中国,後漢の学者・文人。《漢書》の著者。字は孟堅。扶風安陵(陝西省咸陽市)の人。班氏には学問を愛し文才のある人たちが多く,また朝廷から下賜された書物が伝わっていた。《漢書》は父の班彪(はんぴよう)が《史記》の続編として書きすすめながら未完のままにのこした《後伝》をうけついで,明帝の援助のもとに本格的な執筆を開始し,20年の歳月を費やして章帝の建初年間(76-83)に完成。章帝時代にはもっぱら宮中において進講にあたり,また天下の学者たちが五経の文字の異同や解釈のちがいについて討議した会議の記録を《白虎通(びやつこつう)》としてまとめた。そのご皇后の兄の大将軍竇憲(とうけん)に目をかけられ,北匈奴討伐にも従軍したが,竇憲が失脚すると逮捕されて獄死をとげた。後漢の都の洛陽が前漢の都の長安にまさることをうたった《両都賦》をはじめとする数編の文学作品は《文選(もんぜん)》にとられている。班超はその弟,班昭は妹である。
執筆者:吉川 忠夫
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中国、後漢(ごかん)の歴史家。右扶風安陵(うふふうあんりょう)県(陝西(せんせい)省咸陽(かんよう)市)の人。前漢王朝の正史『漢書(かんじょ)』100巻を著す。父の彪(ひょう)(3―54)は、『史記』が武帝期で絶筆しており、その内容も粗略であったために『後伝』数十編を執筆したが、中途で死んでしまった。幼いときから作文や詩賦に才能を示していた固は、父の遺志を成就させるために著述に専念した。その行動を、国史を改作していると誤解した明(めい)帝から牢獄(ろうごく)につながれて書物を没収されてしまったこともあったが、弟の超(西域(せいいき)経営に活躍する人物)の弁明によって許された。以後蘭台令史(らんだいれいし)(宮廷の秘書、文書をつかさどる官)として『漢書』の編纂(へんさん)を続けた。妹の昭(しょう)も学者として名を知られ、固が61歳で完成直前に死去してしまった後を引き継いだ。儒学の面では選集した『白虎(びゃっこ)通義』があり、文学作品『両都賦』などがある。
[鶴間和幸]
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32~92
後漢の歴史家。陝西(せんせい)省咸陽(かんよう)県の人。班超(はんちょう)の兄。父班彪(はんひょう)の遺志を継いで,明帝(めいてい)の世に『史記』に続く前漢の通史『漢書』を完成した。和帝のとき匈奴(きょうど)征討に従軍したが,敗戦に連座して獄死した。
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…歴史故事に題材を求めた中国の詩。後漢の班固の《詠史詩》はその最も古いもので,前漢文帝の時代の孝女緹縈(ていえい)の物語を主題として感慨をうたう。6世紀初に編まれた《文選(もんぜん)》では,詩の一体として〈詠史〉の部を設け,王粲(おうさん)〈詠史詩〉,曹植(そうしよく)〈三良詩〉以下,21首の作品を収める。…
… さて文化のもう一つの特色の儒教主義は,武帝のときに儒教が国教化されたことによってもたらされたものであるが,儒教が浸透する後漢時代に入って顕著となる。班固の著した前漢一代の歴史《漢書》はその典型である。そこでは班固は,《史記》にはじまる紀伝体を模倣しながら,歴史観においては司馬遷の客観かつ自由な立場を否定し,徹底した儒教主義と前漢王朝を賛美する立場を強くうち出した。…
…その原因の一つは,秦に関する史料の性格に由来する。秦帝国について記述した歴史書の中で第一級の史料は《史記》および《漢書》であるが,この二つの正史はともに漢人である司馬遷,班固によって書かれたものである。漢は秦帝国の暴政を打倒することを大義名分として成立した王朝であるから,秦に対する評価は,当然厳しいものがある。…
…賈誼(かぎ)の〈鵩鳥(ふくちよう)の賦〉のごとく,人間の運命についての思索を重々しいスタイルで表現する。その二は記述的な賦で,その代表的作品は武帝の大庭園を描いた司馬相如(しばしようじよ)の〈上林の賦〉と長安・洛陽の都を描写した班固の〈両都の賦〉である。いずれも対句を多用し,きらびやかな文字をつらね,多数の事物を列挙して壮麗な大建築に似た構成を示す。…
…4巻。後漢の章帝のとき(79),詔勅をうけて多くの学者や大官が宮中の白虎観に集まり,五経の解釈をめぐって討論し,それを整理して編集したのは班固である。討論集会のきっかけは,今文学(きんぶんがく)(中心文献は《公羊伝(くようでん)》と《礼記(らいき)》)に対立する古文学(中心文献は《左氏伝》と《周礼》)の進出であった。…
…賦にはまた諷諭(ふうゆ)の機能が託されていたが,作者である宮廷文人たちには,君主への奉仕者という性格が強かったために,本来の意図が十分に生かされなかった。 後漢になっても,班固や張衡(ちようこう)のような賦の大家が現れた。班固の〈両都の賦〉,張衡の〈二京の賦〉は,ともに前漢の都長安と後漢の都洛陽をうたった壮大な規模の作品で,前者は4600字,後者は7000字を超える巨編である。…
※「班固」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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