滋賀県の約6分の1を占める約670平方キロの面積を持つ日本最大の湖。琵琶湖疏水や淀川水系を通じ、京阪神で飲料水などとして利用されている。約400万年前に誕生した古代湖で豊かな生態系が形成され、約1100種類の動植物が確認されている。県によると、特産品「ふなずし」の原料となるニゴロブナなど、琵琶湖にしか存在しない固有種が66種類生息するとされる。
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日本列島のほぼ中央に位置する日本最大の湖。県域の約六分の一を占めるこの淡水湖は、滋賀県に豊かな生活資源を供給するとともに畿内の経済を支えてもきた。また古代以来、列島の東と西、北と南を結ぶ一大交通網の中核的存在で、京に隣接する近江国を「天下の回廊」といわしめた。その意味で単に近江国の湖というにとどまらず、日本の歴史の主要な舞台としてあり続けてきたのであり、よくも悪くもそのことがまた近江の歴史的特質を決定づけているといえよう。近江の歴史は湖の国の歴史なのである。昭和二五年(一九五〇)わが国で初めての国定公園に指定された。
いつ頃から琵琶湖とよばれたのかはつまびらかではない。古代には近江の海、淡海、淡海の海、
という歌がある。人麻呂が荒れた都(近江大津京)をしのんで詠んだなかでは最も印象深く、また音の響きも美しい。「万葉集」にはほかにも高市黒人の歌をはじめ多く詠まれるが、「日本書紀」神功皇后摂政元年三月五日条には「淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤しも」の歌謡がみえる。「古事記」仲哀天皇段にも「いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖に 潜きせなわ」の歌謡をみるが、この鳰鳥はかいつぶりのことで、この鳥が湖面を賑わしていたのでのち湖の異称になったという。鳰の海を詠んだものには「千載集」の「我がそでの涙やにほの海ならんかりにも人をみるめなければ」(上西門院兵衛)のほか、「新古今集」「玉吟集」などにもみられる。
「続日本紀」養老元年(七一七)九月一二日条に「淡海」とあり、六国史でも淡海が公的な名称と考えられる。「山槐記」元暦二年(一一八五)七月九日条に「近江湖水流北」、「石山寺縁起」巻一に「水海」とあるが、この近江湖水または単に湖水とするのは江戸時代にもみられ、この呼称が長く通用していたようだ。ただ元禄期(一六八八―一七〇四)成立という「淡海録」に琵琶湖と明記され、東海道分間延絵図は近江湖水として注記し「一名琵琶湖」とするので、江戸中期までには琵琶湖の呼称はほぼ定着していたことになる。「輿地志略」によれば、これは詩人の命名ということになるが、応永二二年(一四一五)の年次を記す群書類従本「竹生島縁起」には「湖海者琵琶形也」とみえ、湖形が楽器に似るという認識を示している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県の中央部,近江盆地にある日本最大の淡水湖。カスピ海,バイカル湖などと並んで世界有数の古い湖である。面積674km2,湖岸線235km,湖面の標高85.6m,最大水深104m,平均水深41mで,冬季もほとんど結氷しない。南北に長く,南端から約16kmのところがくびれて最も狭く,ここに琵琶湖大橋(1964完成。大津市今堅田町~守山市木浜(このはま)町間,全長1.35km)がかかっている。これを境にして北の主湖盆を北湖,南の副湖盆を南湖と呼ぶ。北湖の北端近くに周囲2kmの竹生(ちくぶ)島がある。琵琶湖の名称はその形が楽器の琵琶に似ていることに由来するが,古くは〈鳰(にお)の海〉〈淡海(あわのうみ)/(おうみ)〉などと称された。なお,鳰はカイツブリの別称で,滋賀県の県鳥である。滋賀県は近世までの近江国全域にあたるが,その国名は〈遠淡海(とおつおうみ)〉(遠江(とおとうみ))に対して,都に近い〈近淡海(ちかつおうみ)〉がつづまって近江になったといわれている。また湖国とも呼ばれるように,琵琶湖は県の政治,経済,社会,文化の各面で重要な役割を果たしてきた。
