日本大百科全書(ニッポニカ) 「演劇改良会」の意味・わかりやすい解説
演劇改良会
えんげきかいりょうかい
明治期の演劇改良運動の一つの帰結として成立した団体。維新後、不平等条約改正交渉の前提として、日本を西洋なみの文明国とするために社会制度や風俗習慣の欧化改良が唱えられ、その一環として演劇改良の方法が新聞紙上などで盛んに論じられるようになった。1886年(明治19)に、末松謙澄(けんちょう)の主唱によって演劇改良会が創立され、依田学海(よだがっかい)、福地(ふくち)源一郎(桜痴(おうち))などの識者と、伊藤博文(ひろぶみ)をはじめとする政財界人の協力に基づく事業が発足する運びとなった。演劇改良会趣意書によれば、従来の弊風の改善、脚本作者の地位の向上、新劇場の建設という3点がおもな目的であった。しかし、会員の多くが日本の伝統演劇に関する知識に乏しく、ひたすら性急な欧化主義に駆られていたため、女方、花道、チョボなど歌舞伎(かぶき)劇の本質にかかわる要素の廃止を無造作に提唱したり、伝承された脚本や演技に対する無理解を露呈するなど、妥当性を欠く部分が少なくはなかった。そのため、演劇に詳しい知識人や劇界関係者の共感を得るに至らず、1887年4月に外務大臣井上馨(かおる)邸において明治天皇をはじめとする皇族方を招いての天覧劇の実現はみたものの、第一次伊藤内閣の退陣とともに88年には消滅してしまった。具体的成果はあげられなかったが、この会の設立を契機として諸家の間に交わされた演劇論は、後の日本演芸矯風会(きょうふうかい)や日本演芸協会の設立につながり、演劇や戯曲に対する新しい理念の台頭を促した。
[松本伸子]