死体を火で焼くことによって処理する葬法である。火葬の背景には、火で死体を破壊することによって霊魂が肉体からできるだけ早く離れていくことを可能にし、霊魂が新しいすみかを得て生まれ変わってくるきっかけをつくろうとする観念が存在していると考えられる。火葬を行う民族は世界中でも数多い。ユーラシア大陸ではインドを中心として、この系統を引く火葬が、日本も含めた東アジア、東南アジアの広い地域に分布している。インドではインダス文明以来土葬、風葬と並んで火葬が行われてきたが、これが仏教と結び付いたことが、仏舎利(ぶっしゃり)崇拝に関連した遺骨祀祭(しさい)の風習とともに、ミャンマー(ビルマ)、カンボジアなどの周辺地域に及んでいく一つの大きな動因になったのである。しかし、中心地インドから遠ざかるにつれて、火葬は一般民衆にまでは及ばなくなり、チベットやインドネシア、メラネシアなどでは、首長や祭司、シャーマンなどの特権的人物に限られてくる。
ヨーロッパでは、新石器時代にはブルターニュから南ロシアにかけての広い地域の所々で火葬が行われ、とくに後期青銅器時代の骨壺(こつつぼ)墓地文化で盛んであったが、ローマ帝政期になると、遺体浄化と復活の思想を伴い、土葬を採用したキリスト教が帝国内に広まったため、ヨーロッパは非火葬地帯となった。しかし、教会墓地への埋葬が限界に達した19世紀ごろからふたたび火葬が復活してきた。このほか、アメリカ大陸では、北アメリカ、中央アメリカおよび南アメリカ北部に火葬の風習がみられる。一方、アフリカ大陸の民族においては、火葬はきわめてまれである。
[清水 純]
わが国では6世紀から火葬の存在が知られているが、8世紀以降、仏教文化とともに、わが国の火葬習俗は始まったとするのが穏当であろう。仏教の浸透が、寺院の建立とともに火葬を招来させたと考えてよい。火葬はまず上層階級に導入され、やがて地方の豪族に広まっていった。15世紀以降、仏教の庶民への広がりとともに火葬も普及していったが、その方法としては、庶民の間では、野天に穴を掘って、多量の薪(まき)と藁(わら)を置き、棺の上にも積み上げて火をつけ、長時間かけて焼いた。しかし、火葬に立ち会う近親者たちには正視しがたい作業であり、やがて専業の三昧聖(さんまいひじり)などにゆだねられていく所が少なくなかった。近世になると、儒学者や国学者の間から、火葬は残酷な異国の習俗とする火葬反対論が台頭し、火葬が下火になった所もあったが、都市部や真宗の広がった地域などを中心に徐々に増加の傾向がみられた。明治時代に入ると、廃仏棄釈、神道の国教化政策が推進されるなかで、1873年(明治6)7月18日、火葬禁止の太政官(だじょうかん)布告まで出された。この禁令は2年後の75年5月23日に廃されるが、その後、明治政府が伝染病死者を火葬にすることを命じたため、地方の土葬が行われていた市町村でも、しだいに火葬場を設けるようになった。大正時代になると、1915年(大正4)の全国の火葬率は36.2%となるが、府県別には著しい差がみられた。現代では、焼くこと、拾骨、納骨という手続をとる火葬は、宗教的には真宗地帯に、都市と農村とでは都市部に集中して分布し、拡大・普及した。その要因として、火葬は死の汚穢(おあい)感を薄め、分骨が容易化されるし、墓地が狭小ですみ、都市化や宅地化のなかでの土葬不適地域の拡大などがあげられる。
[浅香勝輔]
土葬の場合は、埋葬することでいちおう死体の処理が完了するが、火葬では、火葬で死体の処理を済ませたあと、さらに遺骨の処理が必要になり、二重の手続を踏むことになる。これは南島で行われる洗骨や、土葬でも改葬して骨を祭り直す習俗と共通点があり、葬法の系統をたどるうえで重要な意味をもつ。火葬の歴史は古いが、そのまま爆発的に普及したわけではなくて、近年までは土葬のほうが多かった。人口が都市に集中し、衛生の観点から、地方自治体が条例で土葬を禁止したため、火葬が土葬を圧倒した。浄土真宗の盛んな地方は、比較的早くから火葬に転じ、また伝染病患者は法的に火葬が求められた。現在は近代的な設備をもつ火葬場が多くなり、遺族は1~2時間で収骨(拾骨)することができるようになった。火葬には、大都市圏では都市ガス、地方では灯油が使われることが多い。以前は重油や石炭を使っており、その前は薪や藁で焼いた。集落から離れたところに火葬場を設け、土地を少し掘りくぼめ、空気の通りやすいように四方に溝を設ける。葬式組の人たちが持ち寄った薪の上に棺を置き、藁や蓆(むしろ)をかぶせて火をつける。当番の人が朝方までかかって焼いたものである。朝になると遺族が出向いて骨(こつ)拾いをする。木と竹と片々の箸(はし)を使い、1人が拾った骨を箸移しで他の人が受け取る。そのため日常の食事のとき、片々の箸や箸移しを忌む。のどぼとけの骨を尊重する気持ちが強い。寺院の納骨堂などに分骨することも、火葬に伴う慣行である。
