源為義(読み)ミナモトノタメヨシ

デジタル大辞泉 「源為義」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ためよし【源為義】

[1096~1156]平安後期の武将。祖父義家の養子となり、源氏の家督を継ぐ。六条堀河に住み、六条判官と称す。保元の乱で子為朝らを率いて崇徳上皇方となり、敗れて殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「源為義」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐ためよし【源為義】

  1. 平安末期の武将。義家の孫。義親の子。源氏の家督を継ぎ、検非違使となり六条堀河に住んだので六条判官といわれた。保元の乱で崇徳上皇方となり、子頼賢・為朝を率いて白河殿にはいるが、敗れて捕えられ殺された。永長元~保元元年(一〇九六‐一一五六

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朝日日本歴史人物事典 「源為義」の解説

源為義

没年:保元1.7.30(1156.8.17)
生年:永長1(1096)
平安末期の武将。源義親の4男,母は不詳。天仁1(1108)年父が平正盛に追討されたのち,叔父義忠の養子となる。翌年義忠が殺害された際,容疑者の源義綱一族を追討,その功で左衛門尉に任官し祖父義家を継いで河内源氏当主となる。当時,白河法皇から鳥羽天皇警護に起用された。また検非違使として南都・北嶺の強訴防禦や悪僧追捕などに活躍したが,半面,自身や郎等の乱暴・非法で白河法皇,鳥羽上皇の信頼を失い,官位は停滞し受領にも任じられなかった。保延1(1135)年には瀬戸内海の海賊追討使の候補となるが,鳥羽上皇は為義を派遣すれば途中の国が滅亡するとして平忠盛を任命した。このため次第に摂関家の中心藤原忠実に接近,康治2(1143)年にはその後継者頼長に臣従し,以後彼らの警護,家人の取り締まり,興福寺悪僧の処罰,荘園の管理などを一族と共に担当。久安6(1150)年に忠実が長男忠通を義絶した際には東三条殿の警備に当たる。しかし,久寿2(1155)年には子の為朝の濫行で解官され籠居。翌保元1年の保元の乱では崇徳上皇の説得で子の頼賢・為朝らと共に院方に参戦,後白河天皇方の長男義朝と敵対合戦では夜襲献策を頼長に退けられ,奮戦するも敗北潜伏ののち,出家して義朝を頼るが,7月30日船岡山で子と共に斬首される。義家没後,衰勢に向かった河内源氏を支えたが,保元の乱において臣従してきた摂関家の忠実・頼長と運命を共にする結果となった。<参考文献>米谷豊之祐『院政期軍事・警察史拾遺』,上横手雅敬「院政期の源氏」

(元木泰雄)

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改訂新版 世界大百科事典 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義 (みなもとのためよし)
生没年:1096-1156(永長1-保元1)

平安末期の武将。源義親(よ)(しちか)の四男(一説に五男)。叔父義忠の,ついで祖父義家の養子となり嫡流を継ぐ。藤原頼長に臣従。六条堀河に住み六条判官(ほうがん)と呼ばれた。1109年(天仁2)2月14歳のとき源義家の弟義綱を近江で捕らえる。同3月左衛門尉,46年(久安2)検非違使(けびいし)となる。54年(久寿1)子源為朝の九州における乱行により解官(げかん),家督を長子義朝に譲る。56年(保元1)7月保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長方にくみし敗れる。後白河天皇方についた長子義朝の助命嘆願も及ばず,7月30日行方不明の為朝を除く子息5人とともに,義朝により斬首された。為義については検非違使が実検して処刑の真偽を確かめたという。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義
みなもとのためよし
(1096―1156)

平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流義家(よしいえ)の孫、義親(よしちか)の子。父が追討されたのち、叔父義忠(よしただ)の、ついで祖父義家の養子となって正嫡を継ぐ。六条堀河に住んだところから六条判官とよばれた。悪左府(あくさふ)藤原頼長(よりなが)の従者となる。源氏内紛の続発するなかで、1109年(天仁2)義家の弟義綱(よしつな)を追捕(ついぶ)、左衛門尉(さえもんのじょう)となる(14歳)。のち検非違使(けびいし)。54年(久寿1)男為朝(ためとも)の鎮西(ちんぜい)における乱行により解官(げかん)される。56年(保元1)7月、義朝(よしとも)を除く子息らを率いて保元(ほうげん)の乱に参戦、崇徳(すとく)上皇・藤原頼長方にくみして敗れる。同月30日、嫡男義朝によって、他の子息らとともに斬首(ざんしゅ)された。61歳。

