小説家。明治4年12月13日、群馬県館林(たてばやし)に生まれる。本名は録弥(ろくや)。旧館林藩士の父鋿十郎(しょうじゅうろう)は1874年(明治7)警視庁巡査となり上京、花袋は1876年母に連れられ父の許にきたが、翌年、父は西南戦争に従軍して戦死、花袋と母たちは館林に帰る。1881年家計を助けるために、小学校の学業なかばで東京・京橋南伝馬町の有隣堂書店の丁稚(でっち)となったが、翌年不都合なことをおこして、館林に帰り復学、かたわら吉田陋軒(ろうけん)の休々草堂で漢詩文を学び、『穎才新誌(えいさいしんし)』に、和歌や漢詩を投稿した。1886年、兄実弥登(みやと)が修史局に勤めたので一家をあげて東京・牛込(うしごめ)富久(とみひさ)町に住む。大学予備門(東京大学の前身)に通う同藩の野島金八郎に英語を学び、西洋文学に触れる。1889年ごろより松浦萩坪(しゅうへい)(松浦辰男)の「紅葉会」に入り、和歌を正式に学び松岡国男(柳田国男(やなぎたくにお))を知る。このころから、軍人や政治家志望をやめ、文学に進むことを決意する。
1891年尾崎紅葉(こうよう)を訪問、直接には江見水蔭(えみすいいん)の指導を受け『千紫万紅』に『瓜畑(うりばたけ)』などを発表、1894年『文学界』に近づき、島崎藤村と交わる。1896年国木田独歩を知り、翌1897年民友社より独歩らとの共著で詩集『抒情詩(じょじょうし)』を出版する。貧窮のため心の慰藉(いしゃ)を旅に求めて書いた紀行文集『南船北馬』(1899)が博文館の大橋乙羽(おとわ)に認められ、1899年博文館に入社、詩友太田玉茗(ぎょくめい)の妹リサと結婚。1900年(明治33)より週刊『太平洋』の編集に加わり、ゾラ、フロベールらの外国文学を研究して紹介、1902年『重右衛門の最後』、1904年『露骨なる描写』を発表、日露戦争従軍と相まって傍観者態度による「平面描写」を確立した。1906年『文章世界』の主筆となり、1907年『蒲団(ふとん)』を書き、自然主義文学の地位を築いた。『生』(1908)、『妻』(1908~09)、『縁』(1910)の長編を次々と創作、1909年に書き下ろしで刊行した『田舎(いなか)教師』は名作として人々の心をとらえた。1912年博文館を退社、『人生の一宿駅』を書き、翌年藤村の渡仏を見送ったころから大きな転機を迎え、日光などにこもり、フランスの作家ユイスマンスから仏教へと心を移し、『時は過ぎゆく』(1916)、『一兵卒の銃殺』(1917)など意欲的な仕事をしながら『残雪』(1918)などに諦念(ていねん)の世界を描いた。1920年(大正9)花袋・秋声生誕50年の会が催され、『文章世界』終刊のころから、『源義朝(よしとも)』(1924)などの歴史小説に自己を投影し、愛妓(あいぎ)を中心にして男女の愛欲を問題にした『髪』(1912)から長編『百夜(ももよ)』(1927)を書き、1930年(昭和5)5月13日喉頭癌(こうとうがん)で没した。
[小林一郎]
『『花袋全集』全17巻(1973~74・文泉堂)』▽『柳田泉著『田山花袋の文学』2巻(1957、58・春秋社)』▽『岩永胖著『自然主義文学に於ける虚構の可能性』(1968・桜楓社)』▽『小林一郎著『増補 田山花袋』(1969・創研社)』▽『小林一郎著『田山花袋研究』全10巻(1976~84・桜楓社)』
