映画監督。明治31年5月16日、東京に生まれる。浅草で育ち、美術修行や新聞社勤務を経て、1920年(大正9)、向島にあった日活撮影所に入社。当事日活は新派とよばれた芝居を、演劇に根ざした舞台や演技、俳優で撮影していた。1923年、『愛に甦(よみが)へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画し、1924年から女性を主人公とした作品で頭角を現した。関東大震災後に撮影所が関西に移動すると、『紙人形春の囁(ささや)き』(1926)など下町もので評価を高めた。1929年(昭和4)の世界恐慌後、傾向映画の『都会交響楽』(1929)や、トーキーで『ふるさと』(1930)を撮るなど新しさを追及するが、左翼思想やモダニズムといった時代の潮流を自分のなかでどうまとめるかに悩み模索した。日本の軍国主義化が進むと、『滝の白糸』(1933)など情緒的な明治ものをつくり、1934年、映画プロデューサーの永田雅一(ながたまさいち)(1906―1985)が設立した独立プロダクション、第一映画に入って『浪華悲歌(なにわエレジー)』(1936)と『祇園(ぎおん)の姉妹(きょうだい)』(1936)を製作。この2作では、徹底したリアリズムによって逆境にくじけない新しいヒロイン像を創出した。
第二次世界大戦中の1937年から1945年までは、伝記映画や歴史映画の製作に腐心。松竹に移って『残菊物語』(1939)という芸道もので独自の世界をみせたが、『元禄忠臣蔵』(1941~1942)のような武士ものでは不成功に終わった。敗戦後のGHQ(連合国最高司令部)指導下では、男に従属する女性の解放を描くが、作品は停滞した。1948年、『夜の女たち』がヒットし、これに続いて『お遊(ゆう)さま』(1951)、『武蔵野夫人』(1951)など文芸作品の映画化が続くが、これにも低迷。1952年になると、『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)、『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)、『山椒大夫(さんしょうだゆう)』(1954)、『近松物語』(1954)と、近代以前の女性を主人公とした作品で、にわかに脚光を浴び、前3作はベネチア国際映画祭銀獅子賞を連続受賞。溝口の海外での評価も一気に高まった。これらの作品は、宮川一夫(みやがわかずお)(1908―1999)カメラマンによる白黒のグラデーションを生かしたローキートーン(暗い画調)と静謐(せいひつ)で憂愁(ゆうしゅう)をたたえた映像美、一場面で一つの挿話を描くワンシーン・ワンショット(長回し)の手法、スタニスラフスキー・システムによる演技指導、リアリズムによる立体的なセットなどを駆使した傑作群である。『楊貴妃(ようきひ)』(1955)ではカラー映画に挑戦、少年時代を過ごした浅草辺りを舞台にした『赤線地帯』(1956)が遺作になる。溝口の方法は、演劇の実写としてスタートした日本映画の伝統を踏まえ、それを革新して独自のリアリズムを打ち立てた。ヨーロッパ映画もこうした出発をしたので、フランスのゴダール監督が溝口を絶賛するのには、歴史的な背景があるといえよう。20世紀の映画の歴史的試練を経て到達した見事な偉業である。昭和31年8月24日没。
[千葉伸夫]
愛に甦る日(1923)
故郷(1923)
青春の夢路(1923)
情炎の巷(1923)
敗残の唄は悲し(1923)
813(1923)
血と霊(1923)
霧の港(1923)
夜(1923)
廃墟の中(1923)
峠の唄(1923)
哀しき白痴(1924)
暁の死(1924)
現代の女王(1924)
女性は強し(1924)
塵境(1924)
七面鳥の行衛(ゆくえ)(1924)
さみだれ草紙(1924)
伊藤巡査の死(1924)
無銭不戦(ウチェンプチャン)(1924)
歓楽の女(1924)
恋を断つ斧[細山喜代松との共同監督](1924)
曲馬団の女王(1924)
噫特務艦関東(1925)
学窓を出でて(1925)
大地は微笑む 第1篇(1925)
白百合は嘆く(1925)
赫い夕陽に照されて(1925)
ふるさとの歌(1925)
街上のスケッチ[『小品映画集』の1篇](1925)
人間(1925)
乃木大将と熊さん(1925)
銅貨王(1926)
紙人形春の囁き(1926)
