げん‐じ【源氏】
[1] 〘名〙
① 源
(みなもと)の姓を持つ
氏族。弘仁五年(
八一四)嵯峨
天皇が諸
皇子を
臣籍に降下し源姓を賜わってから以後、皇子
賜姓の最も一般的な氏姓となり、
清和源氏、
村上源氏、
宇多源氏、
花山源氏などがあるが、特に
清和源氏と村上源氏が長く隆盛であった。清和源氏はのちに
東国に勢力を得て
武家の
棟梁として発展し、源頼朝や足利氏、新田氏もその
子孫である。源家
(げんけ)。みなもと。→(二)(一)。
※
蜻蛉(974頃)中「ひきいれに、源じの
大納言、物したまへり」
※
日葡辞書(1603‐04)「Guenji
(ゲンジ)。ミナモト ウヂ」
③ (清元浄瑠璃「田舎源氏露東雲」で、
光源氏の役(役名は足利光氏)に用いられたところから) 演劇で、
かつらの一つ。棒茶筌
(ぼうちゃせん)のはけ先が、左右に割れた形のもの。ふつう、色気をもった若殿の役などに用いられる。
※南方録(17C後)台子「源氏、源平、十種、
宇治、小鳥、烟くらべ等かやうの香方香会の時は」
※浮世草子・好色一代男(1682)六「
女郎も、衣

つきしゃれて、
墨絵に源氏
(ゲンジ)」
※浮世草子・好色三代男(1686)四「風流屋っこ女と呼れ、源氏(ゲンシ)のゑりうら、鈍子(どんす)のぬいかへし帯」
⑦ (すべて源氏名をもっていたところから) 貴人の家につかえる奥女中の異称。
※雑俳・柳多留‐二九(1800)「源氏が寄ってかしましい御広敷」
⑧ 「ゆうがお(
夕顔)」をいう
女房詞。〔女中詞(元祿五年)〕
⑨ ナスをいう女房詞。〔東大本女中詞(1716‐36頃)〕
⑩ 主として、売春宿などと連絡をもち、客を連れこんだり、不当に高い代金を要求したりする不良車夫、不良運転手などをいう、盗人・てきや仲間の
隠語。〔隠語構成様式并其語集(1935)〕
※
濹東綺譚(1937)〈永井荷風〉一「ぽん引と云ふのか、源氏といふのかよく知らぬが、兎に角怪し気な勧誘者を追払ふために」
[2]
[一] 源氏
諸氏族のうち、特に清和源氏をいう。
桓武平氏とともに武家の棟梁となり、政権を握って
幕府を
鎌倉に開いた。
※更級日記(1059頃)「源氏の五十余巻、ひつに入りながら」
[三] 「源氏物語」の主人公、光源氏(ひかるげんじ)の略。
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デジタル大辞泉
「源氏」の意味・読み・例文・類語
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源氏【げんじ】
源(みなもと)の姓をもった氏。賜姓皇族の一つ。清和(せいわ)源氏・宇多(うだ)源氏・村上源氏・花山(かざん)源氏などが有名。(1)清和源氏は清和天皇の皇子貞純(さだすみ)親王の子源経基(つねもと)に始まる。その子孫は摂津(せっつ)・大和・河内・美濃(みの)・三河などに栄え,特に東国の武士の間に勢力を得て,頼朝は鎌倉に幕府を開いた。足利(あしかが),新田(にった),武田,佐竹などの諸氏も清和源氏。→源頼朝(2)宇多源氏は宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の子雅信(まさのぶ)・重信に始まる。近江(おうみ)の佐々木氏(のち六角・京極氏に分かれる)などが出た。(3)村上源氏は村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の子師房(もろふさ)〔1008-1077〕に始まる。公家として栄え,久我(こが)・土御門(つちみかど)・中院(なかのいん)・千種(ちぐさ)・北畠氏などが出た。(4)花山源氏は花山天皇の孫延信に始まる。白川家を称して,神祇伯(じんぎはく)を世襲。
→関連項目氏長者|河野氏|清和天皇|藤原師実|平家物語|平氏|源経基|源頼信|名字の地|村上天皇
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源氏
げんじ
皇族賜姓の一つ。その由来について,一説には皇族に源を発する意味とされる。平安時代初期,弘仁5 (814) 年に嵯峨天皇がその皇子,皇女8人に源朝臣姓を賜い,臣籍に下したのが始りで,治世一代の間,32人に源姓を賜わった。以後,仁明天皇は6人,文徳天皇は 15人,清和天皇は5人,陽成天皇は3人,光孝天皇は 35人,宇多天皇は2人,醍醐天皇は6人の皇子または皇女に,それぞれ賜姓している。 (1) 嵯峨源氏は信,弘,常など1字名を用い,1世源氏からは公卿8人を輩出,大いに藤原氏と対抗したが,寛平7 (895) 年左大臣融の死後,延喜~天暦 (901~947) 頃を境として次第に衰えていった。平安時代中期までの源氏長者は,この嵯峨源氏のものがその地位についた。 (2) 仁明源氏の場合,多,冷,光などの1世源氏は公卿となったが,2世以後は不振。 (3) 文徳源氏は1世源氏能有の後裔で,平安時代末期~鎌倉時代に,院北面,検非違使として活躍したものが少くない。 (4) 清和源氏。 (5) 光孝源氏。是忠親王以外多数にのぼる。 (6) 宇多源氏。 (7) 醍醐源氏は,盛明親王,兼明親王,高明などが賜わったことに始る。『西宮記』の著者高明が最もよく知られているが,安和の変で挫折した。 (8) 村上源氏。 (9) 花山源氏は,顕康に始り,神祇伯白川氏の祖。 (10) 正親町源氏は,智仁親王の子忠章に始り,広幡氏の祖。