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作家。群馬県生れ。本名録弥。父鋿十郎は館林藩の下級藩士であったが,維新後東京に出て警視庁の巡査になり,西南戦争で戦死,一家は館林に帰り,花袋は一時,東京京橋南伝馬町の有隣書店の丁稚になった。1886年兄の実弥登が修史局の書記になったのを機に,一家をあげて東京牛込富久町に移り住んだ。旧館林藩士で当時大学予備門学生であった野島金八郎から英語を学び,西洋文学に関心を持つようになった。小学校時代から《穎才(えいさい)新誌》に漢詩文を投稿していたが,兄の世話で桂園派の歌人松浦辰男(萩坪)の指導をうけ,松浦主宰の〈紅葉会〉で松岡(柳田)国男と知り合った。91年尾崎紅葉に近づき,江見水蔭の成春社に入り,《千紫万紅》に《瓜畑》などを発表,94年《文学界》の同人となり,島崎藤村と交わるようになった。96年の末,親しくなった国木田独歩らと民友社から《抒情詩》を出し,99年太田玉茗の妹里さと結婚し,また紀行文《南船北馬》を刊行,大橋乙羽の世話で博文館に入社した。1900年から週刊《太平洋》に関係し,ゾラをはじめ外国作家の研究,紹介につとめ,02年には《重右衛門の最後》を発表して注目された。04年《露骨なる描写》を書き,日露戦争に従軍,客観的な傍観者的態度の上に立つ〈平面描写〉を打ち出した。06年《文章世界》創刊によりその主事となる。翌年発表した,女弟子とのことを暴露した《蒲団(ふとん)》は自然主義文学を確立した作とされる。その後,《生》《妻》《縁》の三部作を発表,09年には《田舎教師》を書き世人の心をとらえた。12年博文館退社後,40歳の峠を意識し,ユイスマンスを経て仏教に入り《時は過ぎゆく》《一兵卒の銃殺》などを書いた。17年には書きおろしの回想集《東京の三十年》を刊行し,18年には諦念の影を落とす《残雪》をまとめた。20年《文章世界》終刊後は歴史小説に心境を託し,《源義朝》などを書いた。一方,11年の《髪》以来愛欲の問題を追求,27年の象徴的な長編《百夜(ももよ)》はその到達点である。
執筆者:小林 一郎
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明治・大正期の小説家,詩人
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1871.12.13~1930.5.13
明治・大正期の小説家。本名録弥。群馬県出身。感傷的な恋愛小説や詩・紀行文を書いていたが,「露骨なる描写」などで自然主義を主張。女弟子に対する愛欲を暴露した「蒲団(ふとん)」により自然主義文学運動の先頭に立った。以後「生」「妻」「縁」の自伝小説のほか「一兵卒」「田舎教師」などを発表。技法論として平面描写を唱えた。晩年は時代にとり残され,「時は過ぎゆく」「百夜(ももよ)」などには宗教的な諦念が色濃く認められる。
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…田山花袋の回想集。1917年(大正6),書きおろしで博文館から出版。…
…田山花袋の中編小説。1907年(明治40)《新小説》に発表。…
…森鷗外〈エミル・ゾラが没理想〉(1892)がその一例である。ゾラの考えた〈自然〉は,明治の日本では正当に理解されたとは言えないが,島崎藤村,田山花袋ら,やがて日本の自然主義を形づくる小説家たちは,ゾラやモーパッサンの作品から学ぶところ大きかった。彼らはまた,その頃《懺悔録》と訳されていたルソー《告白》の影響もあって,文学は内心の吐露であるべしとも考えていた。…
…最も日本的な文学形態だけに,日本的な偏りを批判されることが多かった。
[発生と日本的特異性]
用語例として〈私小説〉が確立される以前,田山花袋《蒲団》(1907)が赤裸々な恋愛感情を表現したのが私小説の事実上の発祥とされている。ヨーロッパの自然主義の影響による事実尊重と近代自我拡充の欲求が結合して私小説を生んだのである。…
※「田山花袋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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