版(原版)によって写し(刷り)とられたものを指す。print(英語),estampe(フランス語),Druck(ドイツ語)がほぼこれに当たる。ふつうはインキ(墨,顔料など)をつけた木版,銅版,石版などによって紙などに印刷されたものをいう。したがって,まったく同一のものが複数あるということは版画の第1の特徴である。ただし例外として,初期のヨーロッパの版画でウニカunicaと呼ばれて,ただ1点しか現存しないものがかなりあり,またモノタイプmonotypeという1回くらいしか刷ることのできない方法でつくられたものもある。版画の複数性に由来する特色として,ヨーロッパでは初期から巡礼用のお守札として,またゲーム用のカードとしても生産された。それはカリカチュアや風刺画として政治や宗教的な論争に,またちらしやポスターとして商業上の宣伝手段としても利用された。
16世紀から19世紀の写真の実用化までは,銅版画は絵画の複製としての役割が大きかった。18世紀になるとデッサンまで版画で精巧に複製された。また活字印刷の普及にともない,書物が最大のマス・メディアとして近世文化のあらゆる分野を包括するようになるが,書物の挿絵としての版画も狭い意味での芸術の枠をこえた森羅万象への探究の軌跡をイメージ化したものとしてあらためて評価すべき領域となっている。この書物の挿絵としても,また複製版画としても,版画の影響ないし霊感の源泉としての役割は,印刷文化の複数性とその持運びやすさとによって,それ以前とは比べものにならぬ広大な地域に,ときには時代の枠をこえて広がっている。
一般に版画の民衆性は,宗教的なお守札やゲームカード,18~19世紀のエピナル版画Imagerie d'Épinalのような〈民衆版画l'imagerie populaire〉などに顕著に現れているように確かに重要な側面をなし,また壁紙や布地の模様印刷などにも用いられて,大衆の日常生活に浸透している。版画が比較的廉価であることもそれを助長する。それとは対照的に版画は,その身近さから書斎ないし個室の芸術という性格をもっている。そういう点では,きわめて個人的な想像力を喚起する媒体でもありうるところから,近代芸術の要件を満たしているのである。
版画は,ヨーロッパではおそくとも16世紀から版元(出版者)が画家に下絵を求め,それを版刻者(狭義の版画家)が製版し,版元が職人を使って印刷するという企業体制ができていた。版画の下端に版元excudit,excud.,ex.,fecit,f.,画家delineavit,del.,pinxit,版刻者sculpsit,sculp.などと記銘されることが多い。アントワープのプランタン家が代表的な企業例である。日本でも江戸時代の浮世絵版画においては,主題選択は大方は版元に優先権があったと思われるし,その絵画的処理についても,必ずしも画家が自主的にそのすべてを決定してはいない(版下画家というほうが理解しやすい)。細部における描写や彩色は彫師や刷師の微妙な協力を要した。したがって版画は版元,画家,彫師,刷師の緊密な共同制作であった。このような制作過程のなかでは,ラファエロやブリューゲルや北斎は下絵画家ないし原図画家であり,狭義の版画家は無名に等しい職人的な彫師のことであった。もっとも,版画の下絵はおおざっぱなスケッチ程度のことも多く,その場合,それを完成させるのは彫師の役割であったから,〈複製版画gravure de reproduction〉よりも直訳すると〈解釈版画gravure d'interprétation〉という研究者もいる。そういう時代にもデューラー,カロ,レンブラント,ピラネージ,ゴヤのように原図と製版を画家自身が行ういわゆる〈画家の版画家peintre-graveur〉つまり近代的な意味での版画家もいたが,写真技術の発明とその印刷が実用化される以前の一枚刷版画は絵画の複製が主流を占め,狭義の版画家は芸術家というよりも概して職人的な性格をもっていた。版画は,絵画やデッサンに比べて一段劣った芸術と考えられていたのも理由がないわけではなかったのである。
