「癌」の字を国字とする説もあるが、既に中国宋代の「仁斎直指方」に見える。
癌を完全に定義づけることは難しいが,ひとまず次のようにいうことができる。すなわち,〈癌とは,多細胞生物の体の中に生じた異常な細胞が,生体の調和を無視して無制限に増殖し,他方,近隣の組織に浸潤したり他臓器に転移し,臓器不全やさまざまな病的状態をひき起こし,多くの場合生体が死に至る病気〉である。
癌は多細胞生物の病気であって,細菌やアメーバなど単細胞生物には癌はない。多細胞生物では,1個の生殖細胞が分裂増殖し,さまざまな器官に分化し,全体として調和のとれた個体として活動している。ヒトでは60兆個(60×1012)の細胞があり,毎日その2%の細胞が一方で死に一方で再生しているが,正常な個体は恒常性を保ちつづける。多細胞生物では,調和を保つために,個々の細胞と高次の体制の間に情報の交換があり,個々の細胞が勝手な行動をとらないための機序が働いているに違いない。癌細胞は,この多細胞生物の情報・規制システムから逸脱した欠陥細胞である。ただし単に情報系だけの欠陥であるかどうか,それはわからない。調和を無視して増殖することを,よく癌の自律性autonomyなどという。しかし本質的に,寄生的な癌細胞に真の自律性は,もちろんない。むしろ,かなりの癌細胞は,不完全ではあるが生体の調節機構に反応していることが観察される。ホルモン療法などが奏効するのはそのためである。〈癌も身の内〉であるからこそ,癌細胞を徹底的にたたこうとすると宿主も参ってしまうというジレンマが生じる。
浸潤とは,あらぬ方向にもぐり込み,広がっていくことである。上皮性の癌は,間質の中にもぐり込むので,細胞が〈極性〉を失っていることがよくわかる。転移とは,他臓器に移って増殖することである。癌細胞は,血管やリンパ管に入り,運ばれる。癌を始末に負えないものにする最大の原因がこの転移である。
癌はすべての脊椎動物に発生する。無脊椎動物でも,軟体動物,節足動物などにみられるが,その報告例は少ない。ヒトの癌は,もちろん人類誕生以来あったに違いない。有史以前の人骨に癌に侵された形跡が発見されている。古代エジプトには〈癌〉に相当する言葉がある。
癌は,ギリシア語でkarkinos,英語でcancer,ドイツ語でKrebsといい,いずれもカニが原義である。乳癌は頻度が多く,また外からよく見える。癌が大きく増殖し,リンパ管を通じて周囲に広がり,また血管が怒張しているありさまが,あたかもカニがへばりついたように見えたため,この言葉が用いられるようになったといわれる。
〈癌〉という字は,清代の有名な《康煕字典》(1716)には出ていないので,和製漢字といわれていた。しかし明らかに中国製で,12世紀に書かれた《衛済宝書》には〈癌〉の字がみられ,また中野操の研究によると,南宋の楊士瀛(ようしえい)の《仁斎直指方》(1264)に〈癌〉の字と症状についての記載がなされているという。ほかに〈岩・嵓・嵒・巌〉などの文字も用いられた。ごつごつした固い塊を表現している。これでわかるように,癌は多くの場合〈固い塊〉として出現するが,皮膚や消化管の癌では,表面を薄く広がっている場合もある。白血病では,癌は血中を流れたり,組織に瀰漫(びまん)性に入り込んでいて,必ずしも形をなさない。
異常な細胞が過剰に増生してつくる組織の塊を,腫瘍tumorあるいは新生物neoplasmという。腫瘍のうち,浸潤や転移を起こさず,成長にも限界があるものを良性腫瘍,そうでないものを悪性腫瘍という。悪性腫瘍はすなわち癌である。良性腫瘍はふつうは生命を脅かさないが,発生した部位が悪いと命にかかわることもある。脳の良性腫瘍がだいじな中枢を圧迫したり,腸管の良性腫瘍が腸閉塞を起こしたりする場合である。
腫瘍はまた,上皮性腫瘍と非上皮性腫瘍に分けられる。体の表面や消化管の内面はすべて上皮で覆われている。肝臓,腎臓,肺,唾液腺,乳腺,内分泌腺などの腺管細胞も上皮性組織である。これに対し,筋肉,骨,血管,脂肪,繊維等は非上皮性組織である。上皮細胞由来の悪性腫瘍を癌腫carcinoma,非上皮細胞由来の悪性腫瘍を肉腫sarcomaと呼ぶ。神経系腫瘍や生殖細胞系腫瘍,また多胚葉性である奇形腫は,とくに癌腫,肉腫といわない。
癌は,これら悪性腫瘍の総称名であるが,狭義に癌腫を意味して使われることも多い。胃癌といえば,胃の癌腫=上皮性悪性腫瘍を意味するのがふつうである。
腫瘍細胞は,一般にそれが由来した母細胞の特徴を保持している。それゆえ発生母細胞に従ってさらに分類がなされている。皮膚や食道など扁平上皮領域からは扁平上皮癌が,消化管の円柱上皮や腺上皮からは腺癌が,膀胱の移行上皮からは移行上皮癌が生じる。対応する良性腫瘍は,乳頭腫(扁平上皮腫というべきところであるが乳頭腫が慣用されている)や腺腫である。肉腫のほうも,筋肉腫,骨肉腫,血管肉腫,脂肪肉腫等々と分類する。良性腫瘍は,筋腫,骨腫,血管腫,脂肪腫等である。以上の分類をまとめると図1のようになる。
そのほか腫瘍の命名にはいろいろな慣用がある。造血細胞由来の白血病,リンパ球系細胞由来の悪性リンパ腫は,非上皮性であるが肉腫とはいわない。またユーイングEwing腫瘍(またはユーイング肉腫),ウィルムスWilms腫瘍など,人の名前のついた特徴のある腫瘍もある。
癌細胞や癌組織は,それが由来した母細胞(母組織)に類似するという特徴があるので上の分類が成り立つのであるが,癌細胞(組織)には同時に,母細胞(組織)から変異する(かけ離れる)という特徴もある。正常から変異していることを異型性atypismがあるといい,その程度を異型度という。異型には,細胞水準の異型と構造の異型がある。異型度の軽い癌を分化型または高分化型といい,異型度の強いものを低分化型ないし未分化型という。異型度の強い癌がだいたいにおいて悪性度が強いと考えてよい。この場合の異型度や分化度はひとまず形態上の話であるが,癌細胞は生化学的形質でもさまざまな異型性を示す。形態学的異型度と生化学的異型度は必ずしも一致しない。
日常の病理組織学的診断では,個々の悪性腫瘍は,さらに形態学的な分化度やその他の特徴に従って分類されている。腫瘍の診断で最も重要なことは良性悪性の判定であるが,細かい腫瘍分類も,治療方針の決定や予後の推定のために必要である。ちなみに国際疾病分類(ICD)の腫瘍の部には630ほどの分類項目がある。良性か悪性か,あるいは他の性格の病変(たとえば炎症性変化)か,判定が難しい場合もままある。その種の病変を境界領域病変という。
日本人の癌による死亡者数は,1995年には約26万3000で,死因の第1位である。図2を見ると,1935年以来,いかに全死亡中に占める癌死亡の割合が増加してきているかよくわかる。この増加は,癌が実際増えていることと同時に,癌以外の原因による死亡が減少したことの結果でもある。癌による死亡は,いずれの年次にも,10歳前後と60歳前後にピークがある。すなわち,子どもの癌と成人の癌がある。このピーク時には,子どもの全死亡の25%,大人の全死亡の実に40%が癌による死亡である。
表1に1995年度の日本人の部位別癌訂正死亡率を示した。男女とも胃癌と肺癌が断然多く,男女合わせて全癌死のそれぞれ38%,33%を占めている。以下男子で多いのは,肝臓癌14%,腸癌11%と続く。女子では,第3位が腸癌13%,次いで肝臓癌8.6%,乳癌7.5%,胆囊癌7.3%となっている。1976-77年の粗死亡統計により日本人とアメリカ人の癌の種類別死亡割合を比較してみると,日本人はアメリカ人に比し,胃癌が男6.7倍,女6.5倍と際立って多い。また肝臓癌も男3.7倍,女2.4倍と多い。これに対し,アメリカ人のほうが多いのは,皮膚癌が男5.0倍,女3.4倍,直腸を除く大腸癌が男3.4倍,女3.5倍,肺癌が男2.6倍,女2.4倍,男の前立腺癌7.3倍,女の乳癌5.1倍,卵巣癌3.4倍などである。アメリカ人の統計は,西欧各国の統計とほぼ傾向が同じで,いわゆる西欧型の癌発生の典型とみなしうる。