琵琶湖の集水域は滋賀県域とほぼ一致し,野洲(やす)川,愛知(えち)川,安曇(あど)川などおもなものだけでも約120の河川が流入し,東岸は愛知川,日野川,犬上川などの堆積作用によって広い湖東平野を形成しているが,西岸は比良(ひら)山地がせまっており,安曇川の三角州以外は平野の発達が悪い。一方,流出する天然河川は瀬田川だけで,このため湖の周辺では水害を繰り返してきたが,1896年の大水害を契機に,1904年に南郷洗堰(なんごうあらいぜき)が建設され,琵琶湖の水位がようやく人工的に調節されることになった。また利水の面では,1890年に琵琶湖疎水(第1疎水),1912年に第2琵琶湖疎水が完成し,京都市に飲料水を供給するとともに,舟運,発電に利用されるようになった。大正期から昭和初期にかけて,大津,彦根,長浜などの湖岸に用水型の人絹,紡績などの繊維工場が立地した。琵琶湖の周辺には大小40余の内湖(ないこ)があったが,第2次大戦中,その大部分で食糧増産を目的とする干拓工事が始められた19。68年に完成した大中之湖(だいなかのこ)干拓地(1145ha)が最大で,当初は水田中心の大規模機械化農業が行われたが,最近になって酪農,肉牛肥育,花卉栽培など多角経営に転換した。近江盆地の農家は,長年,水田の水不足に悩まされてきたが,第2次大戦後,湖の周辺ではモーターで湖水を揚水し,逆流させて水田に灌漑用水を引く逆水灌漑が普及した。
琵琶湖に多くの固有の魚介類が生息しており,古くから漁業が盛んである。アユの稚魚は追叉手(おいさで)漁や四つ手網,簗(やな),魞(えり)などの昔ながらの漁法で漁獲され,アユ苗としてま全国の河川に放流されるまた西の湖や入江ではイケチョウガイを母貝とする淡水真珠養殖が行われており,米原市の県立醒井(さめがい)養鱒場ではマスが養殖されている。
琵琶湖の南湖の風景は,近世の東海道の旅人たちに強い印象を与えた。石山の秋月,瀬田の夕照,矢橋(やばせ)の帰帆(きはん),堅田の落雁(らくがん),粟津の晴嵐(せいらん),三井(みい)の晩鐘,唐崎(からさき)の夜雨,比良(ひら)の暮雪という〈近江八景〉が安藤広重の絵にも描かれ,広く世に喧伝された。しかし第2次大戦後,南湖周辺の急速な都市化によって,比良の暮雪を除いた残りの七景は昔日の面影を失い,観光資源としての価値を減じた。そこで1949年に,北湖も含めて新しく,夕陽--瀬田・石山の清流,煙雨--比叡の樹林,涼風--雄松(おまつ)崎の白汀,暁霧--海津大崎の岩礁,新雪--賤ヶ岳(しずがたけ)の大観,月明--彦根の古城,春色--安土・八幡の水郷,深緑--竹生島の沈影という〈琵琶湖八景〉が選定された。つづいて翌50年に琵琶湖国定公園に指定された。湖上にはヨットやモーターボートが白い航跡を残し,湖畔には保養・観光施設が多数立地していて,京阪神や中京方面からの観光客が多い。
琵琶湖は京阪神1300万人の〈水がめ〉であるが,戦後,水資源開発と湖およびその周辺地域の保全・整備のための総合開発計画が立案された。72年6月に琵琶湖総合開発特別措置法が制定され,91年までの20年計画で保全,治水,利水に関する22の事業が進められている。この総合開発事業によって,将来,淀川に毎秒最大40m3の新規利用水量を供給する予定である。戦後,とりわけ高度経済成長期から琵琶湖の富栄養化が顕著になり,水質の汚濁が目だつようになった。このため滋賀県は,80年7月に〈滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例〉(略称,琵琶湖条例)を施行し,工場排水,農業排水の排出規制に加えて,リンを含む家庭用合成洗剤の使用禁止に踏み切った。さらに県は84年7月,琵琶湖およびその周辺地域の自然景観,文化景観を保全するため〈ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例〉(略称,風景条例)を制定した。また同年8月に大津市で世界湖沼環境会議が開催され,国の内外から湖沼の研究者,行政担当者,地域住民が集まり,湖沼の環境問題が論じられた。
執筆者:井戸 庄三
