デジタル大辞泉 「漢」の意味・読み・例文・類語
かん【漢】[漢字項目]
[学習漢字]3年
1 中国の川の名。「漢水」
2 古代中国の王朝名。「
3 中国・中国語・中国人の称。「漢語・漢詩・漢字・漢籍・漢文・漢方/和漢・和魂漢才」
4 おとこ。「悪漢・巨漢・好漢・痴漢・暴漢・熱血漢・無頼漢・門外漢」
5 天の川。「河漢・銀漢・天漢」
[名のり]かみ・くに・なら
[難読]
中国,秦につづく統一王朝。前202-後220年。秦の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(漢の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。また前漢は都を長安におき,後漢は都を洛陽に定めたため,都の位置から前漢を西漢,後漢を東漢と呼ぶことがある。
中国で,はじめて統一国家が出現したのは秦の時代である。しかし秦は天下統一後わずか15年で滅亡したのにたいして,秦に代わった漢は中間に17年の中断があるとはいえ,400年余にわたって支配を維持した。この年数は,めまぐるしく興亡する中国の王朝の中にあって,最長の記録である。その間,高祖や武帝を筆頭に文帝,宣帝,光武帝などのすぐれた為政者が現れてよく治世につとめたため,秦の始皇帝の描いた統一国家の理想は漢によって実現されたのみならず深く根をおろし,それはたんに政治のみならず文化,社会などの上でも中国の基礎をきずいた。なかでもとくに注目されるのは皇帝による中央集権的な官僚制と郡県制の施行であり,さらには儒教の国教化である。その後2000年にわたる中国において,前者は中国の政治組織の基本形態として継承され,後者は各王朝の国教として政治・社会の指導理念となり,学術・思想など精神文化を規律した。また漢は対外的にも国威の発展した時代であった。その最盛期には北はモンゴル,南はベトナム,東は朝鮮,西は中央アジアのオアシス都市国家にいたるまで勢力下におさめた。漢の領土拡大にともなって周辺の諸民族を開化して周辺諸国の勃興と成長をうながし,漢族と周辺諸民族で構成される東アジア世界の形成を準備したことも注目される。
劉邦(高祖)は前202年に皇帝の位につくと,秦の統治方式を踏襲して中央集権的な官僚制と郡県制を施行した。すなわち皇帝の下に行政・軍事・監察の最高責任者として丞相・太尉・御史大夫のいわゆる三公をおき,政務分担機関として太常(儀礼祭祀),光禄勲(宮殿警備),衛尉(宮門警備),太僕(車馬),廷尉(司法),大鴻臚(外交),宗正(宗室),大司農(国家財政),少府(帝室財政)の九卿(きゆうけい)(九寺)をおいて中央政府を構成した。いっぽう地方は大きく郡に分けられ,郡の下には県がおかれた。その官制は中央にならって郡には行政長官の太守,副の丞,軍事の尉,監察の監,また県には長官の令(大県の長)・長(小県の長),副の丞,軍事の尉がそれぞれ皇帝の命令によって中央から派遣されて統治に当たった。高祖はこの郡県制と並行して封建制を採用し,楚漢の戦で漢に協力して功績のあった韓信,彭越,英布ら7人を王(諸王,諸侯王)に封じ,その封地を国(王国)と称した。このような郡県制と封建制の併用が,漢の郡国制と呼ばれる制度である。
ところで漢初に封建された異姓の諸王は,いずれも強力な軍隊を擁する実力者であった。しかも彼らの封建が漢の妥協の産物であっただけに,将来に不安をいだいた高祖は謀反などの口実をもうけてつぎつぎと諸王を倒した。そのため高祖末年までには遠隔地の長沙王を除く他の異姓の諸王はすべて抹殺され,代わって高祖の近親同族を封建し,〈劉氏にあらざるものは王となるべからず〉という原則を確立した。しかし同族とはいえ諸王の勢力は強大であった。当時の王国の内容をみるに,漢の朝廷と同じ官僚組織をもち,その官僚は王みずからが任命し,軍隊を有し,1郡もしくは数郡の面積に相当する広大な封地は王の統治にまかされていた。これにたいして漢の朝廷からは王を教導する太傅(たいふ)と官吏を統率する丞相(のちに相)のわずかに2人が派遣されるだけであり,王国の実態はほとんど独立国といってよかった。しかも王国の総面積は全土の実に2/3を占め,漢が郡県制で直轄支配する面積は1/3にすぎなかったといわれており,戦後の生産力の回復は王国においても富と力を伸長させ,血縁関係の疎遠化も加わって,諸王の存在は朝廷にとっていよいよ大きな脅威となっていった。
文帝のときに淮南(わいなん)王の劉長が謀反の罪で廃絶されるという事件(前174)を契機として,博士の賈誼(かぎ)や鼂錯(ちようそ)は諸王の抑圧と領地の削減を強く主張した。万事に慎重な文帝は対決を回避したが,景帝は鼂錯の建議を採用して諸王の領地を削る方針を定めると,呉王劉濞(りゆうび)ら7ヵ国の王は連合して漢に反旗をひるがえした。前154年の呉楚七国の乱である。この乱は諸王の周到なる準備にもかかわらず,政府軍によって3ヵ月で平定された。乱のあと,景帝は諸王を政治の座から切りはなし,王国の政治は相(しよう)をはじめとする中央派遣の官吏が執行することにした。また諸王の封地を王子たちに細分して小諸侯に立てる(推恩の令)など,一挙に諸王の権力を奪い勢力を削った。ついで立った武帝は諸王の行為にさらに厳しい法的制限を加えて圧迫したため,諸王は何の権力ももたず,ただ封地の租税によって生活を保証されるだけの存在となり,この状態は以後の漢代を通じて継承された。武帝はこれと並行して全国を13州(監察区)に分け,中央から刺史を派遣して地方政治に対する監察制度を強化した。かくして武帝のときにいたると,名は郡国制であっても実際は郡県制とかわるところがなかった。かつて秦の始皇帝が目ざした皇帝を頂点とする中央集権体制はここに名実ともに確立され,中国の新しい統治方式として定着するとともに,ひとり中国のみならず東アジアの諸国にも多大の影響を与えた。
武帝の中央集権による専制支配を思想面から支えるものとしてとられた政策が,儒教の国教化である。秦の始皇帝の焚書坑儒(ふんしよこうじゆ)によって弾圧された学問や思想は漢に入って復興し,再び儒家,法家,道家,陰陽家など諸子百家の乱立時代を迎えた。ただ漢初は,政治的には秦の遺産と伝統を継承しながら,戦後の復興のために秦のような積極策をしりぞけて消極策をとることにしたため,無為にして化すという黄老(こうろう)思想(道家の思想)が流行した。文帝に代表される無為の政治は,この道家思想を背景としたものである。しかし世の中が安定し,経済が復興してくると,簡素化を信条とする道家の政治にはあきたらず,儀礼や音楽で体面をととのえ,政治に文化性を重視する儒家が,やがて歓迎されるようになった。