興味深いことに,日本人でもハワイやアメリカ本土に移住した人々では,癌の部位別発生頻度がアメリカの白人型に近づく。一世よりも二世にその傾向が著しい。すなわち胃癌の発生が日本の日本人の半分くらいに減少し,他方,大腸癌,肺癌,前立腺癌および乳癌などが著しく増加している。癌の発生原因として,環境因子,とくに食生活の差がいかに大きく関与しているかを示唆する疫学的事実である。
日本の日本人の癌部位別発生頻度も,1960-80年の20年の間に徐々に変化し,アメリカの白人型に近づいている。1960年を基準とした癌の年次別増減比では,胃癌,子宮癌(主として頸癌)が減少し,肺癌,腸癌,膵癌および乳癌が増加している(図3)。第2次大戦後の日本人の食生活の西欧化が,癌のパターンの西欧化をきたしているものと理解される。一般に大都市のほうが農村に比し西欧化の傾向が著しい。
ある種の癌が,特定の国,地方,人種にとくに頻度が高いことが,しばしば見いだされる。多くの場合,遺伝的背景よりも,生活環境や生活様式の中にその理由があり,ヒト癌発生の原因を明らかにするための疫学的研究の恰好の対象となる。アメリカでは性器癌が日本人に比し黒人に著しく多いが,これは衛生状態の差によるといわれる。中国のある地方では,食道癌,上咽頭癌,肝臓癌が際立って多い。食道癌はニトロサミンの多い食物,上咽頭癌はEBウイルスの蔓延(まんえん),肝臓癌はB型肝炎ウイルスの慢性感染等が原因と指摘されている。肝臓癌は東南アジアやアフリカにも多いが,この場合は,肝炎ウイルスとともにアフラトキシンによる食物の汚染も重要視されている。インドなど,タバコやビンロウの実や葉をかむ習慣のある地方では口腔癌が多発している。エジプトやイラクに膀胱癌が多いのは,エジプトジュウケツキュウチュウ(住血吸虫)症がその誘因をなしている。
癌はしばしば,診断を受けてから1年も経ないうちに命を奪うので,癌細胞がいったんできたら非常に急速に大きくなるように思えるが,それはかなりのところ誤解である。
ふつう臨床的に癌の存在が気づかれる最小の大きさは,指頭大,重量で1gくらいのものである。これが成長して数kgほどの癌塊になるうちに,転移やいろいろのことが起こり,患者は死亡する。これが臨床癌の期間であり,その前が前臨床癌の期間である。ところでいま,癌塊が癌細胞だけで成り立っているとし(実際は血管その他間質があり,分泌物が貯留していたりもする),癌細胞は死ぬことはなく分裂しつづけると仮定すると(実際は死ぬものがかなりある),1gの癌が1kgになるには,すべての癌細胞が10回ほど分裂して増える必要がある。すなわち10世代を要する。いまかりに,すべての癌細胞が1回分裂するのに100日を要するとすれば,3年近くかかることになる。他方,癌細胞1個は10億分の1g(1ng)くらいのものだから,1個の癌細胞が1gになるには少なくとも30回の分裂,すなわち9年くらいの時間を要することになる(癌が1個の細胞に起源すること,すなわち一つのクローンからなる細胞増生であることは証明されている)。このように単純に計算しても,癌の生活史は,前臨床癌の期間が臨床期の3倍もあり,予想外に長いものだということがわかる。上の計算で癌細胞の世代時間を100日としたが,実際に測定すると2~13日ともっと速い。しかし癌組織は,増殖しない部分もあり,死滅する部分もあるので,原発巣(癌の発生点)の体積倍加時間は100日前後のものが多いのである。
以上の話では,癌細胞は最初から終りまで同じ増殖速度であるとした。しかし実際は,細胞の癌化が完成するまでには,何段階かの癌化中間段階があると考えられている。癌化中間段階の細胞が増殖して形成する病変を狭義の前癌病変precancerous lesionという(広義の前癌病変は,この病変のほかに,癌化の起こりやすい病変すなわち癌化好発病変や,それ自体癌化に結びつかないが癌化好発状態の目印になるような病変すなわち側癌病変も含まれる)。前癌病変は,一般に癌に比し増殖速度は緩やかで,浸潤や転移を起こさない。一人前の癌細胞になった後でも,癌の性質は変化する。ふつうは時を経るにしたがい増殖速度が増し,悪性度が増強する。この現象を癌のプログレッションprogressionと呼ぶ。肺の転移巣で測定すると,大部分の癌は,平均体積倍加速度が20~70日と,原発巣よりも短くなっている。癌の発生が段階的であり,しかも最初のうちは増殖も緩やかであることを考えるならば,前臨床癌期は,臨床癌期の3倍よりもさらに長いということがわかる。
段階的な癌の発生状況は,ヒトでは子宮頸癌や大腸癌の発生過程でよく観察される。異形成上皮dysplasiaや腺腫adenomaの異型度が徐々に進行し,その一部に上皮内癌carcinoma insituが出現,最後に浸潤癌になるが,各段階を経て進行するには,それぞれ数年~十数年もかかることが多い。小児期の特殊の癌を除外すると,癌の罹患率や死亡率が年齢とともに加速度的に増加する現象も,癌の発生が多段階的であるとするとうまく説明がつく。もっとも,癌は多段階的に発生するとしても,つねに前癌病変を経るわけではない。前駆病変のない部分に〈新規にdenovo〉発生したようにみえる場合も少なくはない。また発生当初から非常に増殖速度の速いものもある。
動物実験では,癌原因子の種類が異なれば癌の発生する臓器も,癌の種類も,悪性度も異なることが知られている。同じ動物に同じ癌原物質を用いても,用量や投与法が異なると発生する癌の特徴が異なる。一般に少量の癌原刺激では,悪性度の低い癌が長い潜伏期間を経て出現する。
ヒトの場合,癌原刺激に曝露(ばくろ)された時期が明らかな発癌例は少ないが,いくつかある。戦時中に毒ガス製造に携わった人々,血管造影剤として放射性のトロトラストThO2を注入された人々などに,のちになって高率に肺癌や肝臓癌などが発生している。この場合その臨床癌の発生のピークは,癌原刺激に最初に曝露されてから20~30年後である。癌細胞の生活史の長さを示唆する事実である。
発癌実験の観察では,癌の発生はイニシエーションinitiation(起始)とプロモーションpromotion(促進)という二つの段階に分けることができる。イニシエーションは,DNAに起こる突然変異で,短時間に起こり,不可逆的に残る。プロモーションは,起始細胞が段階的変化を経て発癌に至る過程の促進である。促進物質は変異原性がなくてもよく,皮膚発癌のフォルボールエステル,肝臓発癌のフェノバルビタール,膀胱発癌のサッカリンなどは,単独では癌原性を示さないが,強いプロモーション作用を示す。ヒトの発癌でも,いろいろなプロモーターが作用していると考えられる。たとえばタバコ,避妊薬,高脂肪食などは発癌の危険率を上げるが,そのおもな作用はプロモーションであるともいわれる。
臨床癌はふつう四つの病期に分ける。国際対ガン連合が中心になって定めたTNM分類がよく用いられる。T(tumor)は原発部位の腫瘍の大きさや周辺組織への浸潤状態,N(node)はリンパ節への転移状況,M(metastasis)は遠隔ないし他臓器への転移を表す。リンパ節転移のない時期を第1期,遠隔転移のあるものを第4期とし,その間を2期に分ける。
早期癌はだいたい第1期の癌であるが,臓器により若干慣用による差がある。胃の早期癌は粘膜下層に浸潤がとどまる癌を呼ぶが,この場合は10%くらいは転移のある症例が含まれてしまう。早期癌以外は進行癌であるが,TNM分類でみるように段階がある。
原発巣が小さくて,転移巣が先に発見された場合,原発巣をオカルト癌occult cancerと呼ぶ。また解剖の結果,たまたま隠れていた小さな癌が発見されることがあるが,そのような癌をラテント癌latent cancerという。