琵琶湖はその前身の古琵琶湖の遺存湖ともいえ,それは近江・上野(伊賀)両盆地周辺の丘陵を構成するおもに湖成の古琵琶湖層群の将棋倒し構造から知られる。古琵琶湖層群の各累層は,湖から南東へ,立ち並べた将棋を押し倒した形に重なり,最古の鮮新世(約500万年前)の累層が上野盆地に分布する。これは,鮮新世に上野盆地で誕生した古琵琶湖の湖盆(沈降の中心)が,北西方向へ移動していくにつれて,元の湖盆の堆積物も順に陸化し,丘陵化が進んだことを示す。現在の南湖を含む湖南・湖東地域から約100万年前に,現在の北湖地域へ湖盆が移り,古琵琶湖の消滅=琵琶湖の誕生となる。琵琶湖の沈降は,沖島(沖之島)西方での現湖底の1400mボーリングで得えた800mに及ぶ砂泥質を主とした堆積物からも読みとれる。琵琶湖の成因は,湖盆の移動という地殻運動に基づくが,その機構は十分解明されていない。ちなみに琵琶湖の成因を断層陥没湖と根拠づけた湖岸沿い断層は,主活動期が約20万~30万年前で,琵琶湖の誕生後のものにすぎないと考えられる。また,3段の湖岸・湖底段丘は,さらにその後の氷河性海面変動にかかわる湖面変動の跡と思われるが,まだ解明されていない。
執筆者:新堀 友行
琵琶湖にはきわめて多くの生物種がすんでいる。魚は,他水域ではせいぜい20種程度であるのに対して,ここでは60種を超えるが,これは日本全体の純淡水魚の1/3以上である。貝に至っては日本全体の淡水貝の2/3以上,44種に達する。これは琵琶湖が世界有数の古い莅であり,また日本列島の中ではとび抜けて大きい水体で,しかもさまざまな環境条件の場所をもってきたからである。
大型動物を中心にみると,琵琶湖の生物相は基本的には中国大陸起源である。化石種を考慮に入れればこの傾向はいっそう著しくなる。この湖のまわりから西方の日本列島各地には,昔,現在は大陸だけにいる種(または近縁種)が広くすんでいた。それが他水域では絶滅してしまい,今では琵琶湖だけに残ってすんでいるものがいる。その典型例は草食魚のワタカである。そして,魚食魚のハス(福井県三方湖にもすむ),底生動物食のスゴモロコとデメモロコ(濃尾平野にも),数が減ったために天然記念物に指定されたアユモドキ(岡山県にも)もまた,近縁種ないし亜種が大陸に広く分布する。
一方,琵琶湖の中で分化した種もある。ニゴロブナとゲンゴロウブナ,ホンモロコ,ビワコオオナマズとイワトコナマズ,イサザがそれで,それぞれ日本各地に広く分布するキンブナ,タモロコ,マナマズ,ウキゴリから,琵琶湖の広い沖帯を利用すべく進化したものである。またビワマスはアマゴとはすでにかなり異なっているし,アユ,カジカ,ヨシノボリも琵琶湖にすむものと他水域のものとはいくらか違っている。これらは現在種分化の途中にあるものであろう。これも琵琶湖特産のセタシジミは,他の淡水域にすむマシジミとは反対に,雌雄異体で体外受精し,幼生は短期間ながら浮遊生活を送る。汽水にすむヤマトシジミから由来するものなのである。ただセタシジミは琵琶湖で生じたものではなく,大阪付近が淡水湖であった時代にそこで分化し,後の時代に琵琶湖へも移って,今はここだけに残ったものであることが,化石からわかっている。
北方地域起源の種もある。小型貝類のミジンマメタニシやミズシタダミは,近縁種がカムチャツカから北海道までの各地に広く分布したものが,琵琶湖の深底にひっそりと残ったものである。問題のあるのは甲殻類のカマカヨコエビやアナンデールヨコエビで,これの近縁種あるいは同種のものは北方海域の沿岸部だけに分布している。現在までの地質上の知見では,琵琶湖が海と直接連なったことはないとされているから,この分布は微妙な問題を提供する。
浮遊生物は100種足らずがすむ。この類はほとんどが世界中に広く分布するもので,各湖に特有の種は一般に少ない。だが琵琶湖はやや例外的で,多量に発生するケイ藻のStephanodiscus calconensisやMelosira solidaなどは,日本の他の湖にはまず,遠く北アメリカに分布するという。渦鞭毛藻類のCeratium hirundinellaは日本や世界の各地に分布するが,琵琶湖のものだけが形態を異にする。ミジンコのDaphnia biwaensisは固有種で,ホンモロコなどと同様に,広い沖帯を利用すべく沿岸帯に広く分布するD.pulexから,琵琶湖で分化したものである。