武帝は若くして儒教に傾倒していたが,その武帝に影響を与えたのは大儒董仲舒(とうちゆうじよ)であった。とくに董仲舒の陰陽五行説を用いた天人論は皇帝を政治のみならず倫理,宗教などの中心に仕立てる思想であり,中央集権体制の確立を目ざしていた武帝にとっては,好都合な思想であった。董仲舒の陰陽五行説による一種の神秘主義は後に讖緯(しんい)説(一種の予言説)を生み,王莽の奪に思想的な根拠を与えたものであるが,武帝は董仲舒の献策を入れて諸子百家をしりぞけ,儒教を国教と定めた。すなわち前136年(建元5)に儒教の古典である易,書,詩,礼(らい),春秋の五つの経書にそれぞれ専門の博士(五経博士)をおき,太学(たいがく)で弟子(学生)に教授させ,彼らの中から成績の優秀なものを郎中(幹部候補生)に抜擢することにした。また前134年(元光1)には儒教の徳目である孝行や廉潔な行為の実践者をやはり郎中として登用する,いわゆる孝廉(こうれん)の選挙を実施した。
その結果,儒学を学び,その教養を身につけたものが高官となって政治を指導するという方針がうち出され,この方針は近代にいたるまで継承されることになった。同時にそれは中国官僚制の一つの特徴である文官優位の原則を制度的に確立するものであった。ただここで注意を要するのは,武帝が儒教を国教化して思想の統一をはかったからといって,にわかに儒教一色に塗りつぶされたわけではなかった点である。武帝の思想統一は表面は儒教主義をかかげて経学を尊重しながら,他の思想の長所を利用してこれと調和させるという老巧なものであった。たとえば前漢時代の政治をみるに,技術面では法家主義,精神面では儒教主義というように使い分けながら,かつ全体として調和をとるというやり方が理想とされているのはその例である。
しかし王朝の保護をうけた儒教はその後しだいに人々の間に浸透し,前漢末には王莽のような熱狂的な信奉者を生んだ。彼は平帝の輔政時代にすでに礼制と学校制度の改革を実施しているが,漢の帝位を奪って新(しん)王朝をおこすと,儒教の経典にみえる周の制度を模範として内政,外政の全般にわたって大改革を断行した。王莽の一連の改革は現実を無視してあまりにも復古的であったためにすべて失敗に終わったが,王莽にみられる徹底した儒教主義の政治は次の後漢時代に入ると王朝の基本方針となった。そのため儒教は政治のみならず社会や文化などの上にも多大の影響をあたえるとともに,深く根をおろしていった。したがってこの観点からいえば,儒教の国教化は法制的には確かに武帝のときにはじまるが,名実ともに国教化されたのは王莽以後のことであった。
漢代を通して相対立する強大な異民族は匈奴であった。紀元前4~前3世紀ごろからモンゴル高原一帯に勢力を張った匈奴は,秦の始皇帝のときに将軍蒙恬(もうてん)により一時陰山の北方に追われたが,前209年に位についた冒頓単于(ぼくとつぜんう)によって統一され,東は東胡,西は月氏を討って興安嶺から天山山脈にいたる広大な地域を勢力下におさめ,漢に匹敵する一大遊牧国家を建設するにいたった。高祖は天下を統一した直後の前200年にみずから大軍をひきいて匈奴を討ったが,かえって大敗を喫した。そこで匈奴の侵入を免れるために匈奴と和議を結んで兄弟の約束をとりかわし,漢では皇族の女を単于におくって閼氏(えんし)(単于のきさき)とするほか,毎年多量の絹織物や酒,食糧などを匈奴にとどけることにした。
高祖のとったこの和親外交は外交の基本方針として,つづく文帝,景帝時代を通じて漢は遵守したが,匈奴の侵入は止まず,そのため博士の賈誼や鼂錯らのように外交方針を転換して強行策を主張するものも現れてきた。ただこの時点では国内の諸王問題が解決されておらず,匈奴に対して積極策をとることができなかったが,呉楚七国の乱平定によって国内問題が解決し,中央集権体制が確立した武帝期に入ると,匈奴との対決はもはや時間の問題であった。前133年(元光2),軍臣単于を国境に誘い出し,伏兵によって単于を討ちとろうとして失敗した馬邑(ばゆう)の役を契機に匈奴との外交は決裂し,一転して戦争へと突入した。漢は名将衛青や霍去病(かくきよへい)らの奮戦によって前119年(元狩4)には匈奴をゴビ砂漠の北方に退ける勝利を収め,漢の領土は北と西へ向かって拡大された。
武帝はこの余勢をかりて前112年(元鼎5)には南越国を平定し,このとき新設した郡はベトナムにまでおよび,さらに前108年(元封3)には朝鮮を平定して楽浪郡などの4郡を設け,東方の拠点とした。また武帝の匈奴征伐に先だち,張騫(ちようけん)は武帝の勅命をうけて大月氏国と攻守同盟を結ぶべく西域に遠征した。彼はその使命を果たすことはできなかったが,パミール高原をこえてペルシアの地まで達した大遠征は中国と西方との交通を開くことになった。漢と大宛,大月氏,烏孫,大夏などの西域諸国とのあいだには使者や商人が往来し,西域からはブドウ,ザクロ,クルミなどの珍しい産物や馬,ラクダなどのほか,音楽や軽業(かるわざ),雑技などがもたらされ,逆に中国から持ち出されたものとしては,とくに絹織物に好奇の目がむけられた。この絹織物は西アジアを経由して遠くローマまで運ばれており,後に絹の交易路という意味で〈シルクロード〉と呼ばれるアジアとヨーロッパの2大州を結ぶ交通路が公に開通するにいたった。
第7代の宣帝は内政において充実した隆盛期をもたらした皇帝であるが,外交面でも大きな足跡を残した。すなわち烏孫と同盟して匈奴を討ち,さらに匈奴に代わって北方に進出してきた羌(きよう)族(チベット種)を屈服せしめて西域との交通路を確保し,前60年(神爵2)には鄭吉を西域都護に任命して亀茲(きじ)に駐在させ,西域諸国を鎮撫させた。弱体化した匈奴はその後,内部分裂をおこし,漢に投降した呼韓邪(こかんや)単于は前51年(甘露3)に臣と称して来朝した。また彼と対立していた郅支(ちつし)単于は元帝のときに漢の攻撃をうけて殺され,ここに漢初以来の対匈奴問題は一つの結着をみたのである。