しかし優れた〈画家の版画家〉が多く現れ,ことに19世紀のリトグラフ(石版画)の実用化は製版技術を容易にさせ,版画技術にとらわれない画家の参加を促して,19世紀の末ころから〈複製版画〉に対して〈オリジナル版画〉という意識が明確化した。日本でも20世紀の初めには石井柏亭(はくてい)らによって〈自画・自刻・自摺〉を標榜(ひようぼう)する〈創作版画〉運動が起こされた。オリジナル版画の概念は版画の芸術性を高めることに貢献したことは確かである。オリジナル版画とは,今日では作家が自ら原画を描き,自分で製版すること(技術的に製版専門家の手を借りることも許されよう)を最低条件とする。印刷は自分の手ですることもあるが,フランスでは印刷専門家にゆだねることが多い。刷りむらが少なく,原版も傷みが少ないからである。ただし刷り上がった結果を作家が責任をもって管理することが必要で,部数を50とか100とかに限定し,50部あるいは100部中の何番目であるかを,鉛筆書きのサインと20/50とか78/100とかの分数で示す慣例が行われている。この慣例は,近代における芸術のオリジナリティに対するかたよった好みとそれに乗ずる商業主義によって形成されたというだけでなく,作品のきわめて微妙な品質を確保する必要がそれ以前より高まったことによると考えられる。すなわち,絵画などがもつ1点制作という希少性(芸術性とはかかわりない)に価値を見いだす収集家の習癖におもねって作品数を少部数に限定し20/50,78/100などの番号入りとし,形式的にその番号をもつ作品は唯一無二であることを保証するという姑息(こそく)な思いつきに画商と収集家と作家の3者の利害が一致したわけである。この慣行は長い版画史においてはやっと19世紀末になって始まり,1920年前後に定着する。
一方,現代においては版画の特質であったマス・メディアとしての役割はもはや新聞,テレビ,雑誌などに譲り渡して,版画は1点制作の複数化とでもいうべき傾向を見せている。版画の伝統的な意義に変化が生じたと考えられる現象である。現代の版画家は作品の微妙な品質にきわめて神経質になっているが,単純に品質保証というなら,ドライポイントのようなもろいものを除く他の多くの版形式では,鋼鉄めっきなどによって原版の耐久性を高める方策がある。こうして版画家は自作の,より広範な人々への普及の可能性を断念する代りに,それまで商業ベースに乗らなかった版画によっても生活が可能になり,広い意味ではこの慣行によって版画の価値を社会的に承認させ,現代における版画創作活動を隆盛に導いたわけで,この積極的な側面を否定することはできない。限定部数のほかに作者の試し刷り(épreuve d'artiste,essai d'artisteをE.A.,artist's proofをA.P.と略する)が数部ある以外は,原版に線を入れ版を以後使用不能にすることがふつうである。なお版画にはレンブラントの《三つの十字架》に見られるように図柄に数種類の変化があるものがある。これは原版を作者が何度か修正することによって生じたもので,これによって制作の過程ないし意図の変更経過をたどることができる。この変化した状態をステートstate(フランス語état)と呼び,第3ステート,第7ステートというように順次,番号をつける。古い時代のもので原版が残っていたために後年に刷られたもの(〈あと刷り〉と呼ぶ)もあり,版の状態の悪くなったものもある。
