田中絹代(読み)タナカキヌヨ

デジタル大辞泉 「田中絹代」の意味・読み・例文・類語

たなか‐きぬよ【田中絹代】

[1909~1977]映画女優。山口の生まれ。少女時代からスターの地位を確立、晩年まで第一線にあった。監督としても活躍。出演作「愛染かつら」「西鶴一代女」「サンダカン八番娼館・望郷」など。

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精選版 日本国語大辞典 「田中絹代」の意味・読み・例文・類語

たなか‐きぬよ【田中絹代】

  1. 映画女優。山口県下関生まれ。日本初のトーキーマダムと女房」に出演以来、「伊豆の踊子」「愛染かつら」をはじめとして、第二次大戦後の「西鶴一代女」「雨月物語」など数多くの映画に出演した。明治四二~昭和五二年(一九〇九‐七七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中絹代」の意味・わかりやすい解説

田中絹代
たなかきぬよ
(1909―1977)

女優。映画監督。明治42年12月29日、山口県下関(しものせき)市生まれ。筑前琵琶(ちくぜんびわ)の宮崎錦城(きんじょう)に弟子入り、大阪の小学校を中退して琵琶少女歌劇団の舞台に立つ。1924年(大正13)、14歳で松竹下加茂(しもかも)撮影所に入社。『元禄女(げんろくおんな)』の腰元役でデビュー。1925年、松竹蒲田(かまた)撮影所に移り、1927年、五所平之助(ごしょへいのすけ)の『恥(はずか)しい夢』の芸者役で好評を得る。1928年、牛原虚彦(うしはらきよひこ)(1897―1985)監督・鈴木伝明(でんめい)(1900―1985)主演の『近代武者修行』に出演、好評につき『感激時代』『陸の王者』(1928)などに連続出演し、虚彦、伝明、絹代のゴールデン・トリオの人気を不動のものとする。五所平之助の『村の花嫁』(1928)、小津安二郎(おづやすじろう)の『大学は出たけれど』(1929)などで蒲田映画のスターとなる。本邦初の本格的トーキー『マダムと女房』(1931)では、その声でファンを魅了する。1935年(昭和10)には、島津保次郎(やすじろう)の『春琴抄(しゅんきんしょう)・お琴と佐助』で、新境地を開く。1938年、野村浩将(ひろまさ)(1905―1979)の大ヒット作『愛染かつら』のヒロインを演じ、国民的女優となる。1940年、『浪花女(なにわおんな)』で初めて溝口健二作品に主演、女優として開眼する。第二次世界大戦後は、溝口の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)、『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)、『山椒大夫(さんしょうだゆう)』(1954)などで、円熟の極みに達する。小津、成瀬巳喜男(なるせみきお)、五所、木下恵介(けいすけ)など、多数の大物監督の映画に出演。1953年『恋文』で監督デビュー、6本の監督作を残す。昭和52年3月21日、死去。享年67歳。

[坂尻昌平]

『田中絹代他著『女優の運命――私の履歴書』(2006・日本経済新聞社)』『石割平編著・円尾俊郎編『田中絹代――日本の映画女優1』(2008・ワイズ出版)』『伊良子序著『昭和の女優――今も愛され続ける美神たち』(2012・PHP研究所)』『新藤兼人著『小説 田中絹代』(文春文庫)』『古川薫著『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫)』

