王建(読み)おうけん(英語表記)Wang Jian

精選版 日本国語大辞典 「王建」の意味・読み・例文・類語

おう‐けん ワウ‥【王建】

高麗太祖(在位九一八‐九四三)。松岳開城)に生まれた。高麗王となり、九三五年新羅征服、九三六年には後百済を滅ぼし朝鮮全土を統一し、仏教国教とした。(八七七‐九四三

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デジタル大辞泉 「王建」の意味・読み・例文・類語

おう‐けん〔ワウ‐〕【王建】

[877~943]朝鮮、高麗こうらいの太祖。在位918~943。高麗王朝を建てたあと、935年、新羅しらぎを滅ぼして、翌年朝鮮半島を統一した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王建」の意味・わかりやすい解説

王建
おうけん
Wang Jian

[生]?
[没]太和4(830)?
中国,中唐の詩人潁川 (河南省許昌) の人。字,仲初。大暦 10 (775) 年進士及第,渭南 (陝西省) の尉となった。その後太府寺丞,秘書丞,侍御史を歴任して,太和年間に陝州 (河南省) の司馬となり,また辺境に従軍したこともある。韓愈門下で,白居易,劉禹錫とも交際があった。楽府 (がふ) にすぐれ,友人の張籍とともに「張王楽府」と称され,なかには人民の苦しみをうたった作もある。宮女の生活をうたった『宮詞』が特に有名。蜀の花蕊 (かずい) 夫人,宋の王珪 (おうけい) の宮詞と合せた『三家宮詞』がある。詩集『王建詩集』 (10巻) 。

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世界大百科事典 第2版 「王建」の意味・わかりやすい解説

おうけん【王建 Wáng Jiàn】

847‐918
中国,五代前の建国者。在位907‐918年。廟号は高祖。字は光図。許州舞陽(河南省舞陽県)の人。若いときは無頼の徒で,塩の密売などに従事し,〈賦王八〉とよばれていた。のちに忠武軍の兵卒ついで隊将となり,黄巣の討伐に参加。蜀に逃れていた唐の僖宗のもとに赴いて喜ばれ,観軍容使の宦官田令孜(でんれいし)(?‐893)の養子にされた。みずから求めて西川監軍となった田令孜に代わって,観軍容使となった楊復恭によって,四川の壁州刺史に任じられた王建は,亡命者などを糾合して勢力を築き,891年(大順2),成都によっていた西川節度使陳敬瑄と監軍の田令孜らを殺し,ついに唐から西川節度使に任ぜられた。

おうけん【王建 Wang Kŏn】

877‐943
朝鮮,高麗王朝の創始者,太祖。在位918‐943年。祖先についてははっきりしないが,松岳(開城)地方に一定の勢力基盤をもち,海上貿易にも関係していた家系らしい。新羅末期,反乱軍の一首領弓裔(きゆうえい)に帰順してその部下となった。弓裔の部将として早くから軍事的才能を発揮したが,特に水軍活動において目ざましく,後三国期に弓裔の後高句麗国が西南海の海上権を掌握できたのは,もっぱら彼の功績による。909年に海軍大将軍となり,913年には侍中(首相)となったが,専制君主弓裔が暴君と化するや,918年,弓裔を放逐した諸将の推戴を受けて年号を天授と定め,王位についた。

おうけん【王建 Wáng Jiàn】

?‐830?
中国,中唐の詩人。字は仲初。潁川(河南省)の人。大暦10年(775),進士に及第。官は陝州司馬に至った。韓愈と忘年の友の交わりを結んだ。友人の張籍とともに,楽府(がふ)体の詩にすぐれ,白居易らの新楽府運動と密接な関連をもつ。宮中の様子をうたった七言絶句〈宮詞〉100首を代表作とするが,民衆の生活に取材した作品も異彩をはなつ。《王建詩集》9巻が伝わる。【荒井 健】

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「王建」の解説

王建(おうけん)
Wang K&obreve;n

877~943(在位918~943)

