デジタル大辞泉 「清水」の意味・読み・例文・類語
しみず【清水】[姓氏]
徳川御三卿の一。9代将軍徳川家重の子重好が、江戸城清水門内に屋敷を与えられたのに始まる。
[補説]「清水」姓の人物
し‐みず〔‐みづ〕【清水】
[補説]地名・姓氏・作品名別項。→清水(静岡市の区) →清水(姓氏) →清水(狂言)
[類語]泉・湧き水・岩清水・泉水・噴水・オアシス・井戸・井・掘り抜き井戸
( [ 一 ]について ) ( 1 )和歌では、古くは「野中の清水」「おぼろの清水」など歌枕として詠まれることが多く、「逢坂の関の清水」であれば「恋」や「羈旅」の歌であった。それが「堀河百首」で夏十五首の中に「泉」題が設けられ、「六月に岩もる清水結ばずはあふぎの風を忘ましやは〈藤原公実〉」などと詠まれるに及んで「夏」に涼を呼ぶものとなる。
( 2 )「堀河百首」はその後の歌人達に大きな影響を与えたが、特に挙例の「新古今集」の西行の歌は、謡曲にも採られるなど広く世に知られ、「奥の細道」でも芭蕉はその残る柳に立ち寄っている。
( 3 )俳諧の季語としては、「清水結ぶ」あるいは「清水せく」で「夏」としており、「清水」は「雑」とされた。しかし、江戸中期の「俳諧・滑稽雑談‐六月」では「清水」だけでも「夏」としている。
静岡県中央部、静岡市の東に隣接していた旧市名。現在の清水区の中部から西部を占めていた。旧清水市は1924年(大正13)2月清水町、入江町、三保(みほ)村、不二見(ふじみ)村が合併して市制施行。1954年(昭和29)飯田(いいだ)村、高部(たかべ)村、1955年有度(うど)村、1961年興津(おきつ)町、小島(おじま)村、両河内(りょうごうち)村、袖師(そでし)町、庵原(いはら)村を編入。2003年(平成15)静岡市と合併、2005年に静岡市の政令指定都市移行に伴い、清水区となる。2006年蒲原町(かんばらちょう)、2008年由比町(ゆいちょう)が編入され、区域は富士川河口部まで広がった。日本平(にほんだいら)、三保半島の観光でも有名。JR東海道線、国道1号、52号、150号などが通じ、東名高速道路清水インターチェンジがあり、交通網が発達し、静岡鉄道の電車が新静岡―新清水駅間を結んでいる。
[川崎文昭]
旧市域は、北部の山梨県境まで広がる庵原山地と南部の有度丘陵が約80%を占め、中に挟まれて清水平野、南部に分岐砂嘴(さし)三保半島がある。北部は急峻(きゅうしゅん)な興津川上流の山岳地帯となり、フォッサマグナの地質構造により南北に断層が通り、幾筋かの断層は峠となり甲斐(かい)、駿河の通路を形成した。清水平野は巴川(ともえがわ)による沖積地で、三保半島は駿河湾の沿岸流による砂州である。市街地は清水平野と三保半島に発達。年平均気温は16℃前後で温暖な気候である。
[川崎文昭]
有度山頂の日本平付近から先土器時代の尖頭(せんとう)器が出土、山麓(さんろく)の天王山遺跡は縄文、弥生(やよい)の複合遺跡、巴川流域には水稲耕作の始まりを示す飯田遺跡があり、庵原の三池平古墳(みいけだいらこふん)は、白村江(はくそんこう)の戦いに救援に向かった廬原君臣(いおはらのきみおみ)の故地であり、古い歴史をもつ。『和名抄(わみょうしょう)』には息津(おきつ)郷がみえ、中世には巴川流域に吉川、渋川、矢部氏らの武士団が入江荘(しょう)を中心に輩出した。南北朝時代以後、守護大名、ついで戦国大名となる今川氏が支配した。今川氏は江尻を駿河府中(駿府(すんぷ))の外港として保護し、江戸時代には東海道の宿駅として繁栄。清水は巴川河口港として築かれ、駿府と江戸・大坂・甲信を結ぶ港として廻船(かいせん)60余隻をもつ港として栄えた。1878年(明治11)清水町は外港に臨む波止場を築造、海港の町として発展する契機をつくり、茶の輸出港として発展。大正末から昭和にかけて数次の大規模な築港工事により港湾工業都市となった。1952年(昭和27)特定重要港に指定された。臨海工業地帯を形成し、袖師、興津に大規模な埠頭(ふとう)が建設され、国際貿易港として発展している。