このように琵琶湖は,生物進化のいわば展覧会場である。これに並ぶ水域としては,シベリアのバイカル湖,アフリカのタンガニーカ湖,マラウィ(ニアサ)湖,クトリア湖程度であろう。だが最近の富栄養化ないし汚染の進行は,かなり憂慮すべきものである。ミジンマメタニシやカマカヨコエビは,最近では採集例がほとんどなくなっている。セタシジミも著しく減少し,代わってマシジミが増加している。人工河川がつくられたとはいえ,アユの将来を憂慮する声も高い。
執筆者:川那部 浩哉
〈淡海〉といわれ,国名にもなった琵琶湖の縁辺に住みついた海人(あま)について,羽原又吉,橋本鉄男は瀬戸内海から淀川水系を通ってきた系統および伊勢湾から鈴鹿をこえて入ってきた系統と,日本海から湖北に入ってきた系統とに分けて考えている。いずれにせよ,この湖に朝鮮半島から渡来した移住民が多数流入していることは間違いない。漁労はもとより舟運にも長じ,さらに製鉄などさまざまな技術をもつこの人々によって,琵琶湖には多彩な歴史と文化がくりひろげられていく。湖そのものは〈八十(やそ)の湊〉(《万葉集》)といわれたように,古くから北陸と畿内,淀川水系を結ぶ交通路であり,勢多(せた)津,比良湊,大津,塩津など多くの津・湊を経由する舟運がきわめて活発であった。
また漁労も網,釣りをはじめ魞(えり),筌(うけ),諸川における網代(あじろ),簗が用いられただけではなく,鳥の捕獲,鵜飼,さらに縁辺では鷹飼による狩猟も行われた。その中で早くから天皇家と結びついたのは,宇治網代,息長(おきなが)氏の根拠筑摩御厨(つかまのみくりや)/(ちくまのみくりや)で,天智天皇の設置という所伝をもつ筑摩御厨は大膳職に属し,その長は膳部から選ばれ太政官符によって補任(ぶにん)されており,魚,未醬などを貢献した。この御厨に属した調丁はおそらく湖の各所に根拠をもつ海民であったろう。延暦期(782-806)以降,筑摩御厨は内膳司に移属するが,9世紀には勢多・和邇(わに)両御厨,田上網代も天皇家に直属している。諸国の贄(にえ)貢進の弛緩に伴い,贄を確保しようとする内膳司,進物所,諸院諸宮は,883年(元慶7)の官符によると,これらの御厨,網代のほか,さらに多くの贄人をそれぞれに組織すべく競合し,土浪人に〈腰文幡(こしぶみばた)〉を与えたといわれている。しかし902年(延喜2)この動きを規制する御厨整理令につづいて,911年畿内5ヵ国と近江による〈六箇国日次(ひなみ)御贄〉の制が定められ,湖の贄人には近江の湖川において自由に漁労をしうる特権が保証された。贄人は元日料の鹿宍(かのしし),猪宍(いのしし)のほか,毎月の6・12・18・24・30の5日にキジ,ハト,ウズラ,カモ,タカベ,小鳥やコイ,フナ,アメウオ,エビなどの魚鳥を日次供御所(ひなみくごしよ),御雉所を経由して,内膳司,蔵人所(くろうどどころ)に貢進したが,これらの鳥は鷹飼いだけでなく海民によっても捕獲されたものと思われる。湖上の舟運もこのころにはさらに活発化し,敦賀から塩津,海津に入るルートのほかに若狭の気山,小浜から木津に出るルートもさかんに用いられ,堅田(かただ)にも渡しが見られる。
しかし延喜の贄貢進の体制は,11世紀後半以降また大きく転換する。1070年(延久2)筑摩御厨は停止され,このころまでに漁労,狩猟だけでなく,魚鳥の商人,廻船人として,京都をはじめ広域的に遍歴,交易を行うようになっていた贄人たちを,天皇家は供御人とし,諸国の自由通行権を保証して再組織していく。勢多御厨の流れをくむ粟津橋本供御人,御雉所に統轄された鷹飼すなわち雉供御人,少しおくれて湖北の菅浦(すがうら)供御人が湖で活動するようになるが,一方,大寺社もまた海民を独自に組織すべく競合し,延暦寺は大津,坂本を中心に借上(かしあげ)として各地に広く活動した日吉神人(ひえじにん)を組織,園城寺も大津に進出する。さらに鴨社(賀茂御祖神社)は78年(承暦2)堅田網人を堅田御厨供祭人とし,賀茂社(賀茂別雷神社)も90年(寛治4)までに船木浜に本拠を置き,安曇川に簗をかけた人々を安曇川御厨供祭人とした。これらの賀茂・鴨社供祭人は湖上の自由な交通,漁労などの特権を保証されたが,このほか,かつての筑摩御厨の贄人は日吉社,興福寺,野洲川の簗を打つ人々は三上社,兵主(ひようず)社,湖東に魞を置く海民は大島社,奥津社にそれぞれ結びつくなど,特権の保証を求めて海民たちは権門寺社の神人,寄人(よりうど)となっていった。