図がその上に刷られるもの(これを台材と呼ぶ)は,ふつうは紙であるから,紙の製造と版画(広義では印刷)とは切り離せない関係にある。紙はおそくとも2世紀初頭までには中国で麻や樹皮などの繊維を加工してつくられていたが,現存する最古の印刷物はこれまで日本で770年につくられた《百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)》(百万塔)であるとされてきた。しかし近年,朝鮮の慶州仏国寺石塔で発見された《陀羅尼経》全文は751年まで制作年代がさかのぼる可能性をもつ。それ以前の印刷物は今のところ存在しないが,印刷の創始はもっと早く,紙の実用化に続いて文字や図も印刷されたことは十分推測される。
紙の西方伝播(でんぱ)はシルクロードと同じ道を通ってなされ,8世紀にサマルカンドからバグダードまで製紙法が伝わり,アフリカ北岸を通って12世紀にイスラム支配下のイベリア半島に,13世紀にイタリアに入り,次いで14世紀にヨーロッパの各地で製紙業が始められた。現存するヨーロッパ最古の版画は14世紀の第4四半期のものである。紙が今日のようにパルプを原料とするようになるのは18世紀のことであるが,日本のコウゾ,ミツマタなどでつくられた和紙は上質で,鎖国時代にも輸出され,レンブラントその他も版画に用いている。紙以前から用いられた台材としては布地,革(羊,子牛),板などがあり,ことに布は正倉院の交纈(こうけち),夾纈(きようけち),﨟纈(ろうけち)の染布をはじめとして,プリント染としても日常化されている。近年は化学的に合成されたビニルやプラスチックが台材に用いられることもあり,台材も平面とは限らない。現代芸術において絵画と彫刻の明確な境界線が失われたように,版画にも浮彫的なものや丸彫彫刻に近いものも現れる。古代メソポタミアの円筒印章も粘土を台材とする浮彫的な性格をもつが,陶磁器,粘土細工,鋳造物の工程で版型を利用した型どりも立体的な土を台材とした版画的な技法と性格とをもつといえる。また旧石器時代の洞窟壁画に散見されるいわゆる手型は外隈(そとくま)で表されているが,岩壁面を台材とし,手を原版としてつくられた一種の版画的なものであった。このように歴史的にみても台材は紙に限られず多様であって,その種類が今後も増大していくことは明らかである。
版画は原版と台材とを押し合わせて台材に形をつけることを基本的な制作過程としてもっている。その方法としては,日本の中世に多い印仏や日常的な印鑑のように,台材を下に置いて,インキ(墨,顔料,染料)をつけた版型を手で押しつけるやり方があり,それに対して,インキをつけた原版の上に台材を置いて,〈バレン〉(西洋ではタンポン。初めはへらのようなものも用いられた)で台材の裏から押さえてインキを付着させる方法もある。銅版画のように凹刻したみぞにインキをうめ,それを台材に付着させようとする場合には人力では不足であるから機械力が必要になり,手近にあったブドウ搾り機を原型とした圧力式印刷機がヨーロッパでは常用されることになった。それ以来,今日の新聞印刷の輪転機にいたるまで,基本原理として原版につけたインキを台材に圧力をもって写しとらせるという点では変わっていない。
それに対して,インキを原版につけるのでなく,刷る側がインキをもっている形式の版画がある。古来の東洋の拓本がそれであり,20世紀ではシュルレアリスムが開発したフロッタージュもそれである。これらが原版の凹凸を手にもったタンポンで写しとるのに対して,原版に開けられた孔を通して台材にインキが塗られるステンシル(合羽(かつぱ)版,孔版)は,前述の旧石器時代の手型をはじめとして江戸小紋などの捺染(なつせん)の制作過程にも用いられ,さらに現代ではシルクスクリーンsilkscreen(セリグラフィーserigraphy)にも使われている。