癌はふつう小さなうちは症状を起こさない。症状が出てきたときは,もうかなり進行していることが多い。前述のように,癌細胞の一生はかなり長いが,病気としての癌の期間は比較的短いのである。しかし癌が小さいうちから強い症状を生じる場合もある。総胆管の出口のファーター乳頭の癌や膵頭部癌は,早期に胆道を閉塞して黄疸を起こす。そのため早めに癌の存在が疑われ,根治手術で治る幸いな場合が多い。同じ膵臓でも,体部や尾部の癌は,末期になるまで気がつかれず,気がついたときは手遅れになる。不幸な癌のほうの代表である。原発巣は小さいのに転移を起こし,その症状で気がつかれる癌もある。腎癌などは,骨や頭皮など,とんでもない部位の転移巣で初めて癌の存在が示されることがままある。腎癌に限らず,なにかのはずみに簡単に骨が折れ(病的骨折という),検索してみると,癌の転移であることがわかる例は多い。脳出血や脳腫瘍で死亡したと思われていた患者が,解剖してみると肺の奥に肺癌があって,脳はその転移であったということも,まれならずある。
癌が進行すると症状が出るが,それは原発臓器の症状,浸潤した周囲の臓器の症状,転移先の臓器の症状に分けられる。日本人に多い胃癌を例にとってみよう。胃癌はしばしば一部がはげ落ちて潰瘍化する。その場合は胃潰瘍と同じ痛みを生じる。胃内に癌が充満したり,胃壁を癌が強く浸潤して胃の動きが悪くなった場合は,胃部が重苦しく,食べると吐き気がし,食欲が落ち,やせてくる。癌性潰瘍から出血が続くと貧血となる。突然大出血を起こしショックに陥ることもある。胃壁を越えて後腹膜を浸潤し,神経叢の周辺を侵すと,耐えがたい痛みを生じる。癌が腹腔に広がったのが癌性腹膜炎である。水が貯留して腹が突出したり,腸管が癒着し合い,腸閉塞などを起こす。尿管周囲に浸潤し,尿管閉塞から尿毒症をきたす場合もある。血行性転移は肝臓にくることが最も多く,黄疸や肝不全を生じる。胃の低分化癌は,しばしば骨髄に広範に転移し,貧血,出血傾向および感染症を起こす。また肺に広がれば呼吸困難を生ずる。女子の場合,しばしば卵巣に転移し,胃癌が大きな卵巣腫瘍として発見されることもある。クルーケンベルク腫瘍Krukenberg tumorという特別な名前がついている。
癌がいろいろなホルモンを産生し,そのための症状が出る場合がある(このような癌を異所性ホルモン産生腫瘍という)。肺の小細胞癌は,しばしば副腎皮質ホルモンを出し,そのためクッシング病Cushing diseaseと同様な症状が現れたりする。癌の末期に全身状態が非常に衰えた場合を悪液質に陥ったという。これは癌からあるいは癌に対する反応として宿主細胞から出るTNF(カケクチン)やIL-6等のサイトカインが関与している。癌患者にはほかにも,神経の脱髄がきたり,黒色表皮腫acanthosis nigricansが発生したり,いろいろ原因不明の症状が出現する。末期に播種性血管内血液凝固(DIC)をきたし,無尿や腸管の大出血を誘発することはしばしばである。
末期の患者では,治療による副作用も無視できないものがある。化学療法は骨髄抑制をきたし,感染や出血の原因をつくる。肝臓や腎臓に高度の障害をきたす場合もある。副腎皮質ホルモンはひどい感染症をひき起こす。敗血症を起こしたり,いつのまにか古い結核巣の結核菌があばれ出して,粟粒結核症をひき起こしたりする。
癌を治すためには早期に発見することが最も重要である。上に述べたように,癌の発生過程には,比較的長い前臨床癌期がある。前臨床癌期や早期臨床癌期に癌を発見できるとよいが,このような時期には症状がなく,本人は気がつかない。このような時期の癌を発見するためには,定期的な健康診断が必要である。年に1度ほどの胸部や胃のX線検査,直腸や腟の視診,触診,腟のスメアテストsmear test(細胞診)などは,癌の早期発見に非常に役立っている。女性の場合,乳房は自分で調べて,しこりを発見することができる。
癌に特有な自覚症状はないが,次のような症状が現れ,2週間以上続いたら,すぐに専門医に診てもらうのがよい。自覚症状の出はじめた癌は,やや進行している可能性があるが,進行癌でも,早期に発見することは治癒につながるからである。多くの場合は癌ではないのだから,癌が否定されて安心することにも意味がある。
(1)胃の具合が悪く,食欲がなく,嗜好が変わったりする(胃)。
(2)飲み込むときに,のどにつかえる(食道)。
(3)便に血や粘液が混じったり,便通に異常がある(大腸,直腸)。
(4)咳が続いたり,声がしわがれたり,血痰が出る(肺,喉頭)。
(5)しこりがある(乳房,その他どこでも)。
(6)おりものや不正出血がある(子宮)。
(7)血尿をみたり,排尿に異常がある(腎臓,膀胱,前立腺)。
(8)治りにくい潰瘍がある(皮膚,舌)。
患者が医師の診察を求めると,医師は綿密に問診,視診,触診を行ったのち,さまざまな機器を用いて癌の存在の有無を明らかにしようとする。身体の内部を調べるのには,まずX線が有用である。単純撮影だけでなく,消化管は,造影剤として硫酸バリウムを飲ませ,臓器の動きや壁の微細な変化を観察する。胆囊や腎盂(じんう)はヨード剤を注射または服用して,その排出により造影する。また血管に造影剤を入れ,癌による異常な血管の出現や血行の乱れを観察する。1972年に開発され,その後一般化されたCT(computed tomography)スキャンは,X線の撮影結果をコンピューターで解析させ,断層像に再現したものであるが,深い臓器中の癌の存在をあばくうえですばらしい効力を発揮している。膵臓などの癌には,超音波診断も用いられる。原子核の核磁気共鳴(NMR)を利用したCTも開発されている。
内視鏡は,日本でとくに発展をみた検査法で,胃,腸,気管支,泌尿器などの管腔に光を運ぶ細いガラス管を束ねてつくったファイバースコープを入れて観察や撮影を行い,同時に先に備えた器具で疑わしい組織を採取する。
生体から組織を採取して組織学的に検索することを生検(バイオプシーbiopsy)という。癌の診断は,最終的には生検で行う。組織は病理学者により顕微鏡で調べられる。癌と思われたものが癌でない場合も,その逆の場合もある。癌といわれたが民間療法で治ったといわれる例の大部分は,生検がしてなかったり,生検の診断が誤っている。もともと癌でないものは,なにをやっても治るのは当りまえである。非常に病理診断が急がれる場合や,手術中に癌の広がりを確認したい場合は,組織を迅速に凍結し,クリオスタットで切片をつくり,染色して診断することも行われている。
前述の腟スメアだけでなく,胸水,腹水,喀痰,尿等の細胞診も,癌の診断として信頼度が高い。組織のスタンプや針生検の微小な材料のスメアなども,迅速に有力な情報を提供する。
癌細胞は,一般に代謝が亢進していて,いろいろな物質を取り込みやすい。そこで,放射性同位元素(ラジオアイソトープ)を取り込ませ,シンチグラムで検出することが行われる。骨の癌の検出にはガリウム67(67Ga),脳内の腫瘍の検出にはテクネシウム99(99mTc)がよく使われる。テクネシウムは脳の血液-脳関門を通過できるからである。甲状腺の癌はヨードを取り込むのでヨウ素131(131I)を診断に用いる。
癌が特別な物質を分泌している場合は,臨床生化学的検査が有用である。肝臓癌や胎児性癌のAFP(アルファフェトプロテインα-fetoprotein)や大腸癌のCEA(carcino embryonic antigen)は有名である。骨の癌ではアルカリホスファターゼが,前立腺癌では酸性のホスファターゼが増加する。また近年は癌細胞の遺伝子変化が比較的簡単に検出できるようになり,診断に利用され始めている。
癌の治療の原則は,できるだけ早期に発見し,外科的に取り除けるものなら切除するということである。手術時に癌を残すことなく切除できたと思えた場合を根治手術という。そうでない場合は保存的手術や姑息的手術になる。真に根治手術ならば100%治るが,すでに転移があれば,数ヵ月~数年の間に再発する。10~20年も経てから再発することもあり,晩期再発という。乳癌に比較的多い。
放射線に感受性のある癌で,根治手術が困難であるか,臓器の機能を保持したい場合は放射線療法を行う。子宮頸癌,舌癌,咽頭癌,喉頭癌,肺癌など,扁平上皮癌や一部の肉腫が適応になる。ホジキン病等の悪性リンパ腫も最初から放射線療法の対象になる。癌を縮小させて手術をしやすくする目的で術前照射が,また癌の取残しをおそれて術後照射が行われる。術中に必要な部分に大量照射をする場合もある。
