田能村直入(読み)たのむらちょくにゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田能村直入」の意味・わかりやすい解説

田能村直入
たのむらちょくにゅう
(1814―1907)

幕末から明治の南画家。名は癡(ち)、字(あざな)は顧絶(こぜつ)、号は初め小虎(しょうこ)、のち直入と改める。別に笠翁(りゅうおう)、青椀(せいわん)、飯茶庵(はんさあん)主人などがある。豊後(ぶんご)(大分県竹田庄屋(しょうや)三宮氏に生まれ、9歳で田能村竹田(ちくでん)に画(え)を学ぶが、直入が田能村姓を冒した理由については不明。学問は初め郷里の角田九華(つのだきゅうか)に受け、のち大坂に出て篠崎小竹(しのざきしょうちく)に学ぶ。明治初年京都に移り、規格にはまった南画を描いていたが、公立の美術学校設立を首唱して1878年(明治11)建議書を府庁に提出。80年京都府画学校が開校されるや摂理兼画学講談担当となった。84年辞して、別に南宗画学校を創立。96年富岡鉄斎らと日本南画協会をおこす。博覧会、共進会の審査員となり、また多くの賞牌(しょうはい)を受けるなど、明治南画壇の長老的存在であった。

[星野 鈴]

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朝日日本歴史人物事典 「田能村直入」の解説

田能村直入

没年:明治40.1.21(1907)
生年:文化11.2.15(1814.4.5)
明治期の南画家。豊後国竹田(大分県竹田市)生まれ。本姓三宮,幼名松太のち伝太。9歳のとき,田能村竹田に入門し,南画と唐詩選を学ぶ。さらに国学,陽明学,武術などを幅広く修学,竹田にその才を愛され,田能村の姓を継いだ。竹田没後,南宗画で家を興し,堺,大坂に住む。明治1(1868)年京都に移り,以後名を小虎,号を直入とした。同13年京都府画学校設立とともに,翌年その初代摂理(校長)となり,24年には自ら自宅に南宗画学校を開いた。近代の南画は京都で継続的発展をみたが,直入はその明治期の中心的人物であった。

(佐藤道信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田能村直入」の意味・わかりやすい解説

田能村直入
たのむらちょくにゅう

[生]文化11(1814).豊後
[没]1907.1.21. 京都
江戸時代末期~明治初期の日本画家。旧姓は三宮。本名は癡。号は直入山樵,小虎山人,笠翁など。9歳で田能村竹田師事,のち養子となって田能村姓を継ぐ。一時大坂に住み,明治初年に京都へ移住。京都府画学校の創立に尽し初代校長となり,また博覧会や絵画共進会の審査員をつとめた。主要作品『雪中山水図』 (1899) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田能村直入」の解説

田能村直入 たのむら-ちょくにゅう

1814-1907 江戸後期-明治時代の日本画家。
文化11年2月15日生まれ。生家は豊後(ぶんご)(大分県)の庄屋。田能村竹田(ちくでん)の養子。明治元年京都にうつり,京都府画学校の設立に参画,14年初代校長。24年南宗画学校をひらき,29年日本南画協会を創立。明治40年1月21日死去。94歳。本姓は三宮。別号に小虎など。作品に「名花十二客」など。

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