以上の印刷方式はインキとなんらかの圧力とを用いてなされるが,光と薬品とによる化学的処理のみによる技法がある。それが写真である。写真はネガフィルムという原版にインキの代りに光による化学的変化を利用して形をつくる(現像する)という点で広義の版画概念に属するものである。19世紀の後半に風景画家のコローやT.ルソーあるいは日本で教えたフォンタネージたちが制作したガラス版(クリッシェ・ベールcliché verre)とは,薬品を塗ったガラス板に直接に針で描いたデッサンを,印画紙に感光させたものであるから,ドライポイント(後述)を写真的な技法で印刷したものといえるような効果をもつ。これは光化学的過程によって金属原版を制作し,あとはふつうの圧力式印刷機で制作するヘリオグラビアheliogravure(1875年ウィーンのクリーチュKarl Klietsch発明)とは異なるものである。
一般に版画は,原版の形式,材質によって分類されている。凸版,凹版,平版,孔版および写真の光化学的な版形式があり,材質によって木板,金属,石板,リノリウム,絹,紙など,やはり無限に多様な材質が原版として用いられる可能性がある。ここでは,一般的な主要な原版の形式について述べることにする。
(1)凸版 歴史的にまず重要なものは凸版であり,大部分は木版である。木版には板目木版と木口木版があり,後者は18世紀末以後のものである。15世紀にはクリブレcriblé版と呼ばれる凸版形式が一時現れたが,この原版は金属の場合と木の場合とがあったようである。18世紀末のW.ブレークも金属凸版を試みたが,これはまれな例である。西洋の最初の木版画(板目)は14世紀の第4四半期ころに南ドイツからライン川の下流域で修道院を中心に,民衆的な巡礼用の札や礼拝用の聖像としてつくられた。手彩色を予定して輪郭線だけののびやかな様式を示しているが,やがて15世紀後半には平行線の陰影で立体感をつくり,デューラーの《ヨハネ黙示録》(1498)では一部に交差線による陰影部も加えて同時代の銅版画の精巧さに匹敵するほどの描写力に達した。クラーナハ,バルドゥング,ホルバインらを生むが,17世紀以後は衰え,民衆的な版画や書物の飾文様などに限られる。18世紀末にイギリス人のビウィックが木口木版挿絵に成功し,銅版画と同じような精巧な描写が可能になり,小型の木片を組み合わせることによって大きさも自由に調節して新聞,雑誌や書物などの挿絵にも用いられた。なお色刷版画は16世紀初めにドイツやアルザス地方で4枚から7枚ほどの版木(板目)によって陰影法を表現するカマイユまたはキアロスクーロと呼ばれる木版画がつくられ,ベネチアのカルピHugo da Carpi(1450か80-1520)らの名が知られている。17世紀初めまでフランドルでも行われたこれらの技法は壁紙印刷などに伝えられていく。18世紀にはイギリスのジャクソンJohn B.Jackson(1701-54?)が油絵の効果も加味した色彩木版をつくった。中国では17世紀の明代にすでにかなり精巧な多色刷りが行われていた。日本の多色刷版画は18世紀後半に鈴木春信によって始められ,以後,鳥居清長,喜多川歌麿,葛飾北斎,歌川広重,歌川国芳などの技術的にもきわめて優れた大版画家たちを生み,19世紀後半のヨーロッパ絵画に衝撃を与えた。ヨーロッパの近代木版画の再興は日本版画の刺激によるところが大きかった(ジャポニスム)。リノリウム版linoleum print(リノカットlinocut)は板の代りにもともと床敷材のリノリウムを用いたもので,ピカソなどもつくっている。
→浮世絵 →木版画
(2)凹版 金属板に刻んだもので,まずビュラン(彫刻刀)で直接線刻する彫刻銅版画line engravingが15世紀前半にアルプスと北海にはさまれた地域の金工家の工房で生まれた。15世紀にはトランプ・カードの画家,E.S.の画家,ションガウアーらが南ドイツ,アルザス地方に現れ,イタリアではフィレンツェにポライウオロ,マンテーニャらが出る。バザーリによって最初の版画と考えられた,フィニグエラがつくったニエロ版はもともと版画を目的としたものではなく,金工品の線刻の図柄をはっきりさせるために刻線に埋める黒色の化合物ニエロからつけられた。これを紙に刷り写したものをニエロ版画と呼ぶが,数は少ない。彫刻銅版は16世紀にはデューラーらドイツの画家たちとイタリアのライモンディ,フランドルのファン・レイデンらによって技法的にも完成され,16世紀末から17世紀にかけて技法的な頂点を極める。しかし17~18世紀にはエッチングでほぼ全体を描き,顔面部など主要部分をビュラン彫りで仕上げる複合技法が盛んになり,おもに専門版画家の,したがって複製版画的な作品制作が大部分を占めることになった。