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「田中絹代」の解説

田中 絹代
タナカ キヌヨ


職業
女優 映画監督

生年月日
明治42年 11月29日

出生地
山口県 下関市

経歴
呉服屋を営む家に、8人兄姉(4男4女)の末娘として生まれるが、2歳の時に父を失う。幼い頃から筑前琵琶の手ほどきを受け、13歳で大阪に出て少女琵琶歌劇団の女優となる。やがて映画女優を目指すようになり、大正13年松竹大阪支店長・井上重正に招かれて、松竹下加茂撮影所に入所、野村芳亭監督「元禄女」で映画デビューを果たした。続いて同年の清水宏監督「村の牧場」で早くも主演に抜擢。14年同社蒲田撮影所に移ってからは島津保次郎監督「勇敢なる恋」を皮切りに五所平之助監督「恥しい夢」「絹代物語」「銀座の柳」「伊豆の踊子」「人生のお荷物」、小津安二郎監督「大学は出たけれど」「東京の女」「非常線の恋」、野村監督「婦系図」、島津監督「お琴と佐助」など数多くの作品に出演し、純情可憐な娘を好演して同社の看板スターとしての地位を確立した。この間、昭和6年には我が国初のトーキー映画となる五所監督「マダムと女房」で主演を務め、甘ったるいような声で全国の映画ファンを魅了。さらに13年上原謙と共演した野村浩将監督による恋愛メロドラマ「愛染かつら」は戦前の日本映画最大のヒットとなり、その後4本の続編が製作された。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し、木下恵介監督「四谷怪談」「楢山節考」、小津監督「風の中の牝鶏」「宗方姉妹」、成瀬巳喜男監督「おかあさん」「放浪記」、小林正樹監督「まごころ」、五所監督「煙突の見える場所」、家城巳代治監督「異母兄弟」、市川崑監督「おとうと」「太平洋ひとりぼっち」などで名演技を見せた。特に溝口健二監督と組んだ「女優須磨子の恋」「わが恋は燃えぬ」「お遊さま」「武蔵野夫人」「雨月物語」「山椒太夫」といった作品にすぐれたものが多く、同監督が彼女のために温めてきた企画であった27年の「西鶴一代女」はベネチア国際映画祭国際賞に輝いた。28年新東宝製作の「恋文」で監督に挑戦して日本における本格的な劇映画の女流監督第一号となり、以後、小津安二郎の脚本を得た29年の「月は上りぬ」や、癌に冒された女性歌人を描いた30年の「乳房よ永遠なれ」をはじめとして「流転の王妃」「お吟さま」などを監督。女優業としても、老年に至ってますます円熟味を加え、49年の熊井啓監督「サンダカン八番娼館・望郷」では元からゆきさんの老婆を慈味豊かに演じて、50年ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。テレビの主な出演作に、「樅の木は残った」「前略おふくろ様」、「雲のじゅうたん」(ナレーション)など。我が国の映画史上最大の女優といわれ、没後、従弟の小林正樹監督の尽力で田中絹代賞が設立された。昭和初年、映画監督の清水宏と結婚したが間もなく離婚した。蒲田から大船に撮影所が移転すると鎌倉に家を構え“絹代御殿”と呼ばれた。平成22年出身地の下関市に、旧逓信省下関電信局庁舎をリニューアルして田中絹代ぶんか館がオープンした。

受賞
芸術選奨文部大臣賞〔昭和49年〕 紫綬褒章〔昭和45年〕,勲三等瑞宝章〔昭和52年〕 キネマ旬報賞主演女優賞(昭和33年度・49年度),ベルリン国際映画祭最優秀女優賞〔昭和50年〕「サンダカン八番娼館・望郷」 毎日映画コンクール主演女優賞(昭和22年度・23年度・49年度),毎日映画コンクール助演女優賞(昭和32年度・35年度)

没年月日
昭和52年 3月21日 (1977年)

親族
従弟=小林 正樹(映画監督)

伝記
田中絹代今ひとたびの戦後日本映画花も嵐も―女優・田中絹代の生涯人物・松竹映画史―蒲田の時代小説 田中絹代 石割 平 編・著,円尾 敏郎 編川本 三郎 著古川 薫 著升本 喜年 著新藤 兼人 著(発行元 ワイズ出版岩波書店文芸春秋平凡社文芸春秋 ’08’07’04’87’86発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「田中絹代」の意味・わかりやすい解説

田中絹代 (たなかきぬよ)
生没年:1910-77(明治43-昭和52)