ふつう治療に用いている放射線はX線かγ線である。高エネルギーのX線やγ線は,深部の癌の治療に適する。これを発生させる装置がリニアック(線形加速器)やベータトロンである。同じ装置から取り出せる高エネルギーの電子ビーム(β線)は,皮膚癌等の浅在性の癌の治療に適している。体内でのエネルギー伝達力が高く,したがってイオン化密度の高い高LET(linear energytransfer)ビームにも期待がかけられている。理論的にはいろいろの利点がある。粒子としては,上述の電子ビームのほかに,中性子,α粒子,陽子,π中間子などがある。発生装置は,シンクロトロン,サイクロトロン,シンクロサイクロトロンなど大規模なものが要求される。
放射線の効果を高める薬剤である放射線増感剤は,低酸素状態にある癌細胞にも放射線が有効に働くことをねらったもので,ミソニダゾールが試みられている。
化学療法は,癌が全身に広がっていて,外科手術も放射線療法も適用できない場合や,あるいは外科的ないし放射線による治療後に転移巣をたたいたり,転移を予防する目的で行われる。後者の場合をアジュバント化学療法という。白血病のように,最初から癌が全身に広がっている場合は,化学療法だけが治療手段である。白血病に対しては確実に延命効果があり,小児の白血病では完全治癒も得られている。他方,固型癌(白血病に対して一般の癌をいう)に対して化学療法はまだ十分成功を収めているとはいえない。しかし,子どもの横紋筋肉腫,ユーイング腫瘍,ウィルムス腫瘍,妊娠時に発生する悪性絨毛(じゆうもう)上皮腫などには,著しい効果を収めている。
化学療法剤としては,分裂細胞のDNAを傷損するもの(シクロホスファミドなどのアルキル化剤,白金,アドレアマイシンなど),代謝拮抗剤(メトトレキセート,5-FU,6-MP,アラ-Cなど),細胞分裂阻害剤(ビンクリスチン,ビンブラスチンなど),DNA合成阻害剤(アクチノマイシンなど),癌の栄養を阻害する酵素(L-アスパラギナーゼなど),ホルモン剤(副腎皮質ホルモン,アンドロゲン,エストロゲンなど)など,さまざまな異なった機序のものがある。抗癌剤は,癌の種類により効くものと効かないものがあり,癌の種類をみて選択される。また何種類かの薬剤を組み合わせて投与する併用療法がふつうに行われている。
化学療法は,皮膚,腸管,生殖器,骨髄等の分裂の盛んな組織の細胞にも障害を与え,いろいろな副作用を生じる。また長く治療を続けると薬剤耐性を生じるなど,今後克服すべき課題をかかえている。
免疫療法は,癌患者の免疫力を増強し,癌を抑え込もうと試みるものである。癌細胞の抗原性を増加させる研究もある。悪性黒色腫をはじめ,胃癌や扁平上皮癌の抗原ペプチドも単離されてきた。非特異的な免疫刺激剤であるBCGやレバミゾールが用いられているが,効果はまだ限られている。ナチュラルキラー細胞やマクロファージを活性化する試みも行われている。
抗ウイルス作用のあるインターフェロンが,骨肉腫等の癌に効くというので一時注目された。遺伝子工学的手法でインターフェロンが大量に使用できるようになってきたが,その後の臨床実験の結果は,あまり期待に添うものが得られていない。
癌は多種多様であることはすでに述べた。ヒトが一人一人異なるように,一つ一つの癌に個性がある。この多様な癌に,癌を正常から区別する,共通の形態学的あるいは生化学的な形質変化があるかというと,そのようなものはまだとらえられていない。しかし,多くの癌に共通で,形態学的あるいは生化学的診断に応用される形質変化は指摘することができる。
上皮性悪性腫瘍(すなわち癌腫)の細胞は,一般に互いに連結し,組織の表面を覆ったり,管腔を形成する傾向があり,その点で非上皮性の肉腫と区別される。その際癌組織は,正常にはみられない異常な構造を形成する(癌の構造異型という)。腺管と腺管の癒着,不規則不整な構造,シート状の増生,等々である。正常母組織に近い構造をとる癌を分化型と呼ぶ。低分化型になると,まともな構造はつくれなくなる。癌細胞は細胞自体も異型を示す(癌の細胞異型という)。一般に核が大きく,大小不同があり,核型が不整で,ヘテロクロマチン(非活動性の核DNAでヘマトキリンに染色される)の量の増加や分布の異常があり,核小体がめだつ。小胞体は好塩基性に傾く。また多核細胞や三極分裂など,異常な分裂像が出現する。癌細胞1個1個の間に大きさやその他の点で差異があることを多形性pleomorphismといい,これも癌の特徴の一つにあげられる。
癌細胞では,母細胞の分化形質が保持される傾向があるが,同時にいろいろな程度にそれが失われている。ある形質が誇張されて発現することも,また正常では発生の一時期にのみ発現する形質が現れることもある。後者は癌胎児性抗原ともいい,〈癌の診断〉で記したAFPやCEAが有名である。アイソザイムにも変化がみられ,肝細胞に脳型のアルドラーゼが発現したりする。ワールブルクO.Warburgが指摘したように,多くの癌細胞では嫌気的解糖系の亢進があり,乳酸が蓄積しやすい。また癌細胞の膜にもいろいろな変化が認められる。主として培養系細胞を用いての研究成果であるが,癌細胞膜では,細胞の接着や運動に関係する糖タンパク質であるフィブロネクチンの減少,細胞表面のレセプターを構成する糖脂質の単純化,膜構造の流動性や栄養の透過性の亢進等々,さまざまな変化が観察されている。
癌細胞には,しばしば染色体の欠失,増幅,転座等が生じていることは古くから観察されているが,近年の遺伝子レベルの癌研究は,これらの染色体異常の発癌における意義を明らかにした。染色体欠失部の研究は,多数の癌抑制遺伝子の発見(後述)を,また,増幅や転座の研究は,多数の癌遺伝子や癌関連遺伝子の発見をもたらした。慢性骨髄性白血病細胞の90%以上に見いだされ,1960年代から有名であったフィラデルフィア染色体は,実は第9番と第22番の染色体相互転座t(9:22)(q34:q11)の産物であり,第9染色体の切断点に存在する原癌遺伝子c-ABLが第22染色体の切断点に存在するBCR遺伝子と融合して作るBCR-ABLキメラ産物が強いチロシンキナーゼ作用を有し,細胞癌化の原因となっていることが明らかにされている。また,アフリカの子どもに多いバーキットリンパ腫では,その90%に8番と14番染色体の転座があるが,転座の結果,8番染色体の切断点に存在する原癌遺伝子c-MYCが,14番染色体切断部の免疫グロブリン遺伝子のエンハンサーに連結することにより活性化され,癌化の要因となっているのである。
白血病や固定癌の転座や逆位の解析から見いだされた原癌遺伝子や癌関連遺伝子(増殖因子やそのレセプター,遺伝子のプロモーターやエンハンサー,その他)の数は,現在まで50をこえている。
癌を誘発する因子として,化学物質(癌原物質),放射線,ウイルス,遺伝的素因等がある。食物や生活習慣が癌の発生に大きなかかわりをもっている。
(1)癌原物質探求の歴史 イギリスの外科医ポットPercival Pott(1714-88)は1775年に煙突掃除人に陰囊癌が多いこと,それは陰囊が長い間すすにさらされているためではないか,と記載した。これは,環境中に癌原因子が存在することと,職業癌の存在に関する最初の明確な記載であった。これらの観察を基盤にR.フィルヒョーは,大著《細胞病理学》の中で,発癌の刺激説を立てた。以来多くの人たちが〈刺激説〉を証明しようと動物実験をくり返したが,だれも成功しなかった。しかるに1915年,日本の山極勝三郎と市川厚一は,ウサギの耳に年余にわたりタールを塗りつづけるという忍耐強い実験の結果,世界にさきがけて人工的に〈刺激〉により癌をつくり出すことに成功したのである。この成功に力を得て,イギリスの化学者グループが癌原物質の探索を精力的に行い,28年,ケナウェーE.Kennaway(1881-1958)は合成炭化水素1,2,5,6-ジベンズアントラセンの癌原性を明らかにし,33年にはクックJ.Cookがタール中の癌原物質が3,4-ベンツピレンであることをつきとめた。
他方,佐々木隆興と吉田富三は1932年,アゾ色素の一種であるo-アミノアゾトルエンを飼料に混ぜてラットに与え,肝臓癌を発生させることに成功した。