(3)エッチングetching 金属,主として銅板に線や面を腐食して版をつくる手法で,腐食銅版画といわれる。やはり16世紀初頭から行われたが,当初から専門版画家でない画家たちの比較的自由な作品を生み出している。16~17世紀にはイタリアのパルミジャニーノ,フランスのカロ(エショップéchoppeという道具で太細を自在につくれた),ベランジュ,フランドルのファン・デイク,オランダのレンブラント,スペインのリベラら,18世紀にはイタリアのティエポロ父子,カナレット,ピラネージ,フランスのロココの画家たちやスペインのゴヤ,19世紀にはフランスのバルビゾン派の画家たちやメリヨン,ブレズダンや,印象派のピサロ,ホイッスラーらが優れた作品を残している。日本で18世紀から19世紀にかけて司馬江漢,亜欧堂田善や安田雷州が行ったのもこの技法である。エッチングは元来鉄工芸家の工房で行われた技法であるらしく,デューラーらの初期の作品は鉄板になされた。のちには銅板に蠟の被膜をつくり,それを針で引っかき硝酸に浸して銅を腐食させるようになる。
(4)ドライポイント 彫刻銅版の一種であり,銅板を直接針で引っかいてつくられる。針で掘り起こされた銅の微細なめくれに付着するインキは刷られた刻線ににじみをつくる。このめくれは微妙なので数多い印刷では摩耗しやすいが即興的な制作が可能であるところから,とくに19世紀末近くのエルーのような達筆な版画家に好まれたし,15世紀後半の〈ハウスブーフ(家事書)の画家〉やデューラー,レンブラントなどの画家の版画家がしばしば行っている。メゾティントはドライポイント同様直接彫る手法だが,銅板面全体に縦横斜めにくまなく刻線をつけ(これで刷ると黒い面ができる),明るくする部分を削り磨き出してインキがのらないようにする。中間の調子も自由につくることができる。17世紀中期にオランダで活躍したドイツ人のジーゲンLudwig von Siegen(1609-80)が創始したといわれるが,デューラーやレンブラントも特別に意識しないで部分的にこの技法を用いている。メゾティントは白黒写真のように絵画の明暗の調子を確実に複製でき,18世紀のオランダとイギリスでことに流行した。アクアティントは松やにの粉(現代では砂糖なども)を防食剤として,水彩画的な画法が可能であり,18世紀中期のフランスのル・プランスJ.B.Le Prince(1734-81)によって考案された。このような種々の製版技法を混用することも多い。
→銅版画
(5)孔版(合羽版) 版に開けられた開口部から絵具を台材に付着させるもので,古くからの技法であり,版画の創成期から彩色法として用いられてきた。これをいっそう発達させたものがシルクスクリーンで,写真なども容易に利用できるために,近年急激にこの版画が増加してきた。
(6)リトグラフ 平版であるリトグラフはドイツのゼネフェルダーが発明し,石灰質の石板に油性クレヨンで描いたあと,アラビアゴムで加工して描かれていない部分に油性絵具をはじく被膜をつくり,印刷したもので,化学反応を利用したこれまでにない版形式である。石の代りに亜鉛板も用いられる。色刷製版も容易なので多くの画家が版画を制作するようになった。19世紀末以来の大型ポスター類もこれによっている。
執筆者:坂本 満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