映画女優。平凡な容貌と芯の強さを感じさせるけなげなイメージがそのまま個性となって,おそらく日本映画ではもっとも長く人気を保持した女優である。山口県下関に生まれ,14歳で松竹蒲田撮影所に入社。出世作《恥しい夢》(1927)からファンの人気を一身に集めたヒット作《絹代物語》(1930)をへて,日本映画における最初の本格的トーキー《マダムと女房》(1931),川端康成原作の《伊豆の踊子》の最初の映画化(1933)等々に至る五所平之助監督作品を中心に,《感激時代》(1928)から《山の凱歌》(1929)に至る鈴木伝明主演,牛原虚彦監督による青春スポーツ編や,《大学は出たけれど》(1929)から《落第はしたけれど》(1930)に至る小津安二郎監督作品,トーキー最初の《金色夜叉》や《忠臣蔵》(ともに1932)をへて《私の兄さん》(1933)に至る林長二郎とのコンビ作品などを通して,〈明るくあたたかく未来を見つめる〉蒲田映画のシンボルとなり,〈蒲田の誇り〉とまでたたえられ,スター女優第1号の栗島すみ子を抜いて松竹蒲田の看板スターになる。早慶戦の花形選手だった慶応の名三塁手・水原茂とのロマンスをうたわれ,次いで谷崎潤一郎の小説《春琴抄》の最初の映画化で島津保次郎監督による《お琴と佐助》(1935)で〈演技開眼〉して新境地をひらき,〈すれちがいメロドラマ〉ということばまで生み出した大ヒット作《愛染かつら》三部作(1938-39)で人気の頂点に達した。その後,〈洋装の似合う〉高峰三枝子,桑野通子,高杉早苗の〈近代娘〉三人にスターの座を譲るが,第2次世界大戦後は《夜の女たち》(1948)から《西鶴一代女》(1952),《雨月物語》(1953),《山椒太夫》(1954)等々に至る溝口健二監督作品を中心に,日本の母親を演じた成瀬巳喜男監督《おかあさん》(1952)や,中年女の役を演じた五所平之助監督《煙突の見える場所》(1953)や姥捨山に捨てられる老母を演じた木下恵介監督《楢山節考》(1958)等々を通して,〈演技派女優〉として活躍し,数々の名作を残した。熊井啓監督《サンダカン八番娼館・望郷》(1974)で1975年ベルリン映画祭主演女優賞を受賞,日本の数々の映画賞も独占した。《恋文》(1953)で監督としてもデビュー。その後も《月は上りぬ》《乳房よ永遠なれ》(ともに1955),《女ばかりの夜》(1961)などの監督作品がある。映画監督の小林正樹は彼女のまたいとこに当たる。新藤兼人による《小説田中絹代》がある。
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20世紀日本人名事典 「田中絹代」の解説

田中 絹代
タナカ キヌヨ

昭和期の女優,映画監督



生年
明治42(1909)年11月29日

没年
昭和52(1977)年3月21日

出生地
山口県下関市

主な受賞名〔年〕
毎日映画コンクール主演女優賞(昭22年度 23年度 49年度),毎日映画コンクール助演女優賞(昭32年度 35年度),キネマ旬報賞主演女優賞(昭33年度 49年度),紫綬褒章〔昭和45年〕,芸術選奨文部大臣賞〔昭和49年〕,ベルリン国際映画祭最優秀女優賞〔昭和50年〕,勲三等瑞宝章〔昭和52年〕

経歴
幼い頃から琵琶を習い、13歳で大阪に出て、少女琵琶歌劇団の女優となる。大正13年松竹下加茂撮影所に入所、「元禄女」で映画デビュー。昭和2年「恥しい夢」に主演。24年まで松竹に籍を置き、以後フリー。この間、わが国初のトーキー映画「マダムと女房」や「伊豆の踊子」「愛染かつら」、戦後は「お遊さま」「西鶴一代女」「おかあさん」「雨月物語」「山椒大夫」「異母兄弟」「楢山節考」「おとうと」など約300本に出演し、大スターとして活躍。戦後は演技派に脱皮、特に溝口健二監督の作品にすぐれたものが多い。28年には「恋文」で監督としてもデビューし、「月は上りぬ」「乳房よ永遠なれ」などを撮る。老年に至ってますます円熟味を加え、49年の「サンダカン八番娼館・望郷」では元からゆきさんの老婆を慈味豊かに演じて、50年ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。わが国の映画史上最大の女優といわれ、田中絹代賞が設立されている。

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百科事典マイペディア 「田中絹代」の意味・わかりやすい解説

田中絹代【たなかきぬよ】

映画女優。下関生れ。1924年松竹に入社,1931年日本最初のトーキー映画となった五所平之助監督《マダムと女房》に主演する。親しみやすい容姿と個性とで純情派のスターとなり,《伊豆の踊子》(1933年),《愛染かつら》三部作(1938年―1939年)等に出演。戦後は溝口健二監督《西鶴一代女》(1952年)等で充実した演技を示し,晩年に熊井啓監督《サンダカン八番娼館・望郷》(1974年)でベルリン映画祭主演女優賞を受賞した。監督としても作品を残し,《恋文》(1953年)ほかがある。
→関連項目雨月物語(映画)佐田啓二山村聡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田中絹代」の意味・わかりやすい解説