新説己が罪(1926)
狂恋の女師匠(1926)
海国男児(1926)
金(1926)
皇恩(1927)
慈悲心鳥(1927)
人の一生 人間万事金の巻(1928)
人の一生 浮世はつらいねの巻(1928)
人の一生 クマとトラ再会の巻(1928)
娘可愛や(1928)
蔚山沖の海戦(1928)
日本橋(1929)
朝日は輝く(1929)
東京行進曲(1929)
都会交響楽(1929)
ふるさと(1930)
唐人お吉(1930)
しかも彼等は行く(1931)
時の氏神(1932)
満蒙建国の黎明(1932)
滝の白糸(1933)
祇園祭(1933)
神風連(1934)
愛憎峠(1934)
折鶴お千(1935)
マリヤのお雪(1935)
虞美人草(1935)
お嬢お吉[高島達之助との共同監督](1935)
浪華悲歌(1936)
祇園の姉妹(1936)
愛怨峡(1937)
露営の歌(1938)
あゝ故郷(1938)
残菊物語(1939)
浪花女(1940)
芸道一代男(1941)
元禄忠臣蔵 前篇(1941)
元禄忠臣蔵 後篇(1942)
団十郎三代(1944)
宮本武蔵(1944)
名刀美女丸(1945)
必勝歌(1945)
女性の勝利(1946)
歌麿をめぐる五人の女(1946)
女優須磨子の恋(1947)
夜の女たち(1948)
我が恋は燃えぬ(1949)
雪夫人絵図(1950)
お遊さま(1951)
武蔵野夫人(1951)
西鶴一代女(1952)
雨月物語(1953)
祇園囃子(1953)
山椒大夫(1954)
噂の女(1954)
近松物語(1954)
楊貴妃(1955)
新・平家物語(1955)
赤線地帯(1956)
『四方田犬彦編『映画監督溝口健二』(1999・新曜社)』▽『依田義賢著『溝口健二の人と芸術』増補版(社会思想社・現代教養文庫)』▽『佐藤忠男著『溝口健二の世界』(平凡社ライブラリー)』
映画監督。男のエゴイズムや金銭によって支配される,〈封建的〉な社会のなかで虐げられた女(娼婦からブルジョア夫人に至るまで)の運命を冷徹なリアリズムで描いた〈女性映画〉の名匠として知られる。また,その映画づくりは〈完全主義〉とよばれ(セットはすべて原寸でつくらせた),俳優の演技を持続させるためにカメラの長回しを原則とする〈ワンシーン・ワンカット〉の技法を完成させて,黒沢明とともに日本映画の力を世界に知らしめた巨匠である。
東京の本郷湯島の生れ。小学校を出たあと,和服の模様の下絵を描く図案屋に奉公し,さらに洋画研究所などで,絵画を学び,新聞の広告の図案係などをへて,1920年,日活向島撮影所に助監督として入社する。23年《愛に甦へる日》で監督としてデビューし,5作目の沢村春子が悲運のヒロインを演じた《敗残の唄は悲し》(1923)で新人監督としての力量を認められた。その後は,ドイツ表現主義映画を模倣した《夜》《血と霊》(ともに1923),左翼イデオロギーを盛った〈傾向映画〉の流行にのった《都会交響楽》(1929),《しかも彼等は行く》(1931),テナー歌手・藤原義江を主演にしたトーキー試作(日活ミナトーキー第1回作品であった)《ふるさと》(1930),また溝口の〈芸道三部作〉とよばれる《残菊物語》(1939),《浪花女》(1940),《芸道一代男》(1941),あるいはまた晩年に挑戦したカラー作品《楊貴妃》《新・平家物語》(ともに1955)等々の意欲作を作るが,これらの間に数多く作られた〈下町情緒とフェミニズム〉(滝沢一評)に貫かれた一連の〈女性映画〉こそが,溝口作品の世界をきわだたせることになる。
初期の田中栄三脚本,梅村蓉子主演の《紙人形春の囁き》と川口松太郎脚本,酒井米子主演の《狂恋の女師匠》(ともに1926)のあと,溝口作品のヒロインを演じて,その〈女性映画〉のイメージを作り上げた女優たちをあげれば,《滝の白糸》(1933)の入江たか子,《浪華悲歌(なにわえれじい)》《祇園の姉妹》(ともに1936)の山田五十鈴(1917-2012),《浪花女》から《夜の女たち》(1948),《お遊さま》(1951),《西鶴一代女》(1952),《雨月物語》(1953)等々をへて《山椒太夫》《噂の女》(ともに1954)に至る円熟期の溝口作品の田中絹代,《雪夫人絵図》(1950),《祇園囃子》(1953)の木暮実千代,それに若尾文子(《祇園囃子》,《赤線地帯》1956),京マチ子(《楊貴妃》1955,《赤線地帯》)らがいる。なお《西鶴一代女》《雨月物語》《山椒太夫》がいずれもベネチア映画祭において受賞したため世界の注目を浴び,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉の監督たち(ゴダール,トリュフォー,ジャック・リベット等々)からはとくに信奉された。