高麗(こうらい)の太祖。京畿道松岳(開城)出身。新羅末に泰封(たいほう)国(901~918年,都は鉄原)を建てた弓裔(きゅうえい)の部将として活躍し,弓裔を追って高麗国を建国(918年),開城を都とした。新羅を併せ(935年),後百済(こうひゃくさい)を平定して朝鮮半島を統一(936年)。中国の五代諸国と通交し,諸制度を整え,仏教を保護し,西京(平壌(ピョンヤン))を設けて半島北西部を開拓するなど,高麗王朝の基礎を固めた。

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百科事典マイペディア 「王建」の意味・わかりやすい解説

王建【おうけん】

朝鮮の高麗(こうらい)王朝の創始者(太祖)。新羅(しらぎ)末期の動乱に挙兵,918年高麗を建国,開城に都した。935年新羅を合わせ,936年後百済(ごくだら)を滅ぼして半島を統一。官制を整え,仏教を保護し,王朝の基礎を確立。
→関連項目太祖

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旺文社世界史事典 三訂版 「王建」の解説

王建
おうけん

877〜943
朝鮮の高麗 (こうらい) の建国者。太祖(在位918〜943)
新羅 (しんら) 末期の動乱に挙兵した弓裔 (きゆうえい) の部将として名をなし,918年諸将に推されて王位につき,開城に都して国を高麗と号した。935年に新羅,936年に後百済 (こうひやくさい) を滅ぼして朝鮮半島を統一。仏教を国教として奨励した。

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世界大百科事典内の王建の言及

【蜀】より

…891‐925年。軍卒より身を起こした王建が四川に建てた国。王建は891年(大順2)に西川節度使となり,東川,山南西道,さらに荆南の一部をも併せて自立化を強め,907年(天祐4)に唐が滅ぶと,みずから帝位につき国号を蜀と号した。…

【前蜀王建墓】より

…中国,四川省成都市の西郊にある五代の前蜀王,王建の墓。永陵という。…

【宮詞】より

…風俗資料としても興味深い。8~9世紀,中唐の王建が宮詞100首を作って評判となり,以後ひとつの伝統となった。五代のとき蜀の王妃花蕊(かずい)夫人が,ついで北宋の王珪がやはり宮詞100首を作り,明末に王建と合わせ《三家宮詞》として刊行された(毛晋,汲古閣)。…

【開城】より

…しかし,国境の軍事的要塞地帯にあるため,大規模な工業は開発されず,休戦線以北の旧京畿道地域の1市3郡からなる開城地区の行政・教育の中心地として,各種の地方委員会と学校などが集中した地方都市となっている。
[歴史]
 新羅時代末に台頭してきた地方豪族,王建の根拠地であり,彼が高麗王朝を創建した翌年の919年から約470年間その王都として栄えた。北方に標高488mの松岳山があるところから松岳,松都等の名で呼ばれていたが,995年開城と命名され今日に至っている。…

【高麗】より

…後期は元の支配下で苦しむ中で反元運動が進展し,また次代をになうべき新進の官僚層が生まれた時期である。
[前期]
 高麗王朝をおこした王建は松岳(開城)地方の豪族で,初めは泰封の弓裔(きゆうえい)の部将として活躍したが,やがて弓裔を倒して王となり,高句麗の後継者であることを自任して国を高麗と号し(918),翌年,松岳を都にした。当時,新羅は慶州周辺で余命を保っただけであり,南西部は後百済が支配し,また諸方に豪族が割拠していた。…

【朝鮮】より

…ところが新羅の支配力が衰えはじめる9世紀になると,各地で豪族が台頭してくる。そして彼らは,後三国(新羅,後百済,後高句麗)の内乱期を経る中でいっそうの成長をみせるが,後三国を再統一して高麗王朝を立てた王建も,このような地方豪族の一人であった。王建は各地の有力な豪族と積極的に姻戚関係を結び,彼らの力を借りながら,全国を再統一したのである。…

※「王建」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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