しかしその後王莽によって極端な中華思想にもとづく外交政策が強行されると,友好関係にあった匈奴をはじめ西域や東方の諸国の離反を招いたが,後漢の初代光武帝のときに匈奴は南北に分裂し,48年(建武24)に南匈奴が来降したのを好機として光武帝をついだ明帝は北匈奴を攻めた。それと同時に西域諸国を威服せしめ,74年(永平17)には前漢の例にならって再び西域都護をおき,西域の経営にあたらせた。このとき都護としてもっとも功績のあったのは班超である。彼は30余年を西域で過ごし,その間に50余国を漢に朝貢させただけではなく,不成功に終わったが部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)へ派遣したりした。いっぽう東胡と呼ばれた烏桓(うがん)と鮮卑も匈奴の分裂を機に漢に服属し,さらに東方に目を移すと,倭(わ)の名で知られた日本の地方的部族国家の中には洛陽に朝貢の使者を派遣するものも現れており,最盛期の後漢王朝の勢力のおよぶ範囲は,前漢をしのいでいた。
しかし後漢の対外的な発展も第4代の和帝までで,その後外戚や宦官などによる政治の混乱が現れはじめると,甘粛方面の帰順していた羌族が反抗して侵寇をくりかえし,後漢王朝は多額の軍費をつぎこみながら結局鎮圧できず,こうした状況の中で周辺諸国は再び離反していった。また前漢の武帝時代に郡県支配されたベトナムや朝鮮でも反乱が絶えず,彼らの抵抗のまえに漢は妥協と縮小を余儀なくされていった。このように後漢の中期以後になると,中国を中心とする東アジアの国際秩序は大きく動揺してくるが,これは前漢以来周辺の未開民族が中国の影響をうけて文化的にも,また政治的にも大きく成長をとげ,中国の一元的な支配に強く反発したものであって,次の魏晋南北朝時代にくりひろげられる周辺諸民族の自立運動,ひいては東アジア世界形成への胎動を,ここに認めることができる。
漢は外征によって対外的に大きな発展をとげたが,外征には莫大な軍事費を必要とした。漢代とくに前漢時代の財政は,少府の管轄する帝室財政と大司農の所管に属する国家財政とにはっきりと区別されていた。このうち国家財政の主たる財源は,農民の納める田租と賦銭であった。田租は農業収益に対する課税で,漢初高祖は秦の過重な税率(率は不明)をゆるめて1/15と定めた。のち文帝の前166年には半減して1/30とし,翌年には全免して文帝時代は無税でとおしたが,景帝の元年(前156)には1/30に復活し,以来,前漢はこれが定制となった。後漢では光武帝のはじめには1/10を徴収したが,30年(建武6)には前漢の旧制にならって1/30と定めた。このように田租は規定では収益課税となっているが,実際に徴収するときは面積を課税標準としたものと考えられる。賦銭は銭納の人頭税で15歳以上56歳以下の成人を対象に毎年120銭が課徴され,別に7歳以上14歳以下の未成年者にも,およそ20銭が課徴された。
これら田租と賦銭を主とする国家財政の歳入は銭にして約40億というのがだいたいの標準額で,官吏の俸給をはじめ国政にかかわるすべての費用はこの中から支出された。なお山沢園池の税を主とする帝室財政の規模は国家財政とほぼ同額か,それを上回るものであった。建国以来民生の安定と農業生産力の回復につとめた結果,武帝の初年になると,中央の国庫には〈巨万の銭が積まれ,銭差しの糸が腐って切れて勘定ができず,余った穀物は雨ざらしにされ,腐敗して食べられない〉という繁栄ぶりをとりもどした。武帝の積極的な外交政策は,このような蓄積を背景に強行されたのである。しかし大規模でかつ長期にわたる外征によって,豊かな財政も底をついた。武帝は帝室財政から補充したり,貨幣の改鋳や売爵などによって打開しようとしたが効果は少なく,そこでねらわれたのが商工業者であった。
漢は農民支配のうえに建てられており,中国に伝統的な重農抑商政策を踏襲して農民の保護につとめてきた。しかし,銭納の人頭税を徴収するまでに発展していた貨幣経済は生産力が回復するとともに活発となり,それにつれて商人や手工業者がしだいに勢力をのばしてきた。彼らの王侯をもしのぐ贅沢な生活と,農民に対する経済的圧迫が重大な政治問題だとして早くも文帝時代に賈誼によって鋭く指摘されている。しかも彼らは武帝の外征に乗じて巨利を得るにいたり,武帝は財政の窮乏を救ういっぽうで,彼らの弾圧をねらったのである。その方法は財産税などの課税を強化したり,また均輸法や平準法によって物資や物価を統制したほか,当時の代表的な商品である塩,鉄,酒の専売に踏み切った。中国最初の専売制の実施である。しかも武帝はこれらの新経済政策の実施に当たっては,桑弘羊(そうこうよう),孔僅(こうきん)といった有能な商人を官僚に登用して確実な効果を期した。
これは商工業者,なかでも商人にとっては痛烈な打撃であった。彼らは稼業を政府によって完全に奪われただけではなく,告緡(こくびん)の法によって課税の際に不正申告や申告もれが判明すると全財産を没収されたため,中流以上の商人はほとんど破産したとさえいわれている。このとき運よく生き残ったものは,商業を避けて土地に投資し,地主への転身をはかった。後漢時代にとくに顕著となる豪族の中には,こうした転身者の子孫がかなりあったとみられる。また新経済政策にともなう商人の没落は,同時に商業そのものの性格を変えることになった。すなわち戦国以来栄えてきた全国規模の商人は姿を消し,以後は自給自足を目ざす荘園主たちの生産した商品が荘園主を通して流通する規模の小さなものとなった。しかもこの傾向は,儒教の普及にともなって郷村における自給自足の平和な農村経済が賛美され,重農主義が強調されるようになったことにも対応するものであった。しかし商人の地主化は,土地問題をひきおこし,漢の郷里制社会を崩壊せしめる誘因になったばかりか,ひいては漢帝国を滅亡に追いこむことになったのである。
漢代の郷里制社会をみると,当時の民の大多数を占める農民は郷(きよう)と呼ばれる周囲を牆壁(しようへき)でかこまれた集落の中に,里(およそ100戸)を単位として集団居住し,牆壁の外部に広がる各戸の農地を耕作して生活していた。里では父老と呼ばれる経験ゆたかな年長者を中心に自治体を形成し,人々は共同体関係で結ばれていた。このような里を最小単位として構成されている郷は,したがって自治独立の意識がさかんであった。郷には三老(教化をつかさどる)をはじめ,嗇夫(しよくふ)(税務,訴訟をつかさどる)や遊徼(ゆうきよう)(治安をつかさどる)がおかれ,またいくつかの里の警察をつかさどるものとして亭があり,亭には亭長がおかれていた。郷官と総称されるこれらの小吏は,いずれも住民の中から推挙されて郡県から任命されたものである。徴税や徭役の分担などはもとより,民事や刑事事件でも小さなものであれば県などの上級官庁をわずらわすことなく,これら郷官の責任において処理されたところに,後世から理想として仰がれた漢代地方制度の大きな特色があった。漢帝国は独立自営農民とこうした郷里制社会を国家の基盤として成立していたのである。
