一七世紀中頃、江戸市街の拡大とともに、飲料水と防火用水を神田上水などに頼る従来の給水体制では不足をきたしたことから、多摩川の水を江戸へ給水する水路が庄右衛門・清右衛門を請負人として、開削された。承応二年(一六五三)四月に工事着工、同年一一月までに四谷
上水開削の功績により庄右衛門・清右衛門は幕府から玉川姓を許された。合せて水銀・水料の徴収を認められて上水の経営を請負った。水銀は武家方からは屋敷主の知行高に応じて徴収し、町方では町単位に町の表間口に応じて地主から徴収した。元文四年(一七三九)九月に玉川庄右衛門・清右衛門両家が役儀怠慢などを理由に水役を罷免されると、上水の管理は町年寄にゆだねられ、町奉行支配下での管理体制へと転換した。そして明和五年(一七六八)上水の管理が普請奉行に移されると、幕府による管理体制がいっそう整備された。一方、武家方や町方では水道組合が組織され、水銀や普請銀の徴収、給水区域内の樋・枡の普請・修復などにあたった。水量確認や濁水の流れ込みを防止する水門の管理、塵芥の取除きなどは、はじめ玉川家が羽村、
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江戸の上水道。武蔵野地方では四谷御上水とも呼んでいた。江戸の主要な上水道として玉川上水と神田上水があったが,神田上水は主として江戸の北部方面に配水され,玉川上水は南部方面に配水された。多摩川の水を引いたので玉川上水と呼んだが,取水口は羽村(はむら)(現在の東京都羽村市)にある。上水路は羽村から四谷大木戸(東京都新宿区)まで,およそ40km(《上水記》玉川上水野方堀通村々持場間数書付による)は開渠であるが,それから先,江戸城および江戸市中へは暗渠であった。開削は羽村から四谷大木戸までが1653年(承応2)で,四谷大木戸から江戸城虎の門前までは翌年であった。玉川上水は玉川庄右衛門,清右衛門の2名が請け負って開かれたとされているが,一説にはこの両名が工事に失敗し,そのあと,川越藩松平信綱の家臣安松金右衛門によって完成されたともいわれている。庄右衛門,清右衛門は玉川上水完成後,玉川の姓を与えられ,その経営を請け負った。玉川両家による玉川上水の経営は世襲されたが,1739年(元文4)に両家ともその役を罷免され,以後幕府が直営した。
また玉川上水は野火止(のびどめ)用水や千川(せんかわ)上水(西東京市~豊島区)はじめ途中の武蔵野台地の村々や江戸の南部に分水され,飲料水や灌漑用水に利用された。灌漑用分水の多くは18世紀前半の武蔵野新田開発期に開かれ,多摩川下流の灌漑用水の不足が心配されるほどであった。田中丘隅は《民間省要》で,武蔵野新田への分水がこの結果になることを指摘し,新田開発政策を批判している。江戸市中では神田上水とともに玉川上水が生活をささえる水として親しまれたが,水が市中に達するまでにかなり汚濁したようで,どぶの水にたとえられもした。玉川上水は最終的に東京の改良水道完成で1901年廃止され,水路は45年の淀橋浄水場(新宿区)廃止まで利用された。なお近年上水沿いの自然や史蹟的価値が見直され,通水保全が計画されている。
執筆者:伊藤 好一
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江戸の上水道。四谷御上水(よつやごじょうすい)ともよばれた。江戸の主要な上水道として、水系を異にする玉川上水と神田上水(かんだじょうすい)があったが、神田上水は主として江戸の北部方面に配水された。これに対して玉川上水は江戸の南部方面に配水された。水源は多摩川で、羽村(はむら)(東京都羽村市)で取り入れている。羽村から武蔵野(むさしの)台地を横切り、四谷大木戸(東京都新宿区)まで、およそ40キロメートル(『上水記』玉川上水野方(のがた)堀通村々持場間数書付による)は開渠(かいきょ)であるが、それから先、江戸城および江戸市中へは暗渠(あんきょ)であった。江戸への飲料水であったが、途中の武蔵野台地の村々へも野火止用水(のびどめようすい)など分水され、飲料水あるいは灌漑(かんがい)用水として利用された。上水路の開削は、羽村から四谷大木戸までが1653年(承応2)に、四谷大木戸から江戸城虎ノ門(とらのもん)前までがその翌年に完成した。これ以後は江戸の市中の配水路が次々に延長されていった。開削者については江戸町人とも多摩地方の農民とも伝えられる庄右衛門(しょうえもん)・清右衛門(せいえもん)の2人がよく知られているが、一説にはこの2名は工事に失敗し、川越(かわごえ)藩松平信綱(のぶつな)の家臣安松金右衛門によって完成されたとも伝えられている。庄右衛門・清右衛門は玉川上水完成後、玉川の姓を与えられ、その経営を請け負った。この請負は玉川両家で世襲されたが、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となった。1898年(明治31)東京に改良水道が完成したため、1901年(明治34)廃止。
[伊藤好一]
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江戸の上水道。多摩郡羽村で多摩川から取水し,四谷大木戸まで開渠(かいきょ)で通水。途中,武蔵野や江戸南部の村々の農業・生活用水や,青山・三田・千川上水を分水した。四谷大木戸からは,石樋によって四谷見付に至り江戸城内に導水されたが,寛文年間に町々への分水が許可され,四谷見付から木樋によって赤坂をへて京橋以南の江戸町中へ配水された。工事は,多摩郡の庄右衛門・清右衛門の2人が6000両で請け負い,1653年(承応2)着手。翌年,惣奉行松平信綱の家臣安松金右衛門により完成した。庄右衛門・清右衛門は完成後に経営を世襲したが,1739年(元文4)以後は幕府の直営。1901年(明治34)市内給水を廃止。
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…会津若松の天寧寺町では,1685年(貞享2)の〈天寧寺町風俗帳〉によると,家々の〈遣溝〉が西のほうにあるために,南側では東南に〈追垣〉して屋敷内に穴を掘り,これに下水をためているが,北側では東北に〈追垣〉して,〈遣い水〉は北西へ排水路をつけ,裏の小川へ流していた(《会津風土記・風俗帳》巻二)。農村でも武蔵国多摩郡小川村(現,小平市)では,飲料水として玉川上水の分水を屋敷の裏手に引き,下水路は,表通りの青梅街道の中央に1筋つくって,下水が用水路に流れ込まぬようにしていた。江戸では17世紀半ばの正保・慶安のころ,〈下水ならびに表の溝〉〈表裏の下水〉などの管理について,頻繁に町触が出されている。…
…【小林 三樹】
【日本の水道の歴史】
[江戸時代の上水]
近世城下町の経営には多かれ少なかれ,上水を供給することの配慮が払われた。江戸では1590年(天正18)に神田上水,1653年(承応2)に玉川上水が開かれ,江戸城下町の建設に伴う上水供給の計画が進められている。福井では芝原上水が1606年(慶長11)に竣工し,赤穂では赤穂水道が14年から16年(元和2)にかけて着工され,45年(正保2)の浅野氏の入部以後に,城下町の拡張に伴って整備された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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