印刷という間接的方法で表現する絵画の形式。本来は同一画像を複数得るためにくふうされたものだが、それぞれの技法の生み出す質感や効果のために制作されることも多く、また1点しか作品のできないモノタイプ版画monotype(油絵の具やインキでガラス板、金属板、石の板に図柄を描き、それに紙を伏せて刷り取ったもの)もある。近年は従来の版画の概念を超えた作品も多く生み出されており、その極端な例としては、鋳型を用いたものや、足跡、指紋、キス・マークによるものなどがある。版画は一般に木版画、銅版画、石版画のように版材によって記述されるが、あらゆるものが版材になりうるので、印刷形式によって凸版、凹版、平版、孔版の4種に分類するのが便利である。
[八重樫春樹]
もっとも古い版画の方法で、刷り出したい線や面を残して版面を彫り下げ、凸部にインキを塗って紙に刷る方法。木版、メタルカット、木口(こぐち)木版、リノリウム・カットなどがある。西洋では平圧印刷機で刷り出し、日本では馬連(ばれん)などで刷る。木の葉、布、木目のある板などにインキを塗って刷るフロッタージュも凸版法とみることができる。
[八重樫春樹]
銅板およびそれに準ずる金属板(鉄、鋼鉄、亜鉛)、セルロイド板などの表面を磨いてインキを拭(ふ)き取りやすくした版材に、ビュラン、針などで直接画像を刻むか、あるいはその表面に施した防食層を針で掻(か)き削るようにして画像を描き、これを酸で腐食する。この版にインキを塗って拭き取り、凹部(線、点の集まり)に残ったインキを紙に転写させる。
[八重樫春樹]
木版画や銅版画のように板面の凹凸を介して画像を刷り出すのではなく、平面上で水と油の反発しあう性質を利用した方法。石版画(リトグラフ)がこの方法によるが、今日では石板のかわりにアルミ板や亜鉛板を用いることもある。
[八重樫春樹]
刷り出す画像の部分を除いて目をふさいだ布、画像を切り抜いた油紙や渋紙を通して制作する版画。シルクスクリーン(セリグラフィ)、ステンシル、合羽(かっぱ)版などがこれに属する。
[八重樫春樹]
版画の誕生と紙の普及は深い関係にある。紙の製法がヨーロッパに伝えられたのは12世紀なかばとされるが、14世紀なかばまでには紙はかなり大量に生産されるようになっていたようである。ヨーロッパにおける版画は、まず14世紀の末ごろに木版画が出現し、ついで15世紀前半に銅版画が生まれた。初期の木版画は民衆芸術的な色彩が強く、聖地巡礼の記念品としての聖書の題材や聖像を表したもの、護符、ゲーム・カード、書物の挿絵などに用いられた。15世紀後半になると技術的向上がみられ、同期から16世紀初めにかけてドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーが木版画をきわめて高い芸術の次元に引き上げた。クラナハ(父)、アルトドルファーらがこれを受け継いだが、16世紀の末ごろには衰退してしまった。
凹版法による銅版画は、金工の領域からやや偶然に発明されたが、アルプスの北側と南側のどちらが先かはまだ確認されていない。もっとも早い年記のある銅版画は1446年のものである。金工師の技術領域からは、15世紀の初めに錫(すず)などの軟質の金属板にさまざまの鏨(たがね)で図像や装飾模様を打ち表し、凸版法で刷るメタルカットが生まれたが、銅版画の登場とともに廃れた。当時、木版画師は大工のギルドに属し、銅版画師はそれよりも地位の高い金工師のギルドに属した。
銅版画はごく初期から工芸的な美しさをもつものが多く、とりわけ上流階級を対象に制作された。初期の銅版画は、金工の道具の一つであるビュランで直接画像を彫るエングレービングであったが、ドイツのE(イー)・S(エス)の版画家(1450~1467年ごろ活躍)の作品や、フィレンツェの「精密技法」に、工芸的銅版画の粋をみることができる。15世紀後半には、イタリアのポライウオーロやマンテーニャ、北方ではションガウアーらの画家たちがエングレービングに手を染めるようになった。そして、銅版画の分野でも、これを絵画などに比べて遜色(そんしょく)のない格調高い芸術として完成させたのは、デューラーであった。