しかし商品経済が発展し,貨幣経済が浸透してくると,農民のあいだに生活程度の格差が生じ,富農と貧農の分化が進行してくる。富農は開墾によって土地を拡大したり,また土地を買収して大土地所有者となるが,この傾向に拍車をかけたのが財産の保全策として行われた商人の土地買占めである。これら大土地所有者は分財別居を重ねることによって同族をふやし勢力を拡大していくが,このような血縁関係と強い同族意識で結ばれ,かつ経済力をもった宗族集団が豪族と呼ばれるものである。豪族はたんに耕地だけではなく周辺の山林や原野や池沼を取りこみ,荘園を築いて自給自足体制を確立するとともに利殖をはかり,その大きな経済力でもって農民生活を圧迫した。すなわち,農民は田租のほかに貨幣で賦銭を納めねばならず,加えて災害や病気などから生じる貧困によって豪族とのあいだに貸借関係をもち,この関係にしばられてついには土地を失っていくのである。そして土地を失った農民の行きつく先は,豪族の小作人となり彼らの所有となった農地を小作するか,最悪の場合は奴婢に転落するかのいずれかであった。このように豪族のもとに美田が集中し,自営農民も没落して豪族の傘下に吸収されていくと,かつての郷里制社会にみられた共同体関係は当然のことながら失われていた。
これは国家の基盤の崩壊であり,そこで哀帝の前7年(綏和2)には大土地所有者の所有地と奴婢の所有人数を制限した限田法を発布したが,多くの反対者によって実施できなかった。また王莽政権では,耕地を王田,奴婢を私属と称してともに売買を禁止し,所有地の面積に制限を加えたが,この法令も発布後3年で廃止を余儀なくされている。そしてみずから南陽の豪族の出身であり,豪族地主集団の支援をうけて漢王朝を再興した後漢の光武帝は,奴婢については解放令を発布したりしているが売買を禁止するまでにはいたらず,土地所有の制限にいたっては,まったく手をつけなかったため,大土地所有は後漢時代を通じてますます進行していった。豪族たちは儒学を学び儒教の教養を身につけて地方の郡県の属官となり,孝廉等の有利な選挙(官吏登用法)によって官界に進出し,政治的な力を獲得した。しかもその間に生じる門生(師弟の関係),故吏(長官と属官の関係)や通婚などの諸関係により,地域をこえた広い結びつきをもって権力の中枢部へ接近し,みずからものし上がっていくのである。かくして後漢王朝がもはや農民の保護者たり得なくなったときに,農民の不満が爆発した。それが黄巾の乱であった。
後漢も和帝の時代を過ぎると早くも衰退の色が濃くなった。その原因の一つは皇帝が幼年で即位し,しかも短命で終わったことである。そのため母である皇太后が摂政し,政治の実権が外戚の掌中に握られることになる。そして皇帝が成人して外戚の干渉を排除しようとすれば側近の宦官の力をかりねばならず,次は外戚に代わって宦官の専横を許すことになる。後漢の後半期はこのような外戚と宦官の政争のくりかえしで,皇帝権はいちじるしく衰微した。後漢の外戚としてもっとも強大であったのは梁冀(りようき)である。順帝の皇后の兄として専権し,冲帝,質帝,桓帝の3代にわたり20年ちかく政治を壟断(ろうだん)した。桓帝は159年(延熹2)に宦官の単超(ぜんちよう)らに協力を求めて梁冀を倒すと,宦官の進出をおさえきれず,ここに後漢最大の宦官専横期を迎えることになった。
宦官は彼らにとりいる官僚や豪族と結託し,中央や地方の官界に勢力を拡張し,賄賂をむさぼり,不正な選挙を行い,苛斂誅求(かれんちゆうきゆう),悪とぜいたくのかぎりをつくした。儒教的教養をもつ多くの官僚や知識人たちは,かねてより外戚や宦官の政権壟断に激しく反対していたが,外戚梁氏が倒されて宦官の専横期に入ると,名節を重んじる風潮と相まって反宦官・反政府をスローガンにして立ち上がった。当時3万人といわれる太学の学生や,地方では郷里制社会を宦官らの害から守ろうとする豪族や庶民にいたるまで反政府の清議(せいぎ)(世論)の輪は広がり,彼らは中央や地方の清節な官僚をみずからの代表として支援した。このような一派を清流と呼び,宦官を濁流という。これに対して宦官は桓帝を動かし,166年に清流の誉れ高い李膺(りよう)(110-169)ら200人を政治を誹謗(ひぼう)した罪で検挙し,彼らを党人と名づけて終身禁錮すなわち任官権剝奪処分とした。これが党錮と呼ばれる事件である。さらに霊帝のときに竇武(とうぶ)らによる宦官誅滅計画が失敗すると,169年(建寧2)に再び弾圧が加えられ,このときは死刑が100余人,禁錮は600~700人にのぼる大規模なものであった。2度にわたる党錮によって清流派官僚は官界から一掃されたが,政府の弾圧にもかかわらず清議の運動は在野の潜在勢力として根づよく生きつづけた。次の魏晋南北朝時代をになう貴族層は,こうした勢力の中から成長したものである。
相つぐ政争によって政治道徳は乱れ,後漢王朝崩壊の色が濃厚になってきたとき,王朝の打倒を叫ぶ黄巾の乱が勃発した。豪族による兼併の危機につねにさらされていた農民は,外戚や宦官が専権をふるう政府のもとで過重な誅求をうけて困窮の度を増していった。しかも後漢も中期以降になると天災,飢饉が相ついだために慢性的な飢餓状態におちいり,順帝のころからは毎年のように各地で農民の反乱が起こった。黄巾の乱はその最大規模のものである。黄巾というのは蜂起に参加した人が黄色の布で頭を包んだところから呼ばれた名で,その母体は鉅鹿(きよろく)(河北省)の張角がはじめた太平道という。後にはこれが道教に発展する新興宗教の教団であった。張角は黄天の神の使者で大賢良師と称し,護符(おふだ)と霊水のまじないによって病気に苦しむ人々を治療して救済したため,貧困の中で病気への恐怖と不安をいだいていた民衆の心をとらえ,170年代の初めから10余年間に華北の東部から長江(揚子江)にかけて数十万人の信者を獲得するにいたった。そして当時の農民の反政府感情に乗って革命運動に転じたのである。霊帝の甲子(きのえね)の年,すなわち184年(中平1)に彼らは各地でいっせいに蜂起した。この事態に直面して中央では,権力闘争を一時中止し,党錮も解除して黄巾軍の制圧に乗り出した。たまたまその年の秋に張角が病死し,有能な指導者を失ったために黄巾の主力軍は敗れたが,地方の黄巾軍や,また黄巾軍に呼応して立った各地の農民軍はなお健在であった。なかでも大きな勢力を誇ったのは河北の黒山軍と陝西から四川にかけての五斗米道(ごとべいどう)の軍で,これらの蜂起軍を鎮圧するためにはさらに20年の歳月を費さねばならなかった。