これは,単一の化学物質を,経口的に与えて,肝臓という実質臓器に,上皮性悪性腫瘍を発生させたという,どの1点をとっても画期的な実験であった。環境中の癌原物質が食物に混入し,ヒトの癌の原因になる可能性が明らかにされたことも重要である。
以来50年の間に,1500以上の化学物質の癌原性が動物実験で確認されている。これらのうち,ヒトがいろいろの機会に曝露され,発癌に至ったことが疫学的に証明されている物質が82年までに約20種(表2),疑いの濃い物質が約60種ある。実験室内の物質で,動物には強力な癌原性を示し,当然ヒトにも癌原性を示すと考えられるが,ヒトでの発癌が実証されない物質は多々あるが,それはここに含まれていない。
(2)環境中の癌原物質 ヒトが癌原物質に曝露される機会は,飲食物の摂取,汚染大気の吸入,医薬品の使用および職場での接触などがおもなものである。
(a)食物中の癌原物質 食物はヒトの癌の発生に非常に大きな影響をもつと考えられている。アメリカ移住の日本人の癌の発生状況がアメリカ型に変わる例はすでに記した。食物や飲料水の中にはさまざまの種類の癌原物質が混入しているし,また食物成分の過不足それ自体が癌の発生に対し促進的あるいは抑制的に作用することが知られている。アジア・アフリカ地域では,主としてピーナッツにつくカビAspergillus flavusの産生するアフラトキシンが穀物を広く汚染している。この物質は1mg/kgの微量でもイヌを殺すほどの猛毒であるが,15μg/kgの微量を飼料に入れるだけで,魚やラットの肝臓や腎臓に癌をつくる。アジア・アフリカ地域に肝臓癌の発生率が高い,一つの原因がアフラトキシンにあると考えられている。
世界中のどこでも存在し,ヒトの癌発生との関係で最も重要な物質はニトロサミン類であろう。ニトロサミン類は,アミンのNに1個のニトロソ基のついた化学物質であるが,強力な癌原物質で,0.5mg/kgの低濃度で食物や飲料水に加えても,魚類からサルに至る多種の動物の広範な臓器に癌を発生させる。この物質は,自然の環境中に広く存在しているわけではないが,重大なことは,二級,三級,四級アミンと亜硝酸が適当な温度とpHのもとに存在すると簡単に発生するということである。
これら前駆物質は食物中にも土中にも多量に存在する。魚やタラコには数十ppmの濃度で二級アミンが含まれている。他方,野菜や穀物中に15ppmくらいまでの亜硝酸が含まれているし,ソーセージやハムには発色兼保存剤として10~70ppmの亜硝酸が添加されている。これらの前駆物質は調理中に,あるいは貯蔵中にニトロサミンを生じる。肉類はじめ多くの食品中には1~4μg/kg程度のニトロサミン類が検出される。さらに困ったことに,ニトロサミンは胃の中でも生成される。ある研究データによれば,体内でつくられるニトロサミンは,食物中に含まれるものの100倍もの量であるという。
そのほか,食物中にはベンツピレンをはじめ多種の癌原性多環芳香族炭化水素が含まれている。また癌原性のある農薬が混入する。現在使用は禁止されているが,かつてはDDT,BHC,アルドリンなどがかなり高濃度で混入していた。家畜に成長促進ホルモンや抗生物質を用いている場合,肉類にそれらの物質が混入している。成長促進剤として用いられるジエチルスチルベステロール(DES)は,妊婦が妊娠初期に2gほど服用すると,娘に腟癌を生ずることが証明されている。さらに,魚や肉類を焼くと,その黒焦げの中に,タンパク質やアミノ酸の熱分解物からできた癌原物質(Trp-p-1,Glu-p-1など)が存在することが杉村隆らにより示された。
(b)大気中の癌原物質 都市や工業地帯の汚染された大気はさまざまな癌原物質を含んでいる。車の排ガスも,暖房や調理の排気も,癌原物質の産生源である。都市の住民が田舎の住民に比して肺癌の死亡率が高いことはよく知られている。ガスやコークス労働者,ウラン,ニッケル,クロム,ヒ素,アスベストなどに汚染された空気を吸入する状況で働く鉱夫や工場の労働者にも,高頻度で肺癌が発生している。原水爆の実験から生じるプルトニウムの大気汚染も,肺癌の発生源として重大であるとの指摘がなされている。
(c)医療上の癌原物質 戦時中に造影剤として放射性物質トロトラストThO2を注入された人々から,20~30年経た現在も癌が発生していることはすでに述べた。甲状腺癌の治療に用いるヨウ素131(131I)も白血病を増加させる可能性がある。いろいろな抗癌剤は動物で癌原性が証明されている。現在緊急の必要で癌患者に使用することはやむをえないとしても,癌が治った場合,将来抗癌剤による発癌がありうる。妊婦のDES使用による娘の腟癌発生についてはすでに記したが,1973年以来,経口避妊薬を常用する女子に肝腺腫が発生するという報告が蓄積されている。腎臓移植の患者などに長期,大量に用いられる免疫抑制剤は,いわゆる免疫監視機構の水準を下げ,発癌の危険率を上げる。悪性リンパ腫の発生率が35倍も高まったとする調査報告がある。
(d)職場の癌原物質 化学工業,精錬工場,製造工場その他さまざまな職場で癌原物質が生じ,また癌原物質が使用されている。従業者に癌を発生させた歴史的に有名な例としては,ニッケルやクロム化合物による肺癌,塩化ビニルによる肝臓血管肉腫,α-ナフチルアミンによる膀胱癌,アスベストによる肺癌や中皮腫などがあげられる。
(3)放射線 レントゲンW.RöntgenによるX線の発見が1895年である。これが診断に役立つことがわかると,非常な勢いで世界に広まったが,最初はその癌原性がわからなかったためX線取扱者に犠牲者が多発した。最初の報告は1902年,X線の発見後わずか7年目のもので,皮膚癌であった。初期には皮膚癌が多発したが,のちに白血病も発生することがわかった。キュリー夫人も白血病に侵された。1910-20年代には,アメリカでラジウムを含む夜光塗料を時計の文字盤に塗る作業に従事した工員に骨肉腫が多発した。ラジウムはα線(ヘリウム粒子)を射出する。このほかγ線や中性子も癌を発生させる。原爆被爆者の中に,白血病,甲状腺癌,乳癌,肺癌の多発があり,それは今日までも続いていることは周知のことである。被爆後の平均余命を25年とすると,100万人当り,1レム当り175人の癌(白血病を含む)が発生する。広島の場合,被爆者の白血病発生率は,対照人に比し5倍ほど多い。また1965年以降は乳癌が多発し,対照の4倍にも達している。放射線による癌発生率の増加は,とくに胎児や幼児で著しいことが知られている。妊婦や乳幼児は,X線検査等はなるべく避けるべきである。
紫外線も皮膚癌をつくる。白人は有色人種に比してとくに感受性が高いが,太陽光線の強い熱帯地方に近い住民ほど皮膚癌の発生率が高くなっている。また,船員や農民等戸外で働く人たちに皮膚癌の発生率が高い。
われわれは1人当り年間,宇宙線や土面からの放射線,体内に入った放射性物質により,1人平均130ミリレムの放射線を全身に受けている。低線量の放射線がどれほど癌を発生させるか,ほんとうのところはまだよくわからないが,一つの計算によると,70歳まで生きる間,年間1ラドの放射能を浴びると,世界の人口の3.1~15.7%がよぶんに癌で死ぬことになるという。130ミリレムによる癌発生は全体の癌のごく一部と考えられるが,その発癌は,ヒトが生きていくうえの絶対に避けえない代価のようなものといえる。
(4)遺伝的素因 熱帯性の淡水魚のプラティフィッシュplaty fishとソードテールsword tailを交配すると,その雑種第1代(F1)に悪性黒色腫が発生する。F1をソードテールに戻し交配すると,さらに早期に悪性度の強い黒色腫が発生する(図4)。ゴルドンA.Gordonが1930年代によく研究したので〈ゴルドンの黒色腫〉と呼ばれるこの腫瘍の発現は,腫瘍遺伝子と,その発現を抑える抑制遺伝子があり,そのバランスのくずれた状態を考えるとよく理解される。