16世紀前半はデューラーを中心に、エングレービングがもっとも隆盛を迎えた時代である。ドイツではクラナハ(父)、アルトドルファーら、オランダのルーカス・ファン・ライデンLucas van Leyden(1489/1498―1533)、イタリアのマルカントニオ・ライモンディMarcantonio Raimondi(1480/1482年頃―1524/1534年頃)らが、この時期の代表的銅版画家である。ライモンディは画家のラファエッロと提携してその下絵による版画を制作したが、こうした傾向は16世紀後半のマニエリスムの時代には一般的になる。エングレービングの技術も高度な発達を遂げた反面、芸術的独創性を失って絵画の複製のための技巧に堕した。
一方、エッチングは16世紀前半にすでにデューラーやアルトドルファーらによって試みられていたが、銅版の腐食に適切な酸の調合がまだみいだされていなかった。しかし、17世紀に入るまでにこの問題も解決され、とくに独創的な実験を重ねたヘルクレス・セーヘルスの後を継いだオランダのレンブラントは、エッチングの表現技術上の可能性を余すところなく活用し、数多くの名作を残した。エッチングはエングレービングに比べて線も自由に描けるうえに製版が著しく早く、即興的な制作さえ可能なので多くの画家たちが試み、17世紀から20世紀初めにかけての創作的版画の中心的技法となった。代表的なエッチャーとしては、17世紀はレンブラントのほかにオスターデ、ジャック・カロ、クロード・ロラン、18世紀ではピラネージ、ティエポロ父子、カナレット、ゴヤらがあげられる。ゴヤは、開発されてまもないアクアチントの技法を利して、『ロス・カプリーチョス』『格言』などの連作で劇的な明暗表現を生んだ。
一方、18世紀末にイギリスの詩人で素人(しろうと)画家のウィリアム・ブレイクが独創的な方法で数々の優れた版画を生んだが、その一つにディープ・エッチングの銅板を凸版刷りにした『ウリゼンの書』がある。17世紀の末ごろに乾式銅版画の新しい方法としてメゾチントが開発された。これは18世紀のイギリスで流行したが、19世紀前半のターナーによる『研鑽(けんさん)の書』の連作を除けば、おおむね絵画を複製するために用いられた。
19世紀に入ると、チョークやインキの素描の効果をほぼそのまま再現できるリトグラフの方法が画家たちに好まれ、創作版画のもう一つの方法となったが、エッチングも衰えず、コロー、ミレー、マネ、ドガ、ピサロ、ホイッスラーらの画家たちによって個性のある優れた作品がつくられた。アメリカ出身で印象派のグループに加わった女流画家のメアリー・カサットは、日本の浮世絵の効果をエッチングと多色アクアチントで模倣することに成功している。ドイツの画家マックス・クリンガーも感銘深いエッチングの連作を多数生んだ。
18世紀末のリトグラフの発明は版画史上の革命であったといえる。ゴヤとドラクロワは、この方法によって芸術性の高い作品を生んだ最初の画家であった。ドーミエは風刺画を中心に4000点ものリトグラフを残している。マネ、ドガ、ルノワールらの印象派の画家たちをはじめ、ブレダンRodolphe Bresdin(1822/1825―1885)、ホイッスラー、ルドンも優れたリトグラフの版画家であった。19世紀末ごろには多色刷りリトグラフが開発され、ボナール、ビュイヤール、ロートレックらがこれを十分に活用した。
19世紀末、ゴーギャンとムンクによって木版画の創造的生命が復活され、ドイツ表現主義の画家たち、とりわけキルヒナー、ヘッケルらの「ブリュッケ」(橋派)のグループに受け継がれた。
20世紀にはほとんどすべての画家が版画を試み、それぞれ特色のある作品を生み出しているが、最大の版画家はピカソであろう。彼はほぼあらゆる版画の技法を駆使して2000点余の作品を残したが、独創的なリノリウム・カットの開発は特筆に値する。また、エルンストらのフロッタージュの試み、長谷川潔(はせがわきよし)、浜口陽三(ようぞう)ら日本人によるメゾチントの復活、そして第二次世界大戦後におけるシルクスクリーンの流行は、版画技術史上注目すべきできごとであった。