[井之口章次]
『大林太良著『葬制の起源』(中公文庫)』
死体を火で焼く葬法。死体の処理の方法としての火葬には一つの顕著な特質がある。いうまでもなくそれは死体を徹底的に破壊,消滅させる最も効果的な手段だということである。火葬を行う動機はこの特質に関連している。インドに起源をもつ火葬は,おそらく死体の消滅による魂の迅速な浄化を動機としていると思われるが,そのほかにも例えば,敵や妖術師の危害から遺体を守るために,移動民のあいだで保存に便利なように灰のみを残すために(ベトナムのマン・コック族),あるいは死者の害力を除去するために火葬が行われる。都市における火葬の普及も,墓地確保の困難さや衛生学的見地が理由ではあるが,火葬の特質に基づくことには変りない。ヨーロッパでは青銅器時代にひろく行われた。東南アジア島嶼(とうしよ)部で散発的に見られる火葬は,インドからの影響である。このほか,北米,中米の多くのインディアンのもとで火葬はかなり頻繁に行われていたことが知られている。
執筆者:内堀 基光
仏教ではこの葬法を荼毘(だび)ともいう。これはパーリ語jhāpeti(dhyāpeti)の音訳である。一般に死者の葬法には土葬,水葬,火葬,風葬の4種があり,アーリヤ族古来の習俗であった火葬が仏教とともに日本に伝わり,もともと死体遺棄あるいは風葬や土葬であった日本の葬法に大きな変化をもたらした。主として僧侶により採用された葬法であり,記録では《続日本紀》文武4年(700)条にある元興寺の僧道昭の火葬を初めとするが,6,7世紀の火葬墓が発見されたり,《万葉集》に火葬を詠んだ挽歌がみられることなどから,僧侶だけに限られず,またその起源もさらにさかのぼるようである。702年(大宝2)持統天皇が飛鳥岡に火葬され,天皇火葬の初例となった。文武,元明,元正の3天皇も火葬にされ,奈良時代には貴族,僧侶の火葬が普及したが,庶民のあいだでは一般的でなかった。しかし軍防令,賦役令などに兵士,防人(さきもり),丁匠などの死者を火葬にすることが規定されていて,行政的にも火葬法が採用されていた。平安時代になると貴族,庶民とも火葬が盛んとなり,各地に火葬場が設けられ,三昧(さんまい)所と称された。また疫病の流行や飢饉に際して,河原や荒野に遺棄された死体を念仏僧などが火葬にする風があった。この時期,京都では鳥辺山,船岡山などが民間の火葬地として知られていた。また平安時代中期以降,遺骨を寺域に移す風がおこり,三昧堂,廟堂などが建てられ,さらに火葬骨を納めた五輪塔など石造墓塔が立てられ,後世の寺墓のおこりもみられるようになった。江戸時代には儒教の説によって,将軍や大名などは多く土葬を用いるようになり,それにともない一般庶民に対して火葬を禁止する藩もあった。明治維新後,1873年太政官布告によって火葬はいったん禁止されたが,翌々年にはこの布告も解かれた。
民間,ことに農山村に火葬の風がどのように浸透したかについてはまだ明らかにされていないが,死骸の穢(けがれ)を忌む観念が強く,霊魂と肉体を分離して考え,霊魂の祭祀を尊重したことと,民間宗教者(聖(ひじり))の教示があったことが要因の一つと考えられる。真宗地帯に火葬が多いが,同じ真宗でも土葬のところも多く,真宗の教義に火葬を強制するものはない。火葬の管理人には三昧聖や隠坊(おんぼう)などと呼ばれる専業のものが当たるところと,葬式組や講員,隣人などがなるところとがある。火葬の普及にともなって,諸国の仏教霊場,高野山や善光寺などへ分骨,納骨が行われるようになった。土葬のところでも遺髪や歯骨,爪などを骨と称して納骨する。和歌山県では遺髪を高野山に納めることを〈骨上(こつのぼ)し〉と呼んでいる。真宗では本山に納める。近年になって,土葬のところでも,死体ごとに1基ずつ墓石を立てて詣墓(まいりばか)とすると,しだいに墓地が狭くなり,新たに墓域の拡大も容易でないため,火葬に転じる土地もみられ,地方では条例によって土葬を禁じ火葬とした自治体が多い。