琵琶湖の中世は,こうした特権的な武装した職人的海民集団の廻船,漁労,狩猟,そして戦闘によって彩られるが,13世紀に入ると,湖辺の諸荘の荘民の漁労への進出による,これら特権的海民との網庭,簗場などの相論,職人的な海民相互の衝突が目だちはじめる。14世紀から15世紀にかけて大津,坂本,堅田,船木,奥島など,こうした特権的海民の根拠地につぎつぎと関が設定され,年貢・商品の輸送,廻船人の活動によって活気にあふれる湖上交通を統制するようになる。これらの諸関,さらには湖上交通の支配をめぐって,強力な力を及ぼす山門(延暦寺)をはじめ,天皇家,北条氏得宗,室町幕府などの間での競合がみられたが,その間にあって,廻船による山陰・北陸・東山道諸国に及ぶ交易活動を通じて有徳(うとく)になった堅田の人々は,湖の強力な水軍,海賊として南北朝の動乱にも活躍した。さらに関務の実質的掌握を通じて諸浦の船の通行を保証する上乗職を保持し,菅浦供御人など他の特権的海民をしだいに圧迫,16世紀には湖の覇者,琵琶湖の領主としての立場を固めていった。すでに15世紀,〈所〉の番頭--衆によって指導される堅田は小自治都市であったが,1468年(応仁2)の山門の大責による焼失後,〈切〉〈町〉を基礎に濠をめぐらし,〈堅田四方〉といわれた殿原衆,全人衆を含む全市民の自治がさらに強固に確立する。また安曇川の河口の中州に集住する殿原衆,百姓衆による〈四町場〉という町組を成立させた船木北浜,〈大門〉の間の湖辺に惣中が集住した菅浦も,堅田と同様の小都市ということができるので,大津,坂本はもとより,海津,塩津,長浜,粟津座の根拠地粟津,筑摩御厨の流れをくむ磯等々,琵琶湖縁辺には16世紀になると小都市が簇生(そうせい)したのである。堅田を盟主に一向宗を紐帯とする都市連合の生まれる形勢もみられたのであるが,織田信長,豊臣秀吉による一向一揆の弾圧はその道を完全に閉ざした。堅田はその自治をどうやら保ったものの,統一権力による湖上交通の支配確立とともに,1596年(慶長1)の検地によって,堅田をはじめこれらの小都市はみな〈村〉として位置づけられるにいたった。
1616年(元和2)堅田は江州諸浦を代表する〈諸浦の親郷〉として,海津,大津による船の独占を訴え,その過程を通して湖の〈親郷〉として,廻船・漁労上の特権をわずかに保ち,西の切猟師,漂泊漁民の面影をのこすといわれる小番城(こばんぎ)の釣猟師は,それぞれ近世を通じて,自由に湖上での漁猟をしうる特権を主張しつづけている。しかし船木北浜・南浜・横江浜,朝妻,和邇など中世の特権的海民の流れをくむ諸村も,伝統を背景とした漁猟特権を主張し,諸浦の地先の漁場の発展に伴い,堅田の特権も江戸時代後期に入れば衰退に向かっていく。
執筆者:網野 善彦
近世の琵琶湖水運に活躍した諸港には,湖東では八幡,米原(まいはら)があり,湖南の大津は最盛期を迎え,完全に港市化して繁栄を誇った。寛文年間(1661-73)に下関経由で直接大坂に入る西廻海運が開発されると,敦賀,琵琶湖経由の米は元禄・宝永期(1688-1711)ころ以降著しく減少し,享保期(1716-36)以降は年額10万俵を割る程度にもなった。このため大津の湖岸に建ち並ぶ幕府の御蔵や彦根領の佐和倉を除けば,米穀輸送の衰退は免れなかった。しかし大坂商人,近江商人の活動によって,米に代り,北海産の海産物やその加工品がその衰退を補った。上り荷としては米,大豆のほかに,松前の魚肥,身欠鰊(みがきにしん),棒鱈(ぼうだら),かずのこ,コンブ,塩鮭,塩鱈,加賀の木地類,輪島塗,高岡の銅器,富山の売薬など各地の特産物があり,下り荷には三河の生綿,美濃・尾張・近江の陶磁器,京坂・名古屋の呉服・太物(ふともの),美濃・近江のタバコ,茶,ミカンなどがあった。大津の湖岸に残る関の名をもつ数多くの船着場跡は中世以来のなごりであり,1929年まで続いた大津米穀取引所は小型の大坂堂島米市場といえよう。