田中絹代
たなかきぬよ

[生]1910.11.29. 山口
[没]1977.3.21. 東京
映画女優,監督。 1924年松竹に入社,『元禄女』に初出演,可憐な娘役でファンに親しまれた。『伊豆の踊子』 (1933) ,『お琴と佐助』 (35) ,『愛染かつら』 (39) などが有名。第2次世界大戦後,『西鶴一代女』 (52) ,『煙突の見える場所』 (53) などで演技派スターとしての座を確立,『サンダカン八番娼館・望郷』 (74) ,『三婆』 (74) でキネマ旬報女優賞を受賞した。監督作品に『恋文』 (53) ,『月は上りぬ』 (54) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中絹代」の解説

田中絹代 たなか-きぬよ

1909-1977 昭和時代の映画女優,監督。
明治42年12月29日(戸籍上は11月29日)生まれ。大正13年松竹に入社,「元禄女」でデビュー。昭和8年「伊豆(いず)の踊子」で人気を博し,13年「愛染かつら」が大ヒットする。戦後も「雨月物語」「楢山節考」などに出演。28年「恋文」で日本初の女性監督となる。49年の「サンダカン八番娼館(しょうかん)・望郷」でベルリン国際映画祭主演女優賞。昭和52年3月21日死去。67歳。山口県出身。

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367日誕生日大事典 「田中絹代」の解説

田中 絹代 (たなか きぬよ)

生年月日:1909年11月29日
昭和時代の女優;映画監督
1977年没

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世界大百科事典(旧版)内の田中絹代の言及

【五所平之助】より

…日本最初の本格的トーキー《マダムと女房》(1931),川端康成の小説《伊豆の踊子》の最初の映画化(1933,サイレント),高見順の〈焼跡の恋愛小説〉を映画化した純愛メロドラマ《今ひとたびの》(1947),作家の椎名麟三とのコンビによる名作《煙突の見える場所》(1953)などの監督として知られる。また,女優・田中絹代を人気スターに育て上げた功績もある。彼女の出世作になった《恥しい夢》(1927),絹代ファンをいっきょに倍増させたといわれる《絹代物語》(1930)をはじめ,《マダムと女房》では初めて〈ねえ,あなた〉という彼女の甘ったるい声を聞かせ,《伊豆の踊子》ではそのかれんさを印象づけるといったぐあいに,その持味を最大限に引き出した。…

【溝口健二】より

…その後は,ドイツ表現主義映画を模倣した《夜》《血と霊》(ともに1923),左翼イデオロギーを盛った〈傾向映画〉の流行にのった《都会交響楽》(1929),《しかも彼等は行く》(1931),テナー歌手・藤原義江を主演にしたトーキー試作(日活ミナトーキー第1回作品であった)《ふるさと》(1930),また溝口の〈芸道三部作〉とよばれる《残菊物語》(1939),《浪花女》(1940),《芸道一代男》(1941),あるいはまた晩年に挑戦したカラー作品《楊貴妃》《新・平家物語》(ともに1955)等々の意欲作を作るが,これらの間に数多く作られた〈下町情緒とフェミニズム〉(滝沢一評)に貫かれた一連の〈女性映画〉こそが,溝口作品の世界をきわだたせることになる。 初期の田中栄三脚本,梅村蓉子主演の《紙人形春の囁き》と川口松太郎脚本,酒井米子主演の《狂恋の女師匠》(ともに1926)のあと,溝口作品のヒロインを演じて,その〈女性映画〉のイメージを作り上げた女優たちをあげれば,《滝の白糸》(1933)の入江たか子,《浪華悲歌(なにわえれじい)》《祇園の姉妹》(ともに1936)の山田五十鈴(1917‐ ),《浪花女》から《夜の女たち》(1948),《お遊さま》(1951),《西鶴一代女》(1952),《雨月物語》(1953)等々をへて《山椒太夫》《噂の女》(ともに1954)に至る円熟期の溝口作品の田中絹代,《雪夫人絵図》(1950),《祇園囃子》(1953)の木暮実千代,それに若尾文子(《祇園囃子》,《赤線地帯》1956),京マチ子(《楊貴妃》1955,《赤線地帯》)らがいる。《西鶴一代女》《雨月物語》《山椒太夫》がいずれもベネチア映画祭で受賞して世界の注目を浴び,フランスの〈ヌーベル・バーグ〉の監督たち(ゴダール,トリュフォー,ジャック・リベット等々)からはとくに信奉された。…

※「田中絹代」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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