ヒトでも,腫瘍発生を伴う遺伝病が200種類くらい知られている。その半分は常染色体で優性,1/3が常染色体で劣性,1/6が性染色体と連鎖した(X-連鎖)病気である。常染色体優性の例としては,多発性神経繊維腫瘍,レックリングハウゼン病,網膜芽細胞腫(一部),家族性多発性大腸ポリープ癌,ガードナー症候群などをあげることができる。腫瘍の発生が単一遺伝子座の遺伝子に支配されていて,その遺伝子の持主には大多数に腫瘍が発生するのである。
親の生殖細胞に起こった突然変異により,同胞に発生する場合もある。両側性の網膜芽細胞腫がその例で,染色体の13qに欠損がある。メンデル式遺伝ではないが,先天的に常染色体の異常があり,癌を発生しやすい病気として,ダウン症候群(白血病),クラインフェルター症候群(乳癌)その他がある。また常染色体劣性遺伝病として,癌を多発するものとして,色素性乾皮症(皮膚癌),毛細血管拡張性失調症(悪性リンパ腫や白血病),ブルーム症候群(白血病)などがある。これらの疾患では,染色体が切れやすかったり,染色体の損傷の修復機能に欠陥があったり,核型の不安定があり,癌発生の要因をなしていると考えられている。
X連鎖劣性遺伝病の例としては,ウィスコット=オルドリッチ症候群や無γ-グロブリン病があげられる。いずれも悪性リンパ腫や白血病を多発する。免疫機能の異常が癌発生の要因と考えられている。
遺伝子の異常は明らかにされないが,癌を発生しやすい体質というものがある(癌になりにくい体質もある)。ナポレオンの家系での胃癌多発は有名であるが,乳癌,直腸癌,肺癌,悪性黒色腫などで,家族集積例が知られている。乳癌は親が乳癌だと娘には親よりも若い年齢に,またしばしば両側性に乳癌が発生する。父親にも乳癌の背景があると,この傾向はさらに著しい。家族性の癌の集積は,しかし,すぐに遺伝的背景と結びつけてはならない。家族や親族は,食生活,習慣,生活環境に共通性があるので,共通に癌原因子に曝露されている場合があるからである。産道で母子感染し,のちに慢性肝炎や肝臓癌を誘導するB型肝炎ウイルス感染症などはそのよい例である。
(5)栄養 食物の中にさまざまの癌原物質が混入することはすでに記した。それとは別に,栄養分あるいは食物成分の過不足や質の差が,癌の発生に関与することが知られている。
乳癌,卵巣癌,子宮内膜癌,前立腺癌などのホルモン感受性臓器の癌は,肥満者に発生率が高く,逆に慢性のカロリー不足は発生率の低下をきたす。動物実験では,カロリー制限は,マウスの自然発生の乳癌のみならず,肝臓癌や肺腫瘍の発生も著しく減少させることが知られている。
栄養物の質では,脂肪摂取が重要である。世界各国で,脂肪摂取量と大腸癌,乳癌の発生率の間に相関が認められる。とくに動物性の脂肪がよく相関する。
一般に栄養低下状態は発癌阻止的に作用するのに対し,ある種の向脂性物質(コリン,メチオニン,葉酸,ビタミンB12)の欠乏は,ラットの実験肝臓癌の発生を促進する。またビタミンAの過剰投与は,実験動物のさまざまな臓器での発癌を抑制する。北欧に多いプラマー=ビンソン病では食道癌が多発するが,これにはビタミンAやB群の欠乏が関係すると考えられている。ビタミンCの摂取量の少ない地方は胃癌が多く,逆に新鮮な野菜の消費量と胃癌の発生が反比例するという疫学的データがある。ビタミンCは抗酸化剤で,胃液中でのニトロサミン形成を阻止することが注目されている。
さまざまな無機物質と癌の発生についてもいろいろの調査結果があるが,まだ確実な相関を示すデータは少ない。台湾のある地方の皮膚癌の多発が井戸水中の高濃度のヒ素によることは,かなり確実といわれる。
(6)習慣 過去30年間の広範な研究の結果,タバコと癌の関係は疑う余地のない明確なものとなっている。タバコの煙の中にはベンツピレンはじめいろいろな癌原性炭化水素が含まれており,1本のシガレットを吸うと,約30ngのベンツピレンを吸入することになる。アメリカにおいてハモンドG.Hammondが1959-65年に100万人以上の男女を追跡調査した結果によれば,男子において非喫煙者の死亡率を1とすると,喫煙者の肺癌による死亡率は,1日20~39本吸う人では15倍,40本以上の人では19倍である。深く吸い込む習慣のある人ほど,また喫煙を始めた年齢が若いほど,肺癌になる危険率が高い。日本で平山雄らが66-75年に26.5万人を追跡調査した成績も,ほぼ同様の傾向を示している(図5)。興味あることに,タバコをやめると危険率は徐々に下がり,10年すると非喫煙者と変わらなくなる。この事実は,タバコのおもな作用は発癌のプロモーションである可能性を示している。プロモーション効果は可逆的でありうるからである。
飲酒も発癌の危険を増加させる。アルコール自体は癌原物質ではないが,地方によっては,アルコール中にニトロサミン等癌原物質が混入していることがある。口腔癌と喉頭癌については,飲酒だけでは2倍の危険率のところ,飲酒と喫煙が組み合わさると15倍までに癌の発生率が上がる。
性生活は女性の生殖器癌の発生に深い関係がある。イタリアの医師ラマッツィーニBernardino Ramazzini(1633-1714)が尼に乳癌が多いと記載したのは1700年のことであるが,この観察は現在も生きている。乳癌は,未婚の女子に高く,また既婚者でも,結婚年齢の高いもの,より正確には初産年齢の高いものほど多い。子宮内膜癌や卵巣癌の発生率に関しても,乳癌とほぼ同様の傾向が認められる。同じ子宮でも,頸癌の発生は直接性生活と関係がある。子宮頸癌は,最初の性交の年齢の低いほど,結婚回数や妊娠回数の多いほど,相手の男の数が多いほど(売春婦など),また下層階級生活者ほど頻度が高くなる。初性交の年齢の低いほど危険率が高いということは,若年婦人ほど子宮粘膜の癌原刺激に対する感受性が高いということである。ヘルペスやパピローマウイルスの感染が原因として注目されている。男子の陰茎の包皮内に貯留する恥垢(ちこう)smegma中に癌原因子があるとする説も出されているが,証明されていない。下層階級に子宮頸癌や陰茎癌が多いのは,シャワーや入浴設備が十分でなく,陰茎が不潔であるためともいう。逆にユダヤ人のように若年期に割礼を行う習慣のある民族では,これらの性器癌の頻度は低くなっている。
(7)ウイルス 腫瘍ウイルス発見の歴史はかなり古い。ラウスP.Rous(1879-1970)がニワトリの肉腫が濾過性病原体で起こることを報告したのは1911年である。同じころ(1914)日本の藤浪鑑(ふじなみあきら)もニワトリの肉腫がウイルスにより発生することをつきとめている。これらはのちにRNA型の腫瘍ウイルスであることがわかったが,ラウス肉腫ウイルスは,70年代に徹底的に研究され,現在の癌遺伝子解明の突破口をつくった。
RNA型の癌ウイルスとしては,1930年代にビットナーJ.Bittnerがマウスによる乳癌ウイルス,50年代にグロスL.Gross,モロニーJ.Molony,フレンドC.Friend,ラウシャーF.Rauscherらによるマウス白血病ウイルスの発見,60年以降では,モルモット,ネコ,ウシ,サルなどの白血病や悪性リンパ腫ウイルスが発見されている。ヒトの白血病もウイルスが原因ではないかと長い間疑われていたが,80年代になって,成人型のT細胞白血病がRNA型ウイルス(ATLV)によることがほぼ明らかにされた。
DNA型腫瘍ウイルスも多数見いだされている。1933年には,ショープR.Shopeがウサギの乳頭腫ウイルス,34年にリュッケB.Luckéがカエルの腎癌ウイルスを見いだしている。皮膚に乳頭腫をつくるDNAウイルスは,ヒト,ウシ,ウマ,ブタ,イヌなどにも広く見いだされている。マレック病と呼ばれるニワトリの伝染性悪性リンパ腫も,DNAウイルスが原因であった。
60年代にエディB.Eddyらは,サルに見いだされたSU40という,サルでは非腫瘍原性のDNA型ウイルスを,新生仔ハムスターに接種すると肉腫を生じることを発見した。またトレンティンJ.Trentinと矢部芳郎は,ヒトのアデノウイルスを新生仔ハムスターに接種すると肉腫をつくることを見いだした。これらの発見は,他種動物のウイルスの感染でヒトに癌が発生する可能性と,ヒトにふつうに常在するアデノウイルスが癌の原因となる可能性を示した点で,非常にショッキングなものであったが,現在はそれらの可能性はほぼ否定されている。ヒトの発癌の原因としては,アフリカのバーキット型リンパ腫や中国に多い上咽頭癌の原因としてのEBウイルス,子宮頸癌の原因としての乳頭腫ウイルス,肝臓癌の原因としてのB型およびC型肝炎ウイルスなどが現在注目されている。