→三昧聖 →蔵骨器
執筆者:伊藤 唯真
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遺体を火で処理する葬法。土葬とともに古くから広く行われてきた。火葬後の遺骨は骨壺などにいれて墓や納骨堂に納めたり,川などに散骨する。インドで行われ,仏教の伝播とともに中国や古代朝鮮でも採用された。日本では,「続日本紀」文武4年(700)条に僧道昭(どうしょう)の火葬について,「天下の火葬此より始まれり」と記しており,まず僧侶が行い,703年(大宝3)持統天皇の火葬以降,上流階級の間にも広まった。土葬と異なり,すぐに骨化してしまう火葬は,それまでの死生観と抵触するところもあり,庶民の間では長く土葬が支配的であった。
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…(1)死亡届 人が死亡した場合には,届出義務者(親族,その他の同居者,家主など)がその事実を知った日から7日以内に,診断書または検案書を添付して,死亡地の市区町村長に届け出なければならない(戸籍法86~93条)。(2)埋葬,火葬,水葬 死体の葬り方は国により文化によってさまざまである(遺灰を川に流す国,鳥葬が行われている国など)。日本では,〈墓地,埋葬等に関する法律〉(1948)によって,埋葬(土葬をいう),火葬を原則とし,特別な場合として,船員法15条で船舶の乗員の水葬が認められている。…
…
[葬制の要素]
葬制のうち最も明白な要素はさまざまな方法での死体の処理すなわち狭義での葬法である。火葬,土葬,水葬,風葬,鳥葬などが世界的に広く分布している葬法であり,それぞれ民族文化のまとまりと大体のところ一致している。しかし文化史的に葬法の変化あるいは進化を位置づけることは困難であり,せいぜいのところ採集狩猟民のもとでは単純な死体の遺棄ないし風葬が,また未開農耕民のあいだでは土葬が卓越していると言える程度である。…
…天皇の埋葬については,古くは明らかではないが,大規模な古墳にみる葬法と同様であったとみられる。しかし持統天皇の葬儀に当たり,初めて火葬が用いられ,以後二,三の例外を除いて江戸時代初頭まで火葬が用いられたが,後光明天皇のとき表向きは火葬を,実際には土葬を用い,孝明天皇のとき名実ともに土葬になった。天皇の葬儀に当たっては,殯宮(もがりのみや)を作って,斂葬(れんそう)(葬送)の日まで遺体を安置するが,古くはおおむね1年前後が例で,天武天皇のときは2年余に及ぶ異例であったが,火葬の風とともに簡略化され,30日余りとなった。…
…火葬のこと。火葬のために死体を焼くことをパーリ語でジャーペーティjhāpeti,サンスクリットでディヤーパヤティdhyāpayati(いずれも三人称単数形)というが,〈荼毘〉とはこのような言葉の音写と考えられている。…
…ときに72歳。遺言によって火葬に付された。天下の火葬はこれより始まったという。…
…飛鳥の南西の地域に,天武・持統合葬陵や高松塚古墳などの終末期古墳が散在する事実,また,7世紀後半には,天皇・皇后・皇子女その他に限って,殯(もがり)が営まれている事実は,これらの人々が薄葬令の対象外であったことを示している。第4は,天武朝末年からの仏式葬儀の導入,および8世紀初頭の火葬の採用である。この仏式葬儀の導入と火葬の採用は,実質的に,薄葬を著しく促したのであり,殯の期間も短縮化され,形骸化する。…
…なお,あわせて〈葬制〉の項目も参照されたい。
【葬法と墳墓の構造】
[各種の葬法]
人を葬るには土葬,火葬,風葬,水葬などがあり,また,いったん土葬か風葬によって骨だけとした後に本格的に葬る,いわゆる洗骨葬がある。これらのうち旧石器時代(ネアンデルタール人)以来,最も広く行われているのは,穴を掘って遺体を埋める土葬である。…
※「火葬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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