彦根藩は領内三湊として松原(現,彦根市),米原,長浜を擁した。米原湊は江戸初期の新設で,中山道の番場宿に連絡する。《芦浦観音寺文書》によれば,1677年(延宝5)の丸子船(輸送船)所有数は大津,塩津で100艘をこえ,海津,今津,八幡,堅田に多い。1734年(享保19)膳所(ぜぜ)藩士寒川辰清が著した《近江輿地志略》では船数が一般に減って,塩津84,大津82となる一方,長浜が今津並みの67,松原32,米原28となっている。大津は豊臣秀吉から百艘船株の認許を得たが,その後停滞している。
現在の堅田には,1513年(永正10)の文書をはじ初め奥島沖州(琵琶湖東岸。神崎郡と思われる)に関する数巻,伊庭内湖(現在の大中之湖)の入口にある葭州での元禄年間(1688-1704)の漁猟権確認文書などが残り,湖上一円にわたったと称するかつての漁獲権の大きさを示している。しかしその他の史料は,西の切(網漁の中心地。現在はほとんど衰・滅転業)の大網・小網漁に関する1590年(天正18)以降のものや,釣猟師組に関する寛文年間以降のものがほとんどで,他浦との紛争文書は堅田の勢力がしだいに南西部に限定されつつあったことを物語っている。これに対し,大津尾花川などその他の村の漁師は豊臣政権のころ以後に,ようやく地元権として小漁業を営みえていたにすぎず,沖之島も島周辺ばかりを漁場としており,これは明治に至って専用漁場として認められた。琵琶湖水産の総生産量は明治以来著しい変化はないが,独特の小漁具によるものはしだいに影をひそめ,現在では人工放流に頼っているものも少なくない。
大津尾花川と堅田の百姓の間には,水田の肥料となる湖底の藻の採集権をめぐって紛争が起こっている。また愛知川尻をはじめ,栗見(現東近江市,旧能登川町),大久保新田(現大津市,旧志賀町)など湖岸一帯で小規模ながらも新田開発が行われ湖の面積が縮小した。また瀬田川下流の南郷洗堰の完成によって湖の貯水量が調節されるまでは,大雨によってしばしば沿岸低地部が被害を受け,各所にその時々の最高水位を示す名柱が残されている。堅田伊豆神社倉庫保管の史料にも和紙が水のため密着していて翻読の困難なものが少なくないほどである。
執筆者:喜多村 俊夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
滋賀県の中央部にある断層陥没湖で、日本最大の湖。世界有数の古い湖で、古琵琶湖は500万年ほど前に三重県伊賀上野付近で誕生し、その後の地殻変動によって北へ移動し、約120万年前にほぼ現在の位置に達したといわれる。一般的にいって、湖は長年の間に土砂の流入によって浅くなり、最後には湿地化してその寿命を終えることが多いが、琵琶湖の場合は、地殻の造盆運動によって基盤が沈降し続けている関係で長寿を保っているわけである。面積約674平方キロメートル、湖岸線延長約235キロメートル、湖面標高85メートル、最大水深103.8メートル、平均水深40メートル、容積275億立方メートル、集水面積3848平方キロメートル、長軸は長浜(ながはま)市西浅井町塩津(にしあざいちょうしおつ)と大津市玉野浦の間で63.5キロメートル、最大幅は長浜市下坂浜(しもさかはま)町と高島市新旭(しんあさひ)町の間で22.1キロメートル、最小幅は琵琶湖大橋付近で1.4キロメートルである。日本には最大水深100メートル以上の湖が10あるが、琵琶湖のみが地殻の変動によって形成された構造湖で、ほかはすべて火口の陥没によるカルデラ湖である。琵琶湖の面積は県の面積の約6分の1を占め、その集水域は県のほぼ全域と一致する。したがって、県内の河川、すなわち野洲(やす)川、日野川、愛知(えち)川、犬上(いぬかみ)川、姉(あね)川、安曇(あど)川などの125にも及ぶ一級河川(支流をも含めると約2000にも達する)は、すべて琵琶湖に注ぎ込んでいることになる。これに対して、琵琶湖からの流出口は瀬田川と琵琶湖疏水(そすい)のみで、この二つの流出口に水門を設けることによって、流量の制御が可能である。