黄巾の主力軍が平定されると,外戚と宦官による相も変わらぬ権力争いが再開されたが,189年に外戚何進らによる宦官誅滅計画がもれて何進が宦官に殺されると,禁軍の将袁紹は2000余人の宦官をことごとく殺すという荒療治で宦官を一掃した。このあと袁紹に代わって都を制圧した董卓(とうたく)は,献帝を擁立して政権を掌握するとともに暴虐のかぎりをつくした。当時,黄巾の乱が起こると,各地の豪族は自衛のために宗族や賓客,小作人らを組織して武装集団をつくっていたが,いっぽう地方の州牧(州の刺史)や太守は軍・民両政の全権を掌握し,これら武装集団を糾合してしだいに群雄化していった。董卓がそうであり,袁紹や曹操らはその代表格であった。彼らは董卓の横暴を知り,190年(初平1)に袁紹を盟主として董卓討伐の兵を挙げた。首都洛陽に火を放って長安に逃げた董卓は192年に部下の手によって殺されると,群雄はそれぞれ自己の地盤確保と勢力圏の拡大をはかって,互いにしのぎを削ることになった。このような群雄割拠の中で,最後の皇帝の献帝は名ばかりの存在でしかなかったが,董卓滅亡後は曹操に擁されて魏の発展に利用され,220年には曹操の子の曹丕(そうひ)(魏の文帝)に禅譲を迫られて,ついに位を譲った。漢帝国はここにその幕を閉じ,三国時代へと移る。
漢代の文化の特色は旧来の文化を統合して体系化する,いうなれば統合主義と儒教主義の二つをあげることができる。同時に漢が400年にわたって統一国家を維持したことは,中国文化の型を定着させることになった。まず統合主義の典型としては,司馬遷が上古の黄帝から武帝にいたる二千数百年間の通史《史記》を完成した。司馬遷は古今の散乱した歴史資料を網羅して一つの体系の中に収め,みずからの歴史観と紀伝体(帝王の年代紀と個人の列伝を主とする体裁)という記述形式を樹立して史学史上に不滅の金字塔をうちたてた。これは武帝時代に真の統一国家が完成し,中国が未曾有の版図を有して東アジアの一大中心となったという意識が,過去の歴史や文化を総括して新しい時代に対応する哲学的・歴史的解釈を導き出そうとする意識となって自覚されたものにほかならない。このように統一国家の出現を背景として顕著になる文化の統合主義には淮南王劉安が数千人の学者を動員して学問と知識の総合をはかった《淮南子(えなんじ)》の編纂があり,また劉向(りゆうきよう)・劉歆(りゆうきん)父子による中国最初の総合図書目録である《七略》(原本は佚す)や許慎による中国最初の字書の《説文解字(せつもんかいじ)》などもこの範疇に属する。さらに科学の方面に目をうつすと,暦法では司馬遷の太初暦とそれを改良した劉歆の三統暦,数学では《九章算術》,医学では《黄帝内経(こうていだいけい)》や張機の《傷寒論》などがある。いずれも過去の諸説を集大成して基礎づくりをしたすぐれた結晶で,後世の斯学(しがく)の発展に貢献した。
さて文化のもう一つの特色の儒教主義は,武帝のときに儒教が国教化されたことによってもたらされたものであるが,儒教が浸透する後漢時代に入って顕著となる。班固の著した前漢一代の歴史《漢書》はその典型である。そこでは班固は,《史記》にはじまる紀伝体を模倣しながら,歴史観においては司馬遷の客観かつ自由な立場を否定し,徹底した儒教主義と前漢王朝を賛美する立場を強くうち出した。このように漢代では〈史漢〉と並称される二つのすぐれた歴史書が生まれたが,その後儒教が歴代王朝の国教として尊崇されるにおよび,《漢書》が正史の模範と仰がれることになった。また後漢時代の学問の特色は経学であり,なかでも経典の字句の解釈や注釈を主とする訓詁学がさかんであった。馬融とその弟子の鄭玄(じようげん)は多くの経典に注釈をほどこして経学史の上に大きな足跡を残している。
最後に漢代の発明をみると,いずれも後漢時代であるが,蔡倫による上質紙の発明,張衡の渾天(こんてん)儀(天球儀)や地動儀(地震計)の発明のほか,この時代にはすでに磁石のもつ指南性(南北を指す)が明らかにされていた。中国の誇る四大発明(紙,印刷術,火薬,羅針盤)のうち実に二つが漢代に行われていることは特筆に値する。
執筆者:永田 英正
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秦(しん)に次いで中国を統一し支配した王朝(前202~後220)。王莽(おうもう)の新(後9~23)による中断を挟んで、それ以前を前漢(前202~後8)、以後を後漢(ごかん)(25~220)といい、都が前漢は西の長安、後漢は東の洛陽(らくよう)に置かれたところから、西漢、東漢ともいう。
[五井直弘]
秦は始皇帝が死に(前210)、二世皇帝が後を継ぐと、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱をはじめ各地に反乱が起きた。漢の創始者高祖劉邦(りゅうほう)も紀元前209年に手兵2000~3000を率いて沛(はい)(江蘇(こうそ)省沛県)で挙兵した。農民の出身で下級の警吏にすぎなかった劉邦の勢力は初めは弱体であったが、沛の有力者などの支持を得てしだいに強大となり、前202年には楚(そ)の将の末裔(まつえい)項羽(こうう)を垓下(がいか)の戦い(安徽(あんき)省霊璧県東南)に破って皇帝の位につき、翌年都を長安に定めた。即位後の論功行賞で、高祖は一族功臣に封国を与えて諸侯王とし、列侯を侯国に封じて、秦以来の郡県制と併用した。これを一般に郡国制とよぶ。しかし高祖はその在世中に、韓信(かんしん)をはじめ功臣の王を次々と滅ぼした。2代目の恵帝が若死にすると、高祖の糟糠(そうこう)の妻呂太后(りょたいこう)が政務をとり、呂氏一族が実権を握ったが、創業の功臣周勃(しゅうぼつ)らの力で呂氏を倒し、5代文帝の時代になって、政権の基礎がほぼ固まった。6代景帝が諸侯王国の領地削減策を強化すると、呉楚(ごそ)七国が乱を起こしたが(前154)、乱の鎮定後は王国の統治権を奪い、王国とは名のみにすぎなくなった。また高祖は韓信を追って大同(山西省)付近に至り、匈奴(きょうど)に囲まれた。以後、漢は匈奴に対して宥和(ゆうわ)策をとったが、7代武帝の時代になって積極策に転じ、数回の匈奴遠征を行ったほか、東の朝鮮、南のベトナムにも進出した。武帝はまた匈奴を挟み撃ちにするため、張騫(ちょうけん)を西方の大月氏(だいげっし)に遣わした。目的は達せられなかったが、その結果、西方との交通路いわゆる絹の道(シルク・ロード)が開かれた。けれども、たび重なる遠征や土木工事のために財政が逼迫(ひっぱく)すると、増税、貨幣の改鋳のほか、塩・鉄・酒の専売、均輸法、平準法などの施策を行った。
