産児制限(読み)サンジセイゲン

デジタル大辞泉 「産児制限」の意味・読み・例文・類語

さんじ‐せいげん【産児制限】

社会的、経済的、また母体保護などの医学的理由から、人為的手段によって受胎または出産の制限や調節を行うこと。サンガー夫人らの提唱で始まった。産児調節。産制。バースコントロール

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精選版 日本国語大辞典 「産児制限」の意味・読み・例文・類語

さんじ‐せいげん【産児制限】

  1. 〘 名詞 〙 社会的、経済的、医学的理由などのために、人為的手段によって受胎または出産を制限したり調節したりすること。アメリカのM=サンガー夫人が一九一四年に提唱し、日本では、大正七~八年(一九一八‐一九)に安部磯雄山本宣治などがこの運動を開始した。産児調節。産制。バースコントロール

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改訂新版 世界大百科事典 「産児制限」の意味・わかりやすい解説

産児制限 (さんじせいげん)

M.サンガーが提唱したバース・コントロールbirth controlの訳語で,人為的に妊娠を避け,あるいは人工妊娠中絶などによって人口を制限することをさす。ただ人口を減少させるのが目的ではなく,人間文化の発展につれて自分の境遇を自分の手で変えていく一つの方法として重要な意義がある。家族にとって望ましいときに子どもが生まれてくるよう,妊娠,分娩に計画性を持たせることを家族計画といい,避妊などにより妊娠の時期を調節することを受胎調節というが,産児制限と必ずしも厳密に使い分けられてはいない。マルサスは《人口論》(第2版,1803)で,過剰人口,貧困の解決策として道徳的抑制すなわち結婚の延期と禁欲による人口の制限を提唱している。これから約20年後にF.プレース新マルサス主義マルサス主義)を説いた。マルサスの人口論を認め制限法として人為的方法を用いようというものである。新マルサス主義が産児制限運動の起点となり,避妊の組織的教育をとおして多くの人の関心を得た。その後産児制限運動に尽力した人は多いが,サンガーの活動は大きい。1910年ころからニューヨークで活動を始め,投獄などの弾圧を受けたが産児制限の宣伝指導,合法化のための運動を続け,36年,連邦控訴裁判所の避妊用品の輸入を認める判決を得るに至った。サンガーの運動は貧しい女性を救うための女性解放運動としての性格をもっていた。第2次世界大戦後は,食糧不足と失業者の増大に直面した日本をはじめ,中国,インドなど政府が産児制限を推進する例が多くなった。近年は食糧不足に悩む発展途上国での取組みが目だつ。

20世紀初頭に新マルサス主義が日本に紹介されたが産児制限運動にはつながらなかった。1918,19年ころ安部磯雄山本宣治その他の進歩的社会運動家が日本文化進展のため産児制限の必要を説き,また当時神戸の貧民街で救療に従事していた馬島僴(かん)(1893-1969)は医療救済の観点からこの運動を始めた。アメリカ留学中にサンガーを知った石本(のちの加藤)シヅエも帰国,紹介した。22年サンガーが来日したが官憲によって妨害され,社会問題として大きな話題となった。翌23年関東大地震が起こり,その救済事業とともに,欧米留学中に具体的医学的な産児制限方法を学んで帰った馬島がその宣伝を開始し,野尻興顕もこれに参加,小川隆四郎は妊娠中絶用の薬品器具を販売し,全国にこの堕胎方法が知られ問題になった。山本宣治らは25年から《産児調節評論》誌を刊行。避妊方法を主体とする運動は,馬島が愛児女性協会を設立した26年以降全国に知られるようになった。昭和初年から婦人社会運動家たちが参加し,多くの文筆人も賛成しはじめ,日本の過剰人口問題は社会問題に関心をもつ者の課題となった。官僚陣では東京市第一助役白上佑吉が最初に産児制限の必要性を説き,また東京市社会局長安井誠一郎はその実施案を作った。当時の日本では大陸進出や移民の問題が叫ばれ,それに呼応して軍国主義が強く台頭し,満州事変(1931-32)による大陸侵略が成功すると,人口増殖説が勢いを得つつあった。こうした風潮の中に産児制限運動に対する圧迫は加重し,34年馬島は堕胎ほう助容疑で検挙された。政府は1927年以来,調査会・研究会を設け,さらに39年には厚生省に人口問題研究所を置いて,人口過剰の問題に当たってきたが,満州事変から日中戦争へと進展すると,41年人口増強政策を打ち出した。〈生めよふやせよ〉運動の中で産児制限論は完全に日本からしめ出され,第2次世界大戦の渦中にまきこまれていった。

 敗戦とともにいち早くふたたび産児制限の声を上げたのは加藤シヅエで,これをスローガンとして政治運動を開始した。そして47年には日本産児調節連盟が結成されて全国的な活動を展開し,地方自治体の中でも神奈川,岡山,福岡,茨城などがこの運動を取り上げ,群馬,栃木,青森,秋田等々には官民の活動が盛んになった。53年には諸団体の統合機関として日本家族計画連盟が結成され国際家族計画連盟に加盟した。それよりさき優生保護法(1948制定,1997年改正で母体保護法と改称)に49年の改正で受胎調節の実施指導に関する規定が加えられたが,51年には受胎調節普及対策を実施することが閣議で決定された。世界で政府みずから産児制限を取り上げたのは日本がはじめである。さらに,優生保護法の2度の改正(1949,52)によりついに妊娠を中絶する処置すなわち堕胎が合法化された。どの先進国でも純粋に生理医学的な理由で妊娠を中絶することは合法とされているが,他の社会的経済的理由では堕胎処置をすることは禁じられているし,日本もその例外ではなかった。しかし敗戦後の日本経済の実情と日本政治の民主化とは,妊娠を本人の意志にまかせるべきであるとして,家庭や自分自身が出産を希望せず,貧困を恐れる者には妊娠中絶を行う自由を与えたのである。55年ころから,政府の受胎調節普及は,生活困窮者に対する普及に重点が置かれるようになり,その後,児童福祉,母子保健の観点からの家族計画指導に移っている。
人口 →避妊
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の産児制限の言及

【家族計画】より

…家族全員の幸福のために,家族にとって最も適当な数の子どもを,最も適当な時期に適当な間隔で出産するように,妊娠,分娩に計画性をもたせること。単なる産児制限とは異なり,家族計画は〈生まれてくる子どもは,すべて望まれた子どもでなければならない〉という基本理念から出発している。家族計画family planningということばは,大恐慌以後の1930年代から欧米諸国で好んで使われるようになったが,その際にも産児制限(バース・コントロール)の技術より,それを実践する生活態度が強調されていた。…

【サンガー】より

…アメリカの産児制限運動指導者。看護婦学校を終了,結婚し3児をもうけた後,1910年ごろからIWWの労働運動などにたずさわった。…

【ストープス】より

…イギリスの産児制限論者。ロンドン大学で科学学士号,ミュンヘン大学で博士号(植物学)を取得後,マンチェスター大学の講師となる。…

【避妊】より

…避妊は医学的には〈受胎調節〉と呼ばれることが多く,社会制度上も母体保護法に受胎調節実施指導員の規定がある。似た言葉に〈産児制限〉〈家族計画〉がある。産児制限birth controlの語はかつてよく用いられたが,出産の制限をするというよりも受胎を制限することが目的であり,また〈制限〉の語感には抵抗もあることから,受胎調節の語が用いられるようになった。…

※「産児制限」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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