琵琶湖は大きく二つに分けられる。野洲川の三角州を境とする北湖(主湖盆、太湖)と南湖(副湖盆)がそれである。北湖は平均水深約43メートルで透明度も7~10メートルの貧栄養湖であるのに対し、南湖は最大水深が4メートル、透明度も2~3メートルの富栄養湖という好対照を示す。また、かつては大中(だいなか)之湖や松原内湖などの内湖(付属湖)が湖岸に数多く存在していたが、第二次世界大戦中以後の干拓などによって大部分が消滅した。
[高橋誠一]
琵琶湖は、古くは、淡海(おうみ)、近江(おうみ)之湖、鳰の海(にほのうみ)(鳰はカイツブリの別名)などとよばれた。淡海は淡水湖を意味し、遠江(とおとうみ)国(静岡県、浜名湖)に対して、都に近い淡水の「近つ淡海の国」すなわち近江国の地名の起源ともなった。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の「淡海の海夕浪千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」(『万葉集』巻3)は有名。「琵琶湖」の名称がいつごろから一般化したかについては明らかではないが、楽器の琵琶に形が似ていることから名づけられたともいわれる。古来、『古事記』『更級(さらしな)日記』『東関(とうかん)紀行』『枕草子(まくらのそうし)』など多くの文学作品に記載され、また富士山とともに一夜にしてできたとの伝説もある。このように古くから親しまれてきた琵琶湖は、日本のほぼ中央部に位置していることもあって、歴史上も重要な役割を果たしてきた。湖底には縄文・弥生(やよい)時代の遺跡も発見されているし、また琵琶湖の水上交通は、古くから京、大坂と北国、東国を結ぶ交通手段で、近代に至るまできわめて重要であった。
[高橋誠一]
琵琶湖の水温は、夏季の最高が表面で約30℃、冬季の最低が約6℃であるため結氷しない。そのために、この湖の生物には固有種が多く、暖水・冷水両魚類が生息している。したがって、漁業は活発で、独特の漁法を生み出してきた。とりわけ、湖岸近くにみられる竹の簀(す)を張り巡らして魚類を追い込む魞(えり)漁は、琵琶湖の風物詩の一つともなっている。ゲンゴロウブナ、ホンモロコ、イサザ、コアユ、ハス、ワタカなどは特産種であり、琵琶湖でとれたコアユは全国各地の河川に放流される。また貝類の種類も多く、とくにイケチョウガイは淡水真珠の母貝として盛んに養殖されており、セタシジミも有名である。魚貝類だけでなく、湖岸に生育するアシ(ヨシ)もよしずなどの材料として利用されてきた。まさに琵琶湖は豊かな恵みの湖である。しかし、近年ではブラックバスなどの外来種の放流による固有種の減少が問題とされている。
[高橋誠一]
琵琶湖は自然の恵みに満ちあふれてきたが、同時に、それは美しい景観をも生み出してきた。山と平野と湖が季節のなかで示す移ろいは、「近江八景」や「琵琶湖八景」にも表現され、古来多くの旅人の心をとらえてきた。国定公園としては最初に指定された琵琶湖国定公園は、多様な自然のなかに湖中に浮かぶ竹生(ちくぶ)島の都久夫須麻(つくぶすま)神社など豊富な文化財をも有しており、わが国でも有数の観光地となっている。1958年(昭和33)開通した比叡山(ひえいざん)ドライブウェイをはじめとして、琵琶湖大橋、伊吹山(いぶきやま)ドライブウェイ、奥比叡ドライブウェイ、奥琵琶湖パークウェイや、近江大橋などが築造または開通し、湖上の観光船の就航などの観光開発も行われて、琵琶湖を訪れる観光客は年々増加している。また、水泳やヨットなどのスポーツの場としても利用されている。
[高橋誠一]