この武帝から9代宣帝に至る間が前漢の最盛期で、それを象徴するのは法律刑罰を過酷に執行した法家的官僚酷吏の出現である。彼らの弾圧の対象はもっぱら豪族に向けられたが、反面この時期には豪族の地方・中央政界への進出も多くなった。一方、中央政界においては、丞相(じょうしょう)などの政府機関(外朝)に対して、外戚、宦官(かんがん)など皇帝の側近者(内朝)が実権を握るようになった。10代元帝以降はとくにこの傾向が強く、紀元9年には外戚出身の王莽が劉氏にかわって帝位につき、国号を新と改めた。
王莽は『周礼(しゅらい)』などにみえる周の諸制度を理想とし、現実遊離の改革を行うことが多かったから、たちまち混乱を招き、赤眉(せきび)などの農民反乱や諸豪族が蜂起(ほうき)して、わずか15年で滅んだ。
[五井直弘]
この混乱のなかから頭角を現したのが、6代景帝の子孫で、南陽(河南省南西部)の諸豪族を背景にしていた光武帝劉秀(りゅうしゅう)である。光武帝は25年帝位につき、洛陽に都を定めるとともに、劉氏一族の対立者、隗囂(かいごう)、公孫述(こうそんじゅつ)などの諸勢力を倒し、王莽の改制を旧に復して政権の基礎を固めた。光武帝以後、2代明帝、3代章帝の時代約50年間が後漢の最盛期で、洛陽の太学は学生3万人を数え、地方の私学にも弟子2000~3000人をもつものがあった。対外的にも積極的で、竇憲(とうけん)は北匈奴を討ってこれを破り、西域都護班超(はんちょう)はパミール以東の50余国を服属させ、97年には甘英(かんえい)を西方の大秦国に遣わした。しかし、和帝以後は幼弱な皇帝が多く、外戚、宦官がふたたび権力を握るようになった。これに対して、礼教を重んじ、気節の士とよばれた中央・地方の官僚は、外戚、ついで宦官を論難したから、宦官は二度にわたって気節の士を弾圧した(党錮(とうこ)の禁)。中央政治がこのような混乱にあるとき、西北の羌(きょう)族が反乱を起こし、さらに184年には黄巾(こうきん)の大農民反乱が、華北、華中に蜂起した。この乱の鎮圧の過程で、各地に強大な私兵をもつ軍事勢力が現れた。宦官は華北の袁紹(えんしょう)によって討滅されたが、董卓(とうたく)、孫策(そんさく)、曹操(そうそう)らの群雄が割拠して、後漢王朝は完全に分裂した。やがて献帝を擁した曹操が強大となってほぼ華北を統一し、その子の曹丕(そうひ)が献帝に迫って帝位を譲らせ、魏(ぎ)王朝を創建したために後漢は完全に滅び、三国分裂の時代を迎えた。
[五井直弘]
漢の行政制度はほぼ秦制を踏襲した。中央官制は、皇帝を補佐して政務を総覧し百官を統率する丞相が中心で、ときに左右2丞相を置くこともあり、12代哀帝以後は大司徒(だいしと)と改められた。軍事をつかさどるのが太尉で、常置の官ではなく、武帝の時代にはかわって大司馬(だいしば)を置いた。監察官である御史を統率するのが御史大夫(ぎょしたいふ)で、成帝以後大司空(だいしくう)と改められた。また大司馬、大司空は副丞相として政務を担当した。以上は三公ともよばれたが、昭帝以後、外戚が大将軍として実権を握り、また後漢時代になると皇帝の側近にすぎなかった尚書(しょうしょ)が丞相の職務を行った。三公の下に政務を分担する九寺があり、その長官は九卿(きゅうけい)とよばれた。太常(たいじょう)(礼儀祭祀)、光禄勲(こうろくくん)(宮廷衛護)、衛尉(えいい)(宮門守護)、太僕(たいぼく)(帝室の車馬、牧畜の管理)、廷尉(ていい)(裁判、司法)、大鴻臚(だいこうろ)(諸侯、異民族の来朝)、大司農(だいしのう)(国家財政)、宗正(そうせい)(皇族関係)、少府(しょうふ)(帝室財政)の九卿で、執金吾(しっきんご)(京師(けいし)の治安)、将作大匠(しょうさくだいしょう)(土木工事)、大長秋(だいちょうしゅう)(皇后職、東宮職)をあわせて十二卿ともいわれた。
地方行政制度は郡と県が基本で、いくつかの県を郡が統轄した。郡の長官は守と尉で、景帝以後太守、都尉と改められ、民政と軍事を分担した。後漢では郡兵の撤廃に伴って都尉が廃止された。太守の下に副官として丞、行政実務を担当する功曹(こうそう)のほか、督郵(とくゆう)、掾史(えんし)などの属官があり、当該郡内から太守が任免した。県の長官は令または長で、太守、都尉とともに中央の任免であった。県令の下に丞、尉、斗食(としょく)、佐史(さし)などの属官があり、県の下に郷があって、有秩(ゆうちつ)、嗇夫(しょくふ)、游徼(ゆうきょう)などが戸口調査、徴税、徭役(ようえき)などを担当し、ほかに10里ごとに亭があり、亭長が警察にあたった。人民の居住区は里とよばれ、郡、県、郷は1里または数里からなっていて、郡や県はおおむね周囲を城郭で囲ってあった。里には里父老、県・郷には県・郷三老がいて民の教化にあたった。また前106年には全国を13の州に分け、刺史(しし)が州内を巡察して太守以下の監察にあたるようになったが、後漢では州が郡の上の行政単位となった。以上の官吏は丞相以下佐史に至るまで、すべて俸禄(銭と穀物で支給)によってランクがつけられており、功労、年次によって昇進した。ただ高官の子弟や、孝廉(こうれん)、賢良方正(けんりょうほうせい)などに推薦された者、高官に召された者などは下級の吏を飛び越して任用された。なお前5年のときの佐史以上の官吏は13万0285人に上った。