上に述べたRNA型腫瘍ウイルスには,接種後短期間(数日~1,2週)で白血病や肉腫をつくる群と,慢性的(数ヵ月~1年)に白血病を起こす群がある。前者のウイルスは,その遺伝子の一部に癌遺伝子をもっている(v-oncと総称される)。宿主の細胞に入ると,ウイルスRNAはみずからの逆転写酵素を用いてDNAに変わり,宿主DNAの中に組み込まれ増殖する。その際つくられるv-oncの産生タンパク質が細胞を癌化させるのである。
1970年以降の20年間に,癌細胞は癌遺伝子oncogeneや癌抑制遺伝子等の遺伝子異常に起因することが明らかになった。初めて癌遺伝子の存在を実証したのは豊島久真男らである。彼らは1969-71年にラウス肉腫の温度変異株を用いる実験系を通じ,細胞のトランスフォーメーション(培養内癌化)を起こすには,ある一つの遺伝子の産物が存在すれば必要十分であることをつきとめた。この遺伝子を彼らは肉腫遺伝子(src)と呼んだ。
75年までに,遺伝子操作技術とDNA解析技術が格段に進歩し,そのおかげでsrcはウイルスの3′末端付近の1600ヌクレオチドほどからなる遺伝子であることが明らかにされた。次いでビショップM.Bishopらは,src遺伝子を多量に調製してラジオアイソトープをつけ,これを探子probeとして探子に相補的に結合するDNAの存在を検出する方法により,すべての脊椎動物のDNAの中にsrcときわめて類似したDNA配列があることを確かめた(1976)。さまざまのRNA腫瘍ウイルスの癌遺伝子が解析されると,それらは互いに異なるものであることがわかった。これらをv-oncあるいは原癌遺伝子と総称するが,現在までに17種ほどのv-oncが知られている(表3)。脊椎動物の体細胞には,それらに対応する癌遺伝子(c-oncと総称する)があることも明らかにされた。一部のc-oncはショウジョウバエや酵母にも見いだされる。
さらに研究が進むと,これらの“癌遺伝子”は,本来すべて,生物の発生や生命活動のために必要な遺伝子であることがわかってきた。“癌遺伝子”と命名したことが,そもそも誤りであることになったが,しかし,これらの遺伝子の発現異常が,癌の発生に関与していることも事実なので,現在も癌遺伝子あるいは原癌遺伝子(プロトオンコジーン)と呼ばれている。癌ウイルスに由来するものではないが,癌の発生に関与する遺伝子も次々と明らかにされ,それらを加えると,原癌遺伝子は現在80種以上が知られている。
原癌遺伝子は機能により分類すると,増殖因子群,増殖因子受容体群,その下流のシグナル伝達因子群および核内にあって遺伝子を活性化する転写調節因子群に分けられる。原癌遺伝子の活性化の機序としては点突然変異(RAS,RET等),遺伝子増幅(C-MYC,N-MYC,K-SAM等),染色体転座(ABL,EWS,PDGER等)が知られている。
原癌遺伝子が,活性の上昇や出現により癌化を招来するのに反し,多くの癌では,遺伝子(機能)の欠損が問題となっている。Knudsonは,欠損した遺伝子は,発癌抑制作用を有していると考えた。この考えは,1986年に家族性網膜芽細胞腫の家系の解析から,責任遺伝子RBが単離されたことにより初めて証明された。この家系の患者では,一方の染色体のRB遺伝子に突然変異があり,対立遺伝子の正常RB遺伝子に変異が生じると,網膜芽細胞腫を生じるのである。後にRB遺伝子産物は,細胞増殖のGからS期の移行を制御する重要な因子であることが明らかとなった。その後も,主として癌多発家系の研究から,多数の癌抑制遺伝子が単離され,その機能も次第に明らかにされてきている。
上記の網膜芽細胞では,RB機能の消失だけで癌化が完成する(すなわち2ヒット)が,多くの癌では,癌化は,さらに多数の癌遺伝子や癌抑制遺伝子の変異の蓄積の結果生じることがわかっている。例えば,大腸癌の発生過程では,APC,RAS,p53,DCC等々の遺伝子変化が,多くの場合この順に生じ,癌化が進行する。初期の遺伝子変化を生じた細胞にも,増殖性の亢進があり,前癌病変である腺腫が形成される。前癌病変を早期に発見し,除去することが,次項に述べる癌予防の重要な方策となる。
癌を予防する方策としては,(1)生活環境中の癌原因子を極力排除すること,(2)癌発生の危険率を上げるような生活・習慣を改善すること,(3)前癌腫瘍や癌は早期に発見し,除去すること,の3点が重要である。第3点は,癌細胞の発生を防ぐ意味での予防方策ではないが,健康や命を脅かす深刻な病気としての癌をなくするという意味では,重要な予防方策といえる。
疫学者の計算によると,地上の癌の80~90%は環境中の癌原因子によりひき起こされ,それゆえ癌原因子を排除することにより予防が可能であるという。環境中の癌原因子については〈癌の原因〉の部ですでに述べたが,なかでもヒトの発癌全体においては食物が最も重大なかかわりをもつ。食物中には,癌原因子が添加物や混入物として入り込み,また保存中あるいは調理の際に癌原物質が発生する。食物の質や栄養の過不足も癌の発生に大きな影響をもつことがわかっている。食物に癌原因子が入り込まないようにするためには,国や自治体が責任をもって検定や規制を行う必要がある。化学物質の癌原性を動物実験で検定する作業は,しかし,かなりの時間と費用を要するものである。1検体の検定に3年の月日と7000万円の費用がかかる。日常使われている化学物質の種類は6万以上で,その数は年々増加しているが,年間に検定できる検体数は,世界中の施設を動員しても,わずか300にすぎない。したがって,すべての物質に十分な安全テストを施すことは不可能なので,細菌を用いて簡便に変異原性を調べるエームス試験や,培養細胞での染色体障害性試験などで,あらかじめスクリーニングし,問題のある物質を動物実験で検定することになっている。
ウイルスが発癌に関与している場合は,感染を予防することで,それによって誘発される癌は根絶することができよう。B型肝炎ウイルスの持続感染状態は肝臓癌の発生と深い関係があるが,免疫グロブリンやワクチンの使用が出産時の母子感染によるキャリア(持続感染患者)の成立を阻止するうえできわめて有効であることが示されている。
個々人の食生活のうえで,癌予防のために心がけるべきこととしては,(a)野菜を多くとること,(b)肉や魚の焼け焦げ部分を食べないこと,(c)塩分の多い魚や野菜の漬物を多量にとらないこと,(d)肥満を避けること,などがあげられる。野菜に含まれるビタミンAは発癌を抑制し,ビタミンCは体内でのニトロサミン生成を抑え,繊維成分は便通をよくして大腸癌の発生を減少させる。焼け焦げ部分には癌原物質がある。食塩を多量にとる地方の人たちに胃癌が多いことが知られている。また肥満者や動物性脂肪を多量にとる人たちでは,大腸癌,前立腺癌,乳癌,子宮体癌の発生率が高いのである。病気の検査や治療手段として,放射線やさまざまな癌原性のある物質が用いられる。不必要な検査や投薬を避けることは基本的に重要であるが,臨床的により切実な問題は,癌原性が証明されているか,あるいは疑われているが,それが非常に有効であって,ほかに代えるべきものがない場合どうするかということである。これは,医療だけでなく,食物への防腐剤の添加の是非,多数の糖尿病患者が必要としているサッカリンを規制することの是非等と共通の問題である。この問題の解決のためには,科学的な,利益-損失のバランス計算のうえに立った判断が必要で,いたずらに癌原性だけを拡大して使用中止を求めることは,必ずしも知恵のある解決には至らない。