[川崎文昭]
木材、木材加工、食品、缶詰、食用油、機械金属、造船、石油精製などの工場が多数あり、工業地区となっている。北部山地では茶、シイタケ、三保から久能(くのう)にかけて石垣イチゴ、野菜の促成栽培が盛ん。遠洋漁業の基地江尻漁港もある。
[川崎文昭]
国指定名勝には日本平や三保松原(みほのまつばら)があり、三保には羽衣伝説にちなむ羽衣ノ松や、東海大学の海洋科学博物館・同自然史博物館がある。また海水浴、キャンプも楽しめる。そのほか、名刹(めいさつ)も多く、清水次郎長の墓のある梅蔭寺(ばいいんじ)、国指定名勝の庭園をもつ清見寺(せいけんじ)、山岡鉄舟(てっしゅう)再興の鉄舟寺や、大ソテツ(国指定天然記念物)や庭園で知られる龍華寺(りゅうげじ)、霊山寺(れいざんじ)(仁王門は国指定重要文化財)、海潮(かいちょう)寺などがあり、草薙地区には、日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの草薙神社がある。年中行事として七夕(たなばた)祭、港まつりが知られる。
[川崎文昭]
『『清水市史』全9冊(1976~1986・吉川弘文館)』▽『鈴木繁三著『わが郷土清水』(1962・戸田書店)』▽『『清水市郷土年表』(1952・清水市)』
北海道中南部、十勝(とかち)総合振興局管内、帯広(おびひろ)市近郊の町。1936年(昭和11)町制施行。1956年御影(みかげ)村を編入。町名はアイヌ語「ペケレペツ」(明るい川)の意訳。町の東部を十勝川が南流し、御影北方で支流の佐幌(さほろ)川と合流する。西部は日高山脈によって日高振興局管内と境し、町域の大部分は標高130~230メートルの洪積台地である。国道38号、274号、JR根室本線が通じ、道東自動車道十勝清水インターチェンジがある。明治末期から開拓が進み、畑作(ジャガイモ、サトウダイコン、豆類)、酪農のほか、乳製品、製糖、食肉加工、めん類製造などの食品工業が発達する。日高山脈を横断する国道274号(日勝道路(にっしょうどうろ))がトンネルでくぐる日勝峠は、十勝側の展望台から十勝平野などの眺望に優れ、スキー場やキャンプ場があり、一帯は日高山脈襟裳(えりも)国定公園域。面積402.25平方キロメートル、人口9094(2020)。
[古川史郎]
『『清水町五十年史』(1953・清水町)』
和歌山県中北部、有田郡(ありだぐん)にあった旧町名(清水町(ちょう))。有田川上流にあたり、現在は有田川町東部を占める地域。旧清水町は、1955年(昭和30)八幡(やはた)、城山(しろやま)、安諦(あで)の3村が合併して町制施行。1959年五村(ごむら)を編入。2006年(平成18)吉備(きび)、金屋(かなや)2町と合併、有田川町となった。中心の寺原に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)と別当寺清水(せいすい)寺があり、清水郷と称してきたのが旧町名の由来。八幡宮の裏山に紅葉山城跡(もみじやまいせき)がある。高野山(こうやさん)領山保田荘(やまのやすだのしょう)の地頭(じとう)湯浅(ゆあさ)氏の居城であったが、南北朝時代楠木正成(くすのきまさしげ)に降(くだ)り、楠木氏の所領となった。寺原は高野街道と龍神(りゅうじん)街道の交わる宿場でもあった。紀伊藩の時代は保田紙と棕櫚(しゅろ)の産地で知られたが、高野山や護摩壇山(ごまだんざん)の西麓(せいろく)にあたり、住民の大部分は山林業を主とする。山椒(さんしょう)を特産する。有田川には二川(ふたがわ)ダムと岩倉発電所がある。地域内にはしみず、二川の温泉や農林漁業体験実習館などもある。杉野原地区の御田舞(おんだまい)は新春の予祝行事の一つで国の選択無形民俗文化財。
[小池洋一]
『『清水町誌』全3巻(1982~1998・清水町)』