行政は律令(りつれい)とよばれる法に基づいて施行されるのがたてまえであったが、現今の法律とは異なって、民の遵守すべき法というよりは、官吏が民を支配するにあたっての規準ともいうべきものであった。そのうち租税は、収穫量の30分の1を収納する田租、15~56歳の男女に一算(120銭)を課する算賦(さんふ)、3~14歳の男女に23銭を課する口銭、そのほか財産税があり、一般の民は財産評価額1万銭につき一算、武帝の時代から商人は2000銭、手工業者は4000銭につき一算となった。力役には徭役と兵役とがあった。徭役は15~56歳の男子に、毎年1か月、居住する郡県の労役にあたらせる更卒(こうそつ)、これは銭による代納が許され、300銭を代納することを更賦(こうふ)といった。兵役は23~56歳の男子で強健な者を正卒とし、兵役期間のうちに1年間は近衛兵(このえへい)または首都の警備兵として上番し、1年間は出身郡内の警備にあたらせた。辺境の警備にはその近くの正卒や募兵を用いた。武帝時代の大遠征などには募兵のほか、刑徒や異民族が用いられた。前漢時代には長安に常駐した近衛兵、首都警備兵は5万人に上ったが、後漢になると光武帝の改革によって常備兵力1万5000と減じ、郡兵も廃された。そのうえ、これらの兵士には、光武帝時代の功労者の子孫が代々選ばれたから、徴兵制は名目にすぎなくなり、曹操による兵戸制とあまり変わらなくなった。
[五井直弘]
前漢末、平帝の時代には、郡・国の数103、県邑(けんゆう)1314、侯国241で、戸口は約1223万戸、5959万人であった。県以下の郷、あるいは郷よりもさらに小さい集落がどれほどあったかは不明である。降雨量が少なく、黄土の堆積(たいせき)が厚い華北の平原では、比較的水に恵まれた所に密集集落が営まれた。春秋戦国時代以降、鉄製農具が現れ、治水灌漑(かんがい)工事も行われて、農地の開拓が進んだが、その多くは戦国諸国の手になるものであったから、農民は国々の強い規制下に置かれていた。秦が列国を滅ぼすと、農民はその規制から解放されたが、秦・漢統一国家は郡県制の施行、爵位の賜与などによって、その農民を国家秩序のなかに組み入れ、収奪の対象にしようとした。一方、戦国諸国の富国強兵策は手工業や商業の繁栄をもたらしたが、それに伴って私営の手工業者、商人が出現した。彼らはまた土地の集積を図ったから、それは農民の土地喪失、小作人化、奴婢(ぬひ)化を招いた。漢はしばしば富者を長安付近に強制移住させて、彼らを直接の管理下に置き、また武帝時代には商人、手工業者に重税を課し、酷吏が過酷に弾圧を行った。けれども大土地所有の趨勢(すうせい)を阻止することはできず、後漢時代にはこの傾向がいっそう拡大し、なかには私兵をもつ者さえ現れた。彼らは一般に一族が集居したから、豪族とよばれている。豪族は「郷曲に武断する」といわれるように、近隣の数集落にもその勢力を及ぼす者があり、それを利用して郡県の長官の推挙を受け、官界にも進出した。
漢代の農業は、華北ではアワ、キビ、豆、大麦などが主要作物で、後漢時代には小麦もつくられるようになったが、粉食はまだ一般的ではなく、また江南の水稲耕作は技術水準が低かった。鉄製農具は用途別の多種類化が進み、代田法、区種法などの新しい技術も開発されて、牛耕も盛んになった。また中央・地方政府あるいは豪族による治水灌漑施設も築造され、土地生産力は飛躍的に向上した。けれども耕牛などの多くは官牛や豪族の所有であり、灌漑の利を得たのも豪族が多かったから、貧富の差はいっそう拡大し、農民の貧窮化が進んだ。彼らの間にはさまざまの迷信や民間信仰が広がって妖賊(ようぞく)とよばれる農民蜂起が頻発し、やがて黄巾の乱として爆発した。
手工業も戦国時代の繁栄の後を受けて、さらに発展した。漢は塩、鉄、織物などの主要な生産地に塩官、鉄官、服官を置いて、その生産あるいは販売を独占した。しかし塩の生産は民間業者にまかされていたように、手工業そのものを禁止したわけではなかったから、さまざまな民間の手工業が栄えた。青銅器、漆器、陶器、繊維、染物工業などで、それにつれて商業も発展した。商業のおもな対象は、皇帝ならびにその側近、諸侯王、列侯、中央・地方の高官、豪族などであったから、商工業はこれらの人々が居住する城郭都市を中心に繁栄し、なかでも長安、洛陽、邯鄲(かんたん)、臨淄(りんし)、宛(えん)などは人口数十万という大都会であった。長安などでは商人が店舗を構える市(いち)とよばれる商業区域が設けられており、市のなかには業種別の肆(し)(みせ)が軒を並べていた。各地の特産物などを交易する大商人も多く、西域との貿易に従事する商人も現れた。ブドウ、ザクロ、苜宿(もくしゅく)(クローバーの一種)などが西域からもたらされ、絹織物や鉄が西域を経由して、遠くローマにまで運ばれた。ギリシア語で中国のことをセレスとよぶのは、絹の国という意味である。また北辺に設けられた関市(かんし)を通じて、北方の遊牧民との間でも貿易が行われ、四川(しせん)省を経由する西南夷(い)との貿易、広州を拠点とする南海貿易も行われた。後漢後期の桓(かん)帝のとき(166)には、大秦王安敦(あんとん)(東ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスに比定される)の使者が、海上から中国を訪れている。
なお秦の始皇帝は円形方孔の半両銭を鋳て、貨幣を統一したが、漢では算賦などが銭納をたてまえとしたところから、銭の鋳造、流通が頻繁となった。なかでも武帝のとき(前119)に制定された五銖銭(ごしゅせん)(半両。五銖は重さの表示)は、王莽の時代などに一時中断はあったが、唐の開元通宝に至るまで貨幣の基本形式となった。
[五井直弘]
前漢初期には黄老思想(道家(どうか))が尊ばれ、淮南(わいなん)王劉安は多くの学者を集めて、道家思想を中心に雑家の書『淮南子(えなんじ)』を編纂(へんさん)した。しかし文帝のころから実際政治の面では法家思想が尊重され、鼂錯(ちょうそ)などの有能な政治家が輩出した。一方、先秦時代の著作と伝えられる古典には、戦国時代から漢初にかけて整理、増補されたものが多い。なかでも儒学は、漢の初めに秦の始皇帝が行った焚書(ふんしょ)によって失われた経典の収集が行われた。そのうち経文を暗唱してきた学者によって当時通行の隷書で書き定められた経典を用いる派を今文(きんぶん)学派といった。これに対して、景帝のときに孔子の旧宅の壁の中から発見されたり、景帝の子の河間献王が集めたといわれる先秦時代の篆書(てんしょ)などで書かれた経典を用いる学派を古文学派といった。前者が名分を重んじたのに対し、後者は訓詁(くんこ)解釈を主とした。