[飯田悠紀子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義
みなもとのためよし

[生]嘉保3(1096)
[没]保元1(1156).7.30.
平安時代後期の武将。義親の子。祖父義家の養子となり,家督を継いだ。天仁2 (1109) 年朝命により源義綱を攻めて降伏出家させ,その功により左衛門尉に任じられた。その後京都警備にあたり,摂関家に臣従した。久安2 (46) 年検非違使になり,京都の六条堀川に住んだので六条判官と呼ばれた。久寿1 (54) 年子為朝の乱行によって解官され,家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱に際して崇徳上皇から召されて白河殿を守ったが,子義朝や平清盛らの属した後白河天皇方に敗れた。東国に逃れようとして失敗,義朝を頼って降伏した。義朝は父の助命を朝廷に願ったが許されず,為義は斬罪に処せられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源為義」の解説

源為義
みなもとのためよし

1096~1156.7.30

平安後期の武将。義親の子。六条判官と称する。1108年(天仁元)父が平正盛に追討されたため,叔父義忠ついで祖父義家の養子となり,源氏の正嫡となる。翌年,義家の弟義綱追捕の功により左衛門尉に任じられた。その後,平氏とともに寺社の強訴の鎮静化などに活躍。43年(康治2)には藤原頼長に従い,46年(久安2)検非違使(けびいし)に任官。54年(久寿元)子の為朝の乱行の責めをうけて解任,家督を嫡子義朝に譲った。56年(保元元)保元の乱に際しては,子6人とともに崇徳(すとく)上皇・藤原頼長側に加わって敗北。延暦寺で出家し,義朝のもとに投降した。義朝は助命を嘆願したが,いれられず斬首された。

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百科事典マイペディア 「源為義」の意味・わかりやすい解説

源為義【みなもとのためよし】

平安末期の武将。義家の孫。義親(よしちか)の子。1146年検非違使(けびいし)となったが,子為朝が九州で乱行したため1154年解官(げかん)。保元(ほうげん)の乱に崇徳(すとく)上皇方について敗れ,子の義朝に斬られた。
→関連項目佐々木定綱

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源為義」の解説

源為義 みなもとの-ためよし

1096-1156 平安時代後期の武将。
永長元年生まれ。源義親(よしちか)の4男。祖父義家の養子となり,源家の嫡流をつぐ。左衛門尉(じょう),検非違使(けびいし)。保元(ほうげん)の乱で崇徳(すとく)上皇方につき,長男の義朝(よしとも)とたたかって敗北。出家したがゆるされず,保元元年7月30日処刑された。61歳。通称は六条判官。
【格言など】父を切る子,子に切らるる父,切るも切らるるも,宿執(しゅくしゅう)の拙(つたな)き事,恥ずべし,恥ずべし,恨むべし,恨むべし(「保元物語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「源為義」の解説

源為義
みなもとのためよし

1096〜1156
平安後期の武将
義親の子。義朝の父。1156年保元の乱のとき,崇徳上皇方につき,その子義朝や平清盛と戦って敗北。乱後,義朝が助命嘆願したが許されず,斬られた。

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世界大百科事典(旧版)内の源為義の言及

【箕浦氏】より

…義光は園城寺をはじめ近江と関係が深く,その子孫は,常陸に土着して佐竹氏となったもののほかは,多くは近江,とくに湖東地方で栄え,山本(東浅井郡湖北町),柏木(甲賀郡水口町),箕浦,錦織(大津市)の諸氏となった。平安後期には源為義に従っていたようであり,保元の乱(1156)に敗れた為義が大津から舟で箕浦に渡ったという風聞があったし,《保元物語》の一本によれば,箕浦は為義の所領であったともいう。1180年(治承4)山本義経が近江で反平氏の兵を挙げたとき,その子箕浦義明もこれに従ったが,平知盛らの追討軍に敗れ,翌81年(養和1)美濃で敗死した。…

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