日本では奈良時代(8世紀)に木版画が中国から伝来し、仏教信仰と関連して経文や図像などが彫られた。この技法は平安時代後期(12世紀)ごろから仏画や物語絵の下絵や料紙の装飾などに転用され、重要な美術的手段となった。そして、江戸時代の17世紀後期以降、浮世絵版画の流行に伴い急速な発達を遂げた。銅版画は16世紀後半にキリスト教伝来とともに渡来したが、これを試みた最初の画家は司馬江漢(しばこうかん)であった。
[八重樫春樹]
『J・アデマール、坂本満編・解説『パリ国立図書館版 世界版画』全16巻(1978~1979・筑摩書房)』▽『室伏哲郎著『版画事典』(1985・東京書籍)』▽『F・サラモン著、中川晃訳『版画の歴史とコレクション――デューラー、レンブラントからピカソまで』(1976・三彩新社)』▽『J・アデマール他著、幸田礼雅訳『版画』(白水社文庫クセジュ)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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木版・石版・銅版などで刷った画の総称。凸版・凹版・孔版がある。同一図様のものを大量に,しかも容易に制作できるのが最大の特徴。日本では布教のための宗教版画や,絵巻の下絵制作にも用いられた。日本最古の印刷物が法隆寺の百万塔におさめられた「陀羅尼(だらに)経」であることに象徴されるように,日本の版画のほとんどは木版画であった。浮世絵版画は墨摺(すみずり)から出発し,精巧な多色摺の錦絵(にしきえ)によってその頂点をきわめた。銅版画は江戸時代の後半,司馬江漢(しばこうかん)が日本ではじめて制作に成功した。版画は大量の複製制作の手段として用いられる以外に,それぞれの版画技法特有の効果をねらった芸術作品としても作られ,創作版画と総称される。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…そのためモザイク,ステンド・グラス,タピスリー(壁掛綴織),陶器,家具,什器などの装飾も,広い意味で絵画に属すると考えられることがある。また木版画,銅版画,石版画などの版画,あるいはその応用としての挿絵,ポスターなども,色と形による平面の造形芸術であるかぎり,絵画の一分野と考えられる。絵画の分類としては,画材,形式による分類のほか,主題による分類(歴史画,肖像画,風景画,静物画,風俗画等),社会的機能や役割による分類(宗教画,装飾画,記録画,教訓画等),地理的分類(イタリア絵画,フランス絵画,インド絵画等),歴史的流派や様式による分類(ゴシック絵画,バロック絵画,古典主義絵画,抽象絵画等)などがある。…
…それは垂直に上昇するのみならず,縦横に走り,斜めに横切って天井や支柱を自由にはいまわり,広大な堂内空間を一種の幻想郷へ仕立て上げる。線はまた版画や素描の表現手段でもある。ドイツ最大の画家とされるデューラーも,実は油彩画よりも版画によってこそ前人未到の世界を切り開いたのである。…
…中国において,板状の木に刀でえがいた形に角ばった切れ目を入れることを木刻といい,これを利用して版画にしたものを木刻画という。木刻画の歴史は非常に古く,現在わかりうる範囲では,イギリスの探検家M.A.スタインによって敦煌の莫高窟から発見された唐代の咸通9年(868)に印刷された《金剛般若波羅蜜経》の扉絵にある説法図とされている。…
※「版画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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