福井県嶺北(れいほく)、丹生郡(にゅうぐん)にあった旧町名(清水町(ちょう))。現在は福井市の中南部を占める地域。1955年(昭和30)志津(しづ)、三方(みかた)、天津(あまづ)の3村が合併して町制施行。2006年(平成18)清水町は福井市に編入。旧町域東部は日野(ひの)川の沖積低地で、中央部と西部は丹生山地であるが、島状に分離した丘陵の間に低湿地が多く、もとは深田であったが、日野川改修と土地改良で乾田化された。米作、ブドウ、クリなどの栽培と織物を兼営する農村であったが、近年は旧福井市域の近郊として住宅地化が進み、とくに北東部は丘陵を削って集合住宅が多数建設され、人口増加も著しい。大森地区の賀茂神社で4年ごとの2月14日に行われる睦月神事(むつきしんじ)は、あらかじめ祝って神に豊作を強要するもので国指定重要無形民俗文化財。
[島田正彦]
『『清水町史』全3巻(1978~1980・清水町教育委員会)』
静岡県東部、駿東郡(すんとうぐん)にある町。1963年(昭和38)町制施行。町の南西部の徳倉(とくら)山地を除けば平坦(へいたん)地で、田方平野(たがたへいや)の一部、黄瀬(きせ)川、境川の扇状地よりなる。国道1号が通じ、三島(みしま)市の延長市街地となっている。紡織、編機、自動車部品の工場が進出、町の南部に沼津卸団地ができた。かつて泉郷(いずみごう)といわれ、湧水(ゆうすい)による水資源が豊富で、上水道や工業用水などに利用されている。柿田川湧水群は環境省選定の名水百選の一つ。また、そこを源とする柿田川は国の天然記念物に指定され、約1.2キロメートル流れたのち、狩野川(かのがわ)に注ぐ。面積8.81平方キロメートル、人口3万1710(2020)。
[川崎文昭]
『『清水町誌稿』(1964・清水町)』▽『『清水町史』全7巻(1998~2003・清水町)』
京都市東部、東山(ひがしやま)区の東山西麓(せいろく)の一地区。西国(さいごく)三十三所の第16番札所で世界文化遺産に登録された清水寺があり、京都の代表的観光地として参拝客が絶えない。また陶磁器の清水焼の産地であり、清水坂、産寧(さんねい)坂には清水焼などを売る店が軒を連ね門前町を形成する。産寧坂は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
[織田武雄]
狂言の曲名。大蔵流では鬼狂言、和泉(いずみ)流では太郎冠者(かじゃ)狂言。主人が太郎冠者(シテ)を呼び出し、野中の清水でお茶の水を汲(く)んでこいと命じる。これが毎度の例になってはと一計を案じた太郎冠者は、主人秘蔵の手桶(ておけ)を途中で投げ出し、鬼が出たと逃げて帰る。主人が手桶を取りに出かけると、冠者は清水へ先回りし、鬼の面(武悪(ぶあく)の面)を着けて脅して、召使いをたいせつにせよといろいろな注文をつける。先に戻って主人を出迎えた冠者は、主人に、さいぜん鬼はなんといったのかと尋ねられ、「いで食らおう」と鬼のまねをする。声が同じであることに気づいた主人は、ふたたび清水へ出かけ、今度は冠者の鬼の面をはぎ取って追い込んでいく。主人に先回りするため家と清水との間を疾走する冠者のようすが想像されて楽しい。
[池田英悟]
姫路城北側の中曲輪に位置する武家地。町名は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
狂言の曲名。太郎冠者狂言。大蔵・和泉両流にある。茶の湯の会の準備のため,主人は太郎冠者を野中の清水へ水汲みにやる。太郎冠者は,来客のたびに水汲みをさせられるのはかなわないと思い,清水に鬼が出たとうそをついて水も汲まずに戻ってくる。不審に思った主人が清水まで見に行くので,太郎冠者は先回りして鬼の面をつけて待ち伏せる。一度は主人も恐れおののくが,鬼がなにかと太郎冠者をひいきにするのと,その声が太郎冠者に似ていたのに気づき,再度清水へ出かけ,またも鬼に扮して現れた太郎冠者の面をはがして追いこむ。登場人物は太郎冠者,主の2人で,太郎冠者がシテ。主従の対立を軽妙に明るく描き,下人の生活感情がよく表現されている。鬼の面には〈武悪(ぶあく)〉という狂言面を用いるが,仮面をこのように小道具として用いるのは狂言の特徴。《天正狂言本》,《天理本》(《狂言六義》)には《野中の清水》の曲名で出ている。
