田鎖綱紀(読み)タクサリコウキ

デジタル大辞泉 「田鎖綱紀」の意味・読み・例文・類語

たくさり‐こうき〔‐カウキ〕【田鎖綱紀】

[1854~1938]日本語速記術創始者陸奥の人。欧米速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15年(1882)に「日本傍聴筆記法」を発表した。他の著作に「新式速記術」など。

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20世紀日本人名事典 「田鎖綱紀」の解説

田鎖 綱紀
タクサリ コウキ

明治期の速記法創始者



生年
嘉永7年8月15日(1854年)

没年
昭和13(1938)年5月3日

出生地
陸奥国盛岡(岩手県盛岡市)

学歴〔年〕
大学南校

主な受賞名〔年〕
藍綬褒章〔明治27年〕

経歴
軍学師範の祖父田鎖左膳高行の講義を傍聴し、会話の筆記法の考案を志す。維新後、大学南校で鉱山学を学ぶかたわら、速記術の開拓に苦心し、グラハム式の英語速記法を日本語の速記に翻案、明治15年「日本傍聴筆記法」として発表した。そのため、帝国議会の第1議会から速記録を残すことができた。以後講習会を開き、速記法の普及に尽力した。速記術発明功績により、27年藍綬褒章、29年には300円の終身年金が下賜された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「田鎖綱紀」の解説

田鎖綱紀

没年:昭和13.5.3(1938)
生年:安政1.8.15(1854.10.6)
日本語速記術の創始者。盛岡の人。大学南校(東大)在学中偶然目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め,明治15(1882)年秋,日本語速記法の発明を宣言,講習を始めた。弟子たちは帝国議会発足と同時に貴族院,衆議院速記者として活躍したが,自らは仕官を好まず,もっぱら速記普及の全国行脚に努めた。速記術発明の功で,明治27年藍綬褒章,同29年300円の終身年金を下賜された。終生,速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。死後,「日本文字始而造候居士」と自ら用意して書かれた戒名が発見された。<参考文献>福岡隆『日本速記事始』

(竹島茂)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田鎖綱紀」の解説

田鎖綱紀 たくさり-こうき

1854-1938 明治時代の速記者。
嘉永(かえい)7年8月15日生まれ。大学南校で鉱山学をまなぶかたわら,グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を考案。明治15年「日本傍聴筆記法」を発表し,速記普及につとめた。昭和13年5月3日死去。85歳。陸奥(むつ)盛岡出身。幼名は八十吉。筆名は楳の家元園子。

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世界大百科事典(旧版)内の田鎖綱紀の言及

【速記】より


[日本]
 〈草仮名〉や〈片仮名〉なども速記方式的であったが,西洋式の速記は明治維新後,欧米文化の一つとして紹介されたのに始まる。そのなかで盛岡の人,田鎖綱紀(たくさりこうき)(1854‐1938)は,ピットマン系のグレアムGraham式速記を翻案し,1882年(明治15)10月28日(この日が速記記念日となった),東京に日本傍聴筆記法講習会を開いた。その修了生に若林玵蔵(かんぞう)(1857‐1938),林茂淳(1862‐1942)らがおり,若林が《郵便報知》の《自由新聞》に対する談判を速記した(1883年7月9日)のが実用化の最初である。…

※「田鎖綱紀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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