琵琶湖はよく「近畿の水がめ」といわれる。下流域の1300万人もの人たちの飲料水を供給しているわけで、これほど多くの人に恵みをもたらしている湖は、おそらく世界に例をみないであろう。飲料水だけではなく、工業・農業用水としても古くから利用されてきた。その反面、湖周辺は湖水の変動による洪水や渇水に悩まされてきた。したがって、琵琶湖の治水と開発をめぐって、さまざまな工事と計画が実施されてきたのである。近世から明治にかけての瀬田川の川ざらえ、1890年(明治23)琵琶湖疏水(そすい)の開通、1905年南郷洗堰(なんごうあらいぜき)の完成、1961年(昭和36)の新洗堰の完成などが、その代表的なものである。また、1972年には琵琶湖総合開発特別措置法が立法化され、利水、治水、保全を総合的に解決しようとする計画も進められている。しかし、琵琶湖を取り巻く情勢はなお厳しい。すなわち、かつては代表的な貧栄養湖であった琵琶湖が、1960年代の高度経済成長期を契機とする沿岸の都市化、工業化の進展によって、南湖は富栄養湖に転じ、北湖も富栄養湖へ移行しつつある。赤潮の発生などに象徴されるように、湖水の汚濁が急激に進みつつあるわけで、これに対して1979年には「琵琶湖条例」(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が制定されるなどの対策が講じられてはいるものの、抜本的な解決にはほど遠い現状である。なお、1984年大津市で世界湖沼環境会議が開かれ、世界湖沼年の設定などを内容とする「琵琶湖宣言」が採択された。1993年(平成5)には、ラムサール条約登録湿地となった。同年には公益法人「琵琶湖・淀川水質保全機構」が設立されている。さらに1999年から2020年までの長期にわたり、琵琶湖の保全整備計画(マザーレイク21計画)が推進されている。なお、琵琶湖に関する文化・研究施設には、琵琶湖博物館(草津市)、琵琶湖環境科学センター(大津市)、琵琶湖水鳥・湿地センター(長浜市)などがある。
[高橋誠一]
『千賀浩一著『琵琶湖文学散歩』(1973・新短歌社)』▽『滋賀大学湖沼研究所編『びわ湖Ⅰ・Ⅱ』(1974・三共出版社)』▽『滋賀地学研究会編『生きている化石湖』(1977・法律文化社)』▽『藤岡謙二郎編『びわ湖周遊』(1980・ナカニシヤ出版)』▽『琵琶湖編集委員会編『琵琶湖』(1983・サンブライト出版)』▽『橋本鉄男著『琵琶湖の民俗誌』(1984・文化出版局)』▽『鈴木紀雄著『琵琶湖のほとりから地球を考える』(1992・新草出版)』▽『『湖人――琵琶湖とくらしの物語』(1996・滋賀県立琵琶湖博物館開館記念誌編集委員会)』▽『今森洋輔著『琵琶湖の魚』(2001・偕成社)』
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…これも一因となって権力の動揺した仲麻呂は,体制立直しの拠点を近江国に求めたが,近江を主戦場とする戦いの末打倒された。 琵琶湖における湖上交通の発達は他国にない特色である。《万葉集》に〈近江の海湊(みと)は八十あり〉と詠まれるように,塩津(伊香郡西浅井町),阿渡水門(あどのみなと)(安曇川河口),夜須潮(やすのみなと)(野洲川河口)その他の多くの港津があった。…
…面積=4017.36km2(全国38位)人口(1995)=128万7005人(全国31位)人口密度(1995)=320人/km2(全国18位)市町村(1997.4)=7市42町1村県庁所在地=大津市(人口=27万6332人)郷土の花=シャクナゲ 県木=モミジ 県鳥=カイツブリ近畿地方の北東部に位置する内陸県で,東は岐阜県,西は京都府,南は三重県,北は福井県に接し,県央に琵琶湖をかかえる。面積,人口ともに全国のほぼ1%にあたるので〈100分の1県〉といわれる。…
…
[日本]
淡水の湖は,古くは〈淡海(あふみ)〉と呼ばれた。琵琶湖は〈鳰(にほ)鳥のあふみのうみ〉などとうたわれ,そこから国名の近江(おうみ)が生まれたという。また琵琶湖に対してより遠い浜名湖を〈遠淡海(とほつあふみ)〉とよび,遠江(とおとうみ)の国名はこれに由来するという。…
※「琵琶湖」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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