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源氏
げんじ
皇族賜姓の一つ。814年(弘仁5)嵯峨天皇が信(まこと)以下の皇子女に源(みなもと)姓を与えて臣籍に下したのが初例。皇室経済困窮の打開と皇族の藩屏構築をめざして,仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・花山・三条の各天皇の皇子女らに源姓が与えられ,それぞれ始祖の天皇名を冠した源氏諸流がうまれた。このうち嵯峨・文徳・宇多・醍醐・村上の各流は大臣を輩出して廟堂で摂関家につぐ勢力を誇り,鎌倉時代には一時摂関家をこえる実権を握ることもあった。この4流の傍流と仁明・清和・陽成・光孝・花山・三条の各流は,下級官人にとどまるか下野・途絶する者が多かったが,一部は武士として発展した。武士化した源氏諸流のなかで質量ともに最大なのは清和源氏であり,平安中・後期にたびたび反乱鎮定に功をあげて全国に勢力を広げた。同じように成長した皇族賜姓の桓武平氏と覇を競い,源平内乱で平氏を討滅することで全国の武士を公的に統合する鎌倉幕府を開いた。
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げんじ【源氏】
賜姓皇族の一つ。賜姓皇族とは皇子・皇孫以下,天皇の子孫が臣籍に入って姓を与えられたもので,そのうち源(みなもと)の姓を賜ったものすべてが源氏である。賜姓のことはすでに奈良時代から見られるが,平安時代になると皇室経済の
迫(ひつぱく)もあり,また皇子・皇孫の数も増加し,冗費をはぶく必要があったためか,皇族に賜姓してその整理をはかることが一般的傾向となり,歴代の天皇から多くの賜姓皇族が生まれた。そしてこの時代には賜姓の中でも源姓が圧倒的に多くなる。
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源氏
げんじ
平安初期の皇族賜姓 (しせい) の一つ
平氏とともに武家の棟梁 (とうりよう) 。特に清和源氏が有名。清和源氏は清和天皇の孫経基に始まり,満仲以下代々摂津・大和・河内に居住したが,頼義・義家は前九年・後三年の両役に戦功があり,東国に地盤を固めた。義朝のとき平氏に敗れたがその子頼朝は鎌倉に幕府を開いた。村上源氏は村上天皇の孫師房 (もろふさ) を始祖とし,院政期に院近臣として栄えた。
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源氏
天皇からもらった姓の1つで、もらった天皇ごとにいくつかのグループにわかれ、一部が武士になっていきます。その中で最も力が強かったのが清和源氏[せいわげんじ]で、平氏を倒して、鎌倉幕府[かまくらばくふ]を開きました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
源氏 みなもとし
?-? 鎌倉時代,土御門(つちみかど)天皇の女官。
源有雅(1176-1221)の娘。第2皇女曦子(ぎし)内親王(仙華門院)を生んだ。
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世界大百科事典内の源氏の言及
【嵯峨源氏】より
…最初の賜姓源氏。814年(弘仁5)嵯峨天皇は勅により皇子女8人に源朝臣の姓を与え臣籍に下し,その後の賜姓を加え,男女32人が確認される。…
【治承・寿永の内乱】より
…1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を受けた諸国源氏の挙兵から,85年(文治1)3月長門国壇ノ浦(下関市)に平氏一門が壊滅するまで,主として源平両氏による決戦のかたちをとって進行した全国的規模の内乱。当時の年号を冠してこう呼び,たんに治承の乱,あるいは源平の合戦(争乱)とも称する。…
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