執筆者:羽田 昶
静岡県東部,駿東郡の町。1963年町制。人口3万2302(2010)。狩野川下流域に位置し,面積8.84km2の狭い町で北部を国道1号線が走る。富士溶岩流の南端にあって大量の伏流水が湧出し,柿田川となって中央部を貫流する狩野川に注いでいるが,湧水量は1日約100万tで,町内のみならず両隣の三島市や沼津市などの飲料水,工業用水,農業用水などに利用されている。主産業の工業は毛織物,編物など繊維関連産業や製紙業を中心としてきたが,現在は機械,自動車部品などの工場が多数進出し,出荷額を伸ばしている。商業も活発で沼津卸商社センターがある。近年,人口が急増して人口密度は3523人/km2(2003)と県内一高く,農地の宅地化が急速に進んだ。米作中心の農業からイチゴ,花卉,野菜などの栽培を主体とする都市近郊型農業へと転換している。
執筆者:萩原 毅
北海道中南部,十勝支庁上川郡の町。人口9961(2010)。JR根室本線が通じる。地名はアイヌ語地名ペケレペッ(清い川)を意訳したものという。最初の入植は1898年の十勝開墾合資会社熊牛農場への26戸で,1907年の鉄道開通後の伸長が著しく,市街地も形成され,20年の日本甜菜製糖清水工場の設立は町の発展の上で画期となった。65年日勝道路(国道274号線)が開通して日高地方と結ばれた。道東自動車道の十勝清水インターチェンジがある。十勝川本支流の段丘上に展開する農業は,2万頭以上の乳牛(1990)を飼育する酪農と豆類,テンサイを主とする畑作農業で,養鶏も重要である。ホクレン,日甜の工場のほか,乳業,食肉,製材などの工場が立地している。
執筆者:岡本 次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…町域の大部分は山林原野が占める。中心集落の清水は,1476年(文明8)に最上氏の一族清水氏が築いた中世の城下町で,近世は最上川の河港として栄えた。慶長期(1596‐1615)に永松銅山,明和期(1764‐72)に大蔵鉱山が開かれて新庄藩の財政を支え,明治期にはさらに発展したが,1960年前後に閉山した。…
…室町初期に成立した《義経記》の中でも,北国落ちの源義経が,清川(現,立川町)から合海(あいかい)(現,新庄市本合海)まで川船で上る様子が記され,当時の水運の利用が推測される。戦国期になると,酒田~清水(現,大蔵村)間の船路が開発・整備された。大石田が河港として画期的な発達をみるのは,山形の最上氏が1600年(慶長5)の出羽合戦で,村山,最上と庄内も領有するようになってからである。…
…足摺沖は紀州漁民の出漁も盛んで,鰹節の製法も紀州から伝えられ,江戸中期には土佐の代表的物産となっている。半島西岸基部にある中心市街の清水は溺れ谷の良港で,明治末期には捕鯨基地となり,大正期からカツオ,マグロ,サバなどの漁業基地として栄えた。現在も釣漁業を中心に鰹節,メジカ節(宗田(そうだ)節)などの加工業が盛ん。…
…街路中央に水路を通じて火災・積雪に備えた。清滝川旧扇状地の末端を占め,地下水が豊富で今もいたるところに清水(しようず)がみられ,炊事,洗濯などの生活用水となるが,近年は工場のくみ上げ過剰で井戸がれが起きている。近世からの絹織をつぐ機業が盛んで,昭和初めに人絹から化合繊にかわったが,近年は電気機器工業が発展している。…
※「清水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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