また喫煙がどれほど肺癌を主とする癌の危険率を上げるかはすでに述べた。喫煙の害は個人にとどまらない点が重要である。喫煙は,他人との共有物である空気を汚染し,人を不快にし,あげくの果てに人の発癌の危険率も高めるのである。議論の余地のない悪習で,是非やめなくてはならない。飲酒は,単独でも,口腔,咽頭および喉頭の癌を増加させるが,とくに喫煙と重なると,発癌の危険性を飛躍的に高めるので注意すべきである。
さて(1)(2)の予防方策により,癌は相当に減少させることができると思われるが,しかしその発生をまったく抑えることは不可能であろう。食物や大気中の癌原因子を完全に除去することはできないし,第一,癌原物質は体内でも産生されてしまう。宇宙線や大地からの自然放射線は避けがたく,日光浴をしても癌原因子である紫外線に当たる。つまり,ある程度の癌原刺激に曝露されることは,生物が生きているためにどうしても避けえないことで,人類が続く限り基本的水準の癌発生はついてまわるであろう。
発生した癌は,しかし,早期に発見し治療してしまえばなんでもない。〈癌の発生と成長〉で述べたように,大部分の癌は年単位で数えられる長い前臨床癌期があるので,年1度程度の定期検診で十分早期に発見することができる。胃,肺,子宮という癌の発生頻度の高い臓器の定期検診と,乳腺の自己検診を徹底するだけで,現在でも癌による死亡は半減させることができる。実際,近年癌研究会付属病院で手術される胃癌患者の40%,子宮頸癌患者の60%,乳癌患者の40%は早期癌で,これらの患者はほとんど完全に治癒しているのである。遺伝的素因があったり,癌原因子に曝露されたりして,いわゆる高危険度群に属する人たちには,特別な検診スケジュールが組まれるべきであろう。
癌の早期発見を推進するためには,人々が自発的に健康診断を受けるように教育し啓発すること,検診のための施設や人員を確保すること,さらに場合によっては検診の費用の一部を国や自治体が準備すること,などが重要である。日本における組織的対癌活動の歴史は長く,1908年(明治41)に早くも,学,政,財界が一体となって,財団法人癌研究会が設立されている。この中から58年に日本対ガン協会が発展的に独立し,現在各県ごとに支部ができて,癌の予防活動を積極的に行っている。世界各国の対癌協会や癌学会は国際対ガン連合(UICC)をつくり,国際的に協力して癌の予防と研究を進めている。これらは主として民間の活動であるが,各国政府は拠金を行い世界保健機関(WHO)をつくり,その活動の一部として対癌活動をくり広げている。
執筆者:北川 知行
腫瘍は生命の歴史とともに古く,したがって人間の癌つまり悪性腫瘍も,その病理学的性質からいって,人間の歴史とともに古く,人種・地域のいかんにかかわらず,全地球的に存在していたに違いない。古病理学的調査によると,出土人骨に癌の病変が存在していることが知られ,たとえば古代エジプトでは大腿骨と骨盤の骨肉腫,また頭蓋骨に転移した癌腫をもつ人骨が報告されている。古代ギリシアでは,医神アスクレピオスへの奉納品と思われる彫刻に,乳癌を示すものがある。旧約聖書の《歴代志》下には腸癌と推定される記事がある。ガレノスは体液説に基づいて,癌は黒胆汁の過剰に起因すると考えた。
中世には癌についての記録はほとんど見当たらない。癩,ペストなどの疫病が吹き荒れた中世には,癌のような隠れた慢性疾患にまで観察を向ける余裕がなく,またたとえ癌で死んでも,医学水準からいって,衰弱死としか診断できなかった場合がほとんどであった。やがて近代医学の道が開かれ,顕微鏡が発明され,実験的方法が確立されるとともに,癌についてのガレノスの古い体液説がしりぞけられ,まずリンパ説が生まれた。しかし癌の病理がどうやらつかまれてくるのは,細胞学説の確立された19世紀後半のことで,フィルヒョーの細胞病理学以後のことである。
16世紀のG.アグリコラやパラケルススが記述した鉱山病には,のちに肺癌と指摘されたものがあったことが知られ,その意味では,今日問題となっている職業癌患者の第1号は鉱夫たちであった。しかし今日環境癌あるいは職業癌と呼んでいる癌について,その発癌の経緯を正確につきとめたのは,ロンドンのセント・バーソロミュー病院の外科医P.ポットであった。
日本では,江戸時代に癪(しやく)・積聚と呼ばれた内科疾患に,胃癌のような悪性腫瘍が含まれていたと思われる。膈噎(かくいつ)といわれた食道狭窄症には食道癌もあったし,舌疽(ぜつそ)といわれたものはほとんどが舌癌であったと思われるが,江戸時代にもはっきり認識されていたのは,華岡青洲の麻酔手術で名高い乳癌であった。また1915年に山極勝三郎と市川厚一がウサギの耳にタールを塗って皮膚癌の発生に世界で初めて成功したことは注目される。
執筆者:立川 昭二
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…50年代に取り扱われたウイルスはバクテリオファージが中心であったが,60年代以降,これらの分子生物学の知見と,培養細胞によるウイルスの培養方法の確立とともに,動物ウイルスにも研究の目が注がれてきている。今日,ウイルス学が取り扱う範囲は,ウイルス自体についての形態形式,遺伝子構造と遺伝子の機能発現などだけにとどまらず,宿主細胞の側での遺伝子の構造と機能,発癌やウイルスの病原性を定めている遺伝子とその機能,ウイルスに対する防御機構などの研究にも及んでいる。
[ウイルスの形態]
自己増殖していくための遺伝情報は,ウイルスにおいてもまた核酸によって担われているが,高等生物の遺伝情報はDNAに限られるのに対して,ウイルスの場合にはRNAのときもある。…
…太陽が巨蟹宮に入ると夏至になることから,カニは夏の到来,さらにこれ以後日が短くなるために〈死〉を暗示するイメージを伴うようにもなった。なお,癌を英語でキャンサーcancer(カニの意)と呼ぶのは,その患部がゴツゴツとしてカニの甲を思わせるためであろう。ギリシア神話では,ヘラクレスと闘う水蛇ヒュドラ(干ばつの象徴)に加勢し,英雄のかかとを挟んだ動物カルキノスKarkinosとして登場する。…
…実際の医学的利用では,(1)血流変化から病変部位を推定すること,(2)病変の回復経過を観察することに主眼がおかれる。たとえば皮膚表層に近い癌では,血管増生の多いこと,代謝速度の速いことなどから,当該部位の温度は他の部位に比較して高い。また炎症性病変の存在部位も高温を示す。…
…日本では,死亡診断書や死体検案書において,自然死,自殺,他殺など12種に分類している。日本における主要死因は近年ほぼ一定で,いわゆる三大死因は永らく,脳卒中(脳血管疾患),癌(悪性新生物),心臓病(心疾患)の順であった。このうち,脳卒中による死亡率が低下する反面,癌の上昇が著しく,1981年に至り,ついにこの上位2者は入れ替わり,5位までの死因順位は,(1)癌,(2)脳卒中,(3)心臓病,(4)肺炎・気管支炎,(5)老衰となった。…
…成人病とは悪性新生物(癌),脳血管疾患,心臓疾患など,主として40歳以上の成人,老人の主要な疾病を総称して名づけられたものである。第2次大戦後,栄養状態の改善やサルファ剤,抗生物質などの出現にともない感染性疾患が大幅に減少し,これらに代わって悪性新生物,脳血管疾患,心臓疾患など老化と結びついた変性疾患が増大してきた。…
…しかし痛みとしての自覚が少ないために重大な病気に気づかず見のがされ,気がついたときには末期的な状態の場合も多い。
[胃癌,結腸癌,直腸癌,膵癌など腹部の癌]
中年以降に多いものであるが,30歳,20歳代にも起こることを知っておかねばならない。癌の初期は痛くないといわれているが,これは痛みとは無関係であるという意味で,癌の早期発見には痛みは関係ないことをいい表したものである。…
…このほか,性腺の萎縮と機能低下,老眼による視力の低下などがみられる。(7)老化と癌 癌による死亡は40歳代から増加し始め,50歳代以降急増する。この傾向は胃癌,肺癌,肝臓癌で著しい。…
※「癌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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