《浪華悲歌》から始まって《新・平家物語》に至る溝口健二のほとんど全作品の脚本を手がけた依田義賢(よしかた)(1909-91)による回想録《溝口健二の人と芸術》(1964),新藤兼人監督によるドキュメントと証言による伝記映画《ある映画監督の生涯》(1975)がある。
執筆者:広岡 勉
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昭和期の映画監督
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1898.5.16~1956.8.24
大正・昭和期の映画監督。東京都出身。はじめ絵画を学んだが1920年(大正9)日活に入社,22年「愛に甦へる日」で監督となる。第2次大戦前には「浪華悲歌(なにわエレジー)」「祇園の姉妹」など,きびしい現実を生きる女性像をリアルに描いた名作がある。戦後は「西鶴一代女」「雨月物語」など,日本映画史上に残る秀作をつくった。後者はベネチア国際映画祭で,銀獅子賞を受賞。国際的な評価をうける映画監督の1人。
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…大正末期から昭和の初めにかけて,阿部豊,溝口健二,小津安二郎,清水宏らの作品に連続して主演し,鋭く繊細な近代的感覚をうたわれた二枚目スター。東京生れ。…
…
[日本の怪奇映画]
日本の場合は,怪奇映画というよりも,被害者の怨念が,加害者(個人)やときにはその血縁者にとりつく〈怪談映画〉が主流を占め,同じたたりでも,のろわれた場所へ入りこんだ人々が恐怖を体験する欧米型(ロバート・ワイズ監督《たたり》1963,ジョン・ハフ監督《ヘルハウス》1973,など)とは対照的である。その〈怨念〉の伝統は,戦前の鈴木澄子,戦後の入江たか子主演の〈化猫〉映画から続いているが,そうした中から,溝口健二監督の《雨月物語》(1953),中川信夫監督の《東海道四谷怪談》(1959),《怪談牡丹灯籠》(1970,テレビ作品),加藤泰監督の《怪談お岩の亡霊》(1961)などが生まれた。とりわけ,中川信夫監督の《地獄》(1960)は,日本には珍しく心理的要素の濃い怪奇幻想劇である。…
…時代劇映画
[戦前の活劇]
1920年代から30年代にかけて,活劇は隆盛をきわめ,活劇スターが輩出した。学生スポーツ映画の嚆矢(こうし)《我等の若き日》やオートバイ活劇《青春の歌》(ともに1924)や牛原虚彦監督とのコンビ作《潜水王》(1925),《近代武者修業》,《陸の王者》(ともに1928)などの鈴木伝明,山本嘉次郎監督《爆弾児》(1925)や《鉄拳児》,オートバイ活劇《快走恋を賭して》(ともに1926)などの高田稔,《恋は死よりも強し》(1925),《赤熱の力》(1926),《鉄拳縦横》(1927)などの竹村信夫,田坂具隆監督《阿里山の俠児》(1927),《雲の王座》(1929)や阿部豊監督《覇者の心》(1925),《非常警戒》(1929)や内田吐夢監督《東洋武俠団》(1927)などの浅岡信夫,溝口健二監督の海洋活劇《海国男児》(1926)や田坂具隆監督《鉄腕記者》,《黒鷹丸》,また内田吐夢監督《漕艇王》(ともに1927),《太洋児・出船の港》(1929)などの広瀬恒美である。これらの映画はときに〈猛闘劇〉と呼ばれ,鈴木伝明は学生出身のスポーツ俳優第1号とされ,続く浅岡信夫は陸のスポーツ俳優,広瀬恒美は海のスポーツ俳優と称されて,浅岡信夫はみずから監督もした。…
…トーキー以後はほとんど作品がなく,現場から退いた後は,日本映画俳優学校で多くの人材を育てた。関東大震災直後,森岩雄らと日活金曜会で企画の刷新をはかり,溝口健二《紙人形春の囁き》(1926),阿部豊《彼をめぐる五人の女》(1927)など日本映画の古典的名作として記録されることになる作品のシナリオを書いた。晩年は大学の芸術学部や撮影所の俳優養成所で演技理論と実際の指導にあたり,また,今井正《また逢う日まで》(1950),豊田四郎《雁》(1953)その他に特別出演している。…
