済州島事件(読み)さいしゅうとうじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「済州島事件」の意味・わかりやすい解説

済州島事件
さいしゅうとうじけん

朝鮮半島南方の済州島(さいしゅうとう/チェジュド)で、1948年から起こった反政府闘争。済州島四・三事件ともいう。

四・三蜂起

1945年8月、日本の敗戦により、朝鮮は36年間にわたる植民地支配から解放された。しかし、北緯38度線を境に、南部には米軍が、北部にはソ連軍が駐留し、さらに冷戦の開始、国内での政治路線についての対立などにより、統一国家の実現は困難に直面していた。1947年9月に開かれた第2回国連総会は、1948年3月末までに国連委員会の監視下で総選挙を行い、「国民政府」を樹立することを決議したが、ソ連軍政当局と北朝鮮人民委員会は、駐留軍撤退が先決であるとし、38度線以北へ国連委員会が立ち入ることを拒否した。アメリカは、南朝鮮だけでも選挙を実施するという内容の決議を国連小委員会で採択させた(1948年2月)。これが実施されれば、南北分断が固定化されるのは明らかであった。

 南朝鮮では、1948年2月初旬にこの単独選挙に反対するゼネストが行われた。済州島でも、同年3月1日(三・一独立運動記念日)に大規模なデモが行われ、4月3日未明には10か所以上の警察署が襲撃された(四・三蜂起(ほうき))。これに対して、鎮圧のために本土から国防警備隊、警察隊が送られた。多数の一般島民と闘争部隊は、同島の漢拏山(かんださん/ハルラサン)に日本軍が残した塹壕(ざんごう)などに立てこもり、断続的にパルチザン闘争を繰り返した。5月10日の単独選挙(済州島の2人の議員は選出できず、翌年5月に再選挙)により、8月大韓民国(韓国)が成立したが、その2か月後の10月には、済州島の闘争を鎮圧するために移動を命ぜられた麗水(れいすいヨス)の国防警備隊が、南朝鮮労働党の影響を受けて命令を拒否し、反乱するという事件も発生した。しかし、政府側は一般島民とパルチザン部隊を分離させ、激しい攻撃を繰り返し、翌1949年5月に闘争はいちおうの終息をみた。その間の死者は少なくとも3万以上に及んだといわれる。1950年6月、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、済州島ではふたたびパルチザン闘争が活発化し、1954年9月ころまで続いた。

[中村秀紀]

1980年代後半から活発化する真相糾明運動

その後、これらの事件は、「反共」を国是とする韓国においては、「共産主義者による暴動」であると評価され、論議そのものがタブー視され続けた。1960年4月革命(四・一九革命)を契機とする真相糾明運動も、翌年の五・一六軍事クーデター勃発(ぼっぱつ)により挫折(ざせつ)してしまった。済州島出身者が多数居住する日本では、旧南朝鮮労働党関係者や小説家金石範(きんせきはん/キムソクポム)らの努力により、ある程度の事実は知られていたが、本国韓国との関係は断たれたままであった。

 しかしながら、1987年の6月抗争(大統領全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)、与党民正党代表委員盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)合作の「六・二九民主化宣言」を引き出し、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)らが復権)を契機とする韓国の民主化の進展は、真相糾明運動の再開を促し、1988年には事件発生40周年を記念して多くの研究成果と文学作品が刊行された。翌年には現地で初めて犠牲者の追悼行事が開催された。また、『済州新聞』に「四・三の証言」という記事が連載され(1990年『済民日報』に「四・三は語る」として続編連載)、専門研究機関である「済州四・三研究所」が設立されるなど、真相糾明の動きが一気に高まった。

 1993年「歴史の立て直し」を掲げる金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権が発足すると、事実の検証と評価の論議が活発になった。済州道議会には真相調査や名誉回復・慰霊事業のための四・三特別委員会が設置され、国会に四・三特別法の制定と四・三真相糾明特別委員会の設置を求める請願を行った。その後も、道議会や道民、済州島選出議員などにより請願が繰り返された。また、道民らによる調査活動も盛んになった。これらの動向には、台湾の国民党政府が「二・二八蜂起」に対する名誉回復と被害補償を行ったことや、韓国各地で解放直後から朝鮮戦争期に発生した「良民虐殺事件」の真相解明を求める運動が発生したことが、大きく影響した。ただし、これに反発した保守派が、「共産主義暴動論」を展開する事例も散見された。

 1995年済州道議会は、『四・三被害調査第一次報告書』を発刊した。その一方で、1997年には四・三事件を題材とするドキュメンタリー『レッド・ハント』(赤狩り)の上映者である徐俊植(じょしゅんしょく/ソジュンシク)(1948― )が国家保安法違反で検挙されるなど、事件がなおもタブーであることがあらわとなる事態も生じた。しかし、同年末真相糾明と関係者の名誉回復を公約に掲げる金大中が大統領に当選したことは、事件見直しの絶好の機会となった。1998年事件発生50周年を迎え、各地で多彩な行事が催され、慰霊祭には政府代表が初めて参加した。そして、ついに2000年1月には「済州四・三事件真相糾明および犠牲者名誉回復に関する特別法」が公布された。

[並木真人]

 2003年10月、大統領の盧武鉉(ノムヒョン/ろぶげん)は国の公式報告書に基づいて、国家権力による過ちを初めて謝罪した。また、2006年4月の追悼式に大統領として初めて参加した。朴槿恵(パククネ)政権では、2014年、法定記念日として「四・三犠牲者追念日」が定められた。文在寅(ムンジェイン)政権になると、2018年4月、12年ぶりに大統領が追悼式に参加、2019年4月には軍と警察が公式に謝罪するに至った。また2022年1月の改正特別法では、犠牲者や遺族などに対する名誉回復や補償が定められた。

[編集部]

『金奉鉉著『済州島血の歴史――「4・3」武装闘争の記録』(1978・国書刊行会)』『金石範著『火山島』全7巻(1983~1997・文芸春秋)』『ジョン・メリル著、文京洙訳『済州島四・三蜂起』(1988・新幹社)』『済州島四・三事件四〇周年追悼記念講演集刊行委員会編『済州島「四・三事件」とは何か』(1988・新幹社)』『済民日報四・三取材班著、金重明他訳『済州島四・三事件』第1巻~第5巻、以下続刊(1994~・新幹社)』

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