武帝時代の今文学者董仲舒(とうちゅうじょ)は、陰陽五行思想を取り入れて、皇帝を政治、道徳、思想宗教上の中心に位置づけ、儒学の国教化と五経博士の設置を献策した。これ以後、儒教は皇帝支配、国家秩序の指導理念となり、官僚となるための必須(ひっす)要件となった。一方、古文学は前漢末の劉歆(りゅうきん)が推重したころから盛んになり、後漢時代には両派の論争が続いた。後漢時代にはまた古典の注釈を行う訓詁の学が発展し、許慎(きょしん)は漢字の字義、字形を説いた最古の字書『説文解字(せつもんかいじ)』を著し、古文学者鄭玄(じょうげん)は今文経をも取り入れて、漢代経学(けいがく)を集大成した。なお仏教が中国に伝えられた時期については諸説があるが、光武帝の子の楚王英はすでに仏寺を祀(まつ)っていたといわれている。
漢代の散文は、唐詩や元曲と並んで漢文と称せられる。司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』はその代表で、これはまた紀伝体による構成が以後の中国正史の模範となった。韻文には事実を細かに描写する辞賦(じふ)、『詩経』の四言をかえ、五言または七言からなる古詩、宮廷音楽のための楽府(がふ)などがある。科学の分野には先秦以来の諸説を集大成したものが多く、中国の天文学、暦法の基本型を決定した劉歆の三統暦、数学の『九章算術』、医学の『傷寒論』『黄帝内経(こうていだいけい)』などは、中国はもちろん、朝鮮、日本でも後世まで尊重された。
美術、工芸の分野では、絵画に彩色を伴う古墓の壁画や漆画があり、石闕(せっけつ)、祠堂(しどう)、石室墓などの石材の壁面に彫り付けられた画像石は、当時の思想、生活様式を知るうえでも貴重である。象眼(ぞうがん)、めっきなど工芸技術にも目覚ましい発達がみられ、多様な文様の銅鏡が流行した。馬王堆(まおうたい)漢墓にもみられる織物は種類も多く、刺しゅう、染色、文様も新鮮である。陶器では緑釉(りょくゆう)が盛行した。長安城内の未央(びおう)宮、長楽宮など大規模の宮殿が造営されたが、当時の宮殿建築様式は河北省満城、山東省沂南(きんなん)などの漢墓などから、また豪族らの家屋は画像石や明器(めいき)の陶楼などからうかがうことができる。さらに文字は篆書についで隷書が重んぜられ、後漢時代には楷(かい)・行・草の書法が成立した。当時の石刻碑文が現存する。紙は2世紀初めに蔡倫(さいりん)が発明したといわれるが、それ以前にもあったようで一般には絹布や木竹簡に、戦国のころに発明された筆と墨を用いて記載された。
[五井直弘]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』
中国、五代の一つで、後漢(こうかん)とも、北漢(ほくかん)ともいう。
[編集部]
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①前漢(ぜんかん)・後漢(ごかん)前漢前202~後8,後漢25~220中国の王朝。劉邦(りゅうほう)(高祖)が前202年長安で即位してから後8年に中絶するまでを前漢,25年劉秀(りゅうしゅう)(光武帝)が洛陽で即位し,220年滅亡するまでを後漢という。高祖は郡県制と封建制を併用した郡国制をしいたが,呉楚(ごそ)七国の乱をへて武帝のときには事実上郡県制となった。武帝は充実した国力を対外経略に注ぎ,匈奴(きょうど)を討ち,西域と交通し,絹の道(シルクロード)を開いた。また南越(なんえつ)を征服し,ベトナム北部を併せ,朝鮮四郡を置いた。こうして漢の全盛期がつくられ,学芸も栄えたが,外征の連続で財政が窮乏し,塩鉄の専売や均輸法,平準法が行われた。武帝の死後国力は衰え,宦官(かんがん),外戚がはびこり,王莽(おうもう)に国を奪われた。後漢は2世紀初めまでは国力が充実し,匈奴や西域諸国も服属していた。その後幼弱の皇帝が続いて宦官,外戚が再び政治を乱し,官僚群と衝突し(党錮(とうこ)の禁),2世紀末の黄巾(こうきん)の乱を機に漢朝の権威は失墜し,やがて魏(三国)の曹丕(そうひ)に国を奪われた。このように王朝権力が盛衰した一方,豪族の大土地占有は漸次発展して,豪族は後漢の有力官僚となって権力を握った。武帝が儒教を正統の学と定め,光武帝が奨励して経学が発達し,儒教的官僚王朝が形成された。また陰陽五行,讖緯(しんい)思想,神仙思想も流れており,1世紀には仏教も伝わり,2世紀には道教の萌芽がみられる。古代の医薬,暦法,科学技術などがこの時代に総合的に発展した。鉄器も普及し,華北では牛耕が発達し,商業も盛行した。漢族固有の文物は漢代に総合化,定形化された。
②南漢(なんかん)・北漢(ほくかん)南漢917~971,北漢951~979五代十国の王朝。南漢は広東,広西を中心とする地域に拠った一政権。南海貿易で栄えたが,971年に宋に降伏。北漢は五代後漢(こうかん)滅亡のとき,突厥沙陀(とっけつさだ)部出身で後漢を建てた劉知遠(りゅうちえん)の弟劉崇(りゅうすう)が山西に建国。契丹(きったん)の後援で後周,宋と戦ったが,宋に滅ぼされ五代十国の分裂が終わる。
③後漢(こうかん)947~950五代第4代の短命の中原王朝。後唐,後晋の臣,劉知遠(高祖)が建国。杜重威(とじゅうい)の反乱や契丹の侵入を受け,わずか4年で部将の郭威(かくい)に滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中国の王朝。前漢と後漢にわかれる。
1前漢(前206~後8) 秦末の混乱のなかから,漢王の劉邦(りゅうほう)(高祖)が垓下(がいか)の戦に項羽(こうう)を破り中国を統一。都は長安。長安が後漢の都洛陽の西にあることから西漢(せいかん)ともいう。はじめ封建制と郡県制を併用する郡国制を採用したが,しだいに諸侯の勢力をそぎ,武帝の頃には儒教をもとに中央集権制が強化された。しかし匈奴(きょうど)や朝鮮へのたびかさなる外征は財政の窮迫を招き,宦官(かんがん)の勢力も強まって,ついに外戚の王莽(おうもう)に帝位を奪われた。
2⇒後漢(ごかん)
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…南匈奴の劉淵が304年(元熙1)西晋八王の乱に乗じて建国したもので,平陽(山西省臨汾県)を首都とした。はじめ漢と称したが,劉曜のとき趙と改めた。第2代劉聡は311年(嘉平1)西晋の首都洛陽を占領(永嘉の乱),ついで長安を攻略して西晋を滅ぼし,五胡十六国時代がここに始まった。…
※「漢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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