…早慶戦の花形選手だった慶応の名三塁手・水原茂とのロマンスをうたわれ,次いで谷崎潤一郎の小説《春琴抄》の最初の映画化で島津保次郎監督による《お琴と佐助》(1935)で〈演技開眼〉して新境地をひらき,〈すれちがいメロドラマ〉ということばまで生み出した大ヒット作《愛染かつら》三部作(1938‐39)で人気の頂点に達した。その後,〈洋装の似合う〉高峰三枝子,桑野通子,高杉早苗の〈近代娘〉三人にスターの座を譲るが,第2次世界大戦後は《夜の女たち》(1948)から《西鶴一代女》(1952),《雨月物語》(1953),《山椒太夫》(1954)等々に至る溝口健二監督作品を中心に,日本の母親を演じた成瀬巳喜男監督《おかあさん》(1952)や,中年女の役を演じた五所平之助監督《煙突の見える場所》(1953)や姥捨山に捨てられる老母を演じた木下恵介監督《楢山節考》(1958)等々を通して,〈演技派女優〉として活躍し,数々の名作を残した。熊井啓監督《サンダカン八番娼館・望郷》(1974)で1975年ベルリン映画祭主演女優賞を受賞,日本の数々の映画賞も独占した。…
…34年には日活が,伊藤大輔監督,大河内伝次郎の大石内蔵助,片岡千恵蔵の浅野内匠頭で,トーキー《忠臣蔵》をつくった。こうして各社のオールスター作品がつづくなか,真山青果原作で前進座などの演劇人と松竹スターが出演した溝口健二監督《元禄忠臣蔵》二部作(1941‐42)が,芸術性の高いものとして注目を集め,この作品以降,第2次世界大戦中には本格的な忠臣蔵映画は姿を消した。 戦後,忠臣蔵映画は早くから企画されたが,GHQ(連合軍総司令部)の時代劇規制のため実現せず,52年,〈忠臣蔵〉の題名を用いず,仇討を描かないで赤穂浪士による政治批判のドラマにするという形で,はじめて東映作品《赤穂城》二部作が,萩原遼監督,片岡千恵蔵の浅野内匠頭・大石内蔵助二役により,つくられた。…
…とくに小津安二郎の作品は小市民の平凡な日常生活を描いて〈小市民映画〉の名を生んだが,リアリズムで近代人の病める精神を見つめる点で,30年前後に現れた〈傾向映画〉の一群(〈プロレタリア映画〉の項目を参照)と表裏の関係にあるといえる。 これに対し,日活の向島撮影所では,田中栄三の映画革新のあと,自然主義リアリズムによる鈴木謙作《人間苦》(1923)や溝口健二《霧の港》(1923)がつくられたが,関東大震災後,向島撮影所は閉鎖された。日活の映画づくりの舞台は京都大将軍へと移って,村田実(1894‐1937)が抒情と心理的リアリズムに満ちた浦辺粂子主演《清作の妻》《お澄と母》(ともに1924)や岡田嘉子主演《街の手品師》(1925)で一段と名を高め,阿部豊が岡田時彦主演《足にさはった女》(1926),《彼をめぐる五人の女》(1927)でハリウッド仕込みのモダンな作風を示した。…
…左翼思想といっても時流に乗った形式的なものであったと内田吐夢はのちに回顧しているが,地方から東京へ出てきて打算的な立身出世主義を処世哲学とする野心的な1人の青年が,生きている人形のように翻弄(ほんろう)される無残な姿を描いて,資本主義社会の巨大なからくりと冷酷さをあばいた映画であった。つづいて,《幕末五剣録》を構想していた伊藤大輔が,幕末という思想的激動期を迎えて苦悩する良心的知識人ともいうべき幕臣の悲劇を描いた《一殺多生剣》(1929),圧制に苦しむ農民の封建的支配制度に対する反抗を,領主の御家騒動をからませながら〈抵抗のドラマ〉として描いた《斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)》(1929)をつくり,失業武士の生活苦と反抗意識を描いた辻吉朗(1892‐1945)監督の《傘張剣法》(1929),林房雄,片岡鉄兵といったプロレタリア作家が脚本に参加して〈怠惰なる有閑階級〉と〈誠実なる労働者階級〉との対比を描いた溝口健二監督《都会交響楽》(1929)などがつくられた。1928年末に結成された〈プロキノ(日本プロレタリア映画同盟)〉が活動を開始するのも,上記の作品群がつくられたのと同じ29年であった。…
※「溝口健二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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