌が発達した。…
※「清元節」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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