改訂新版 世界大百科事典 「発酵工業」の意味・わかりやすい解説
発酵工業 (はっこうこうぎょう)
微生物が各種の物質を生分解し,あるいは生合成する機能を,有用物質の生産などに利用する工業。広義には醸造工業も含めるが,醸造においては,原料中の各種成分が複雑な微生物作用によってそれぞれ変化し,その総合によって食品がつくりあげられるのに対し,発酵工業は特定の微生物を用い特定の化合物を生産する工業をいうことが多い。発酵とは初め酸素のない状態(嫌気)での微生物代謝をいっていたが,現在では酸素の存在下(好気)における代謝をも含めるようになり,むしろ好気的な発酵工業が主となっている。また生産物には,微生物がエネルギーを獲得したり菌体をつくるなど,生命維持のため不可欠な代謝活動の結果生成する代謝産物(一次代謝産物)と,必ずしも必須でない代謝の産物(二次代謝産物)とがある。
発酵工業の発達史
酒類や酢の醸造,パンの製造などは古代から行われていたが,微生物に対する認識はなく,原料を放置して待つ自然発酵であった。17世紀後半になって,A.vanレーウェンフックが初めて微生物を観察し,19世紀後半になって,L.パスツールは発酵が微生物の働きによることを明らかにし,R.コッホやハンセンEmil Christian Hansenは微生物を純粋に分離した。さらにE.ブフナーが19世紀最後に,発酵がすりつぶした細胞でも起こることを認め,酵素の概念を確立してから酵素化学的研究が進み,解糖作用やクエン酸回路などの代謝経路が明らかにされた。これらの研究を背景として,19世紀末から20世紀の初頭には,酢酸,乳酸,クエン酸などの工業生産が開始され,アルコール製造工業も開発された。第1次大戦のころにはブチルアルコールやアセトンの製法が,第1次大戦後には微生物酵素の生産が開始された。アセトン,ブチルアルコールの発酵残渣(ざんさ)からビタミンB2を回収する工業も始められ,微量ではあるが高価な生産物の工業が始まった。また酵母の発酵にサルファイトを加えグリセリンを製造するプロセスは,発酵転換利用の道を開いたが,さらにD-ソルビットをL-ソルボースへ酸化変換し,ビタミンCを製造する方法の開発は,微生物の機能利用拡大として注目されるものであり,その後ステロイドの変換などに発展していった。1928年A.フレミングによってペニシリンが発見され,40年H.W.フローリー,チェーンE.B.Chainによって生産プロセスが開発された。次いで44年S.A.ワクスマンのストレプトマイシンの発見につづいて抗生物質が続々と工業化された。これは微生物のうえでは放線菌などの新しい微生物群へ,生産物のうえでは二次代謝産物へと拡張したことで画期的であり,さらにジベレリンなどの生理活性物質工業へと発展していった。
一方,第2次大戦中にエチルアルコールの需要が増大したが,西欧で行われていた麦芽によるデンプン分解より,東洋のカビ酵素による分解法の有利性が認識され,アメリカでカビをタンク内で通気攪拌(かくはん)培養するいわゆる液体こうじの製造法が始まった。これは抗生物質工業とあいまって微生物好気培養技術の進歩を促した。戦後になってさらに発酵工程の機械化,連続化がすすみ,化学工学的手法の導入による殺菌,通気攪拌,微生物の分離,生産物の回収などのプロセスの合理化が行われ,発酵工業も近代化学工業として確立された。56年木下祝郎らによって発酵法によるL-グルタミン酸の製法が開発されたが,1950年代から分子生物学者によって,DNA→mRNA→タンパク質という生物学のセントラル・ドグマおよびその遺伝的制御過程が解明され,それをもとにタンパク質や核酸生合成の中間体でそれまで大量に蓄積できなかったアミノ酸やヌクレオシド,ヌクレオチドを直接発酵生産する代謝制御発酵が開花した。50年代から石油化学工業が大きく発展して,ソルベント(溶剤),有機酸からビタミンにいたるまで安価に合成されるようになり,付加価値の比較的小さい原料費がコストの大部分を占める発酵生産物は,工程の合理化程度では競争できなくなり,発酵工業も大量安価な石油,天然ガスに原料を転換する必要にせまられて,いわゆる石油発酵の開発が進められた。SCP(微生物タンパク)をはじめ,多種の生産物がノルマルパラフィンやメチルアルコールなどの石油化学製品から製造できることが示されたが,その後の石油の値上がりなどのため,SCP,クエン酸など一部が工業化されただけである。しかし最近ジカルボン酸,ソホロースリピドの工業化が伝えられ,その成果がみのりつつある。
発酵工業の特色
発酵工業は化学工業に比べ次のような特色があげられるであろう。まず利点としては,(1)目的の反応を行わせる微生物を,土壌など天然物から検索分離でき,比較的容易に改良,育種できる。(2)通常,常温常圧で反応が進行するから省エネルギー的であり,食品などの品質を損なうことが少ない。比較的反応速度が大きく酵素も安定なので,高温菌が有利とされているが,温度は100℃以下である。pHについても酸性あるいはアルカリ性で働く微生物が注目されているが,一般には微酸性ないし中性で行われる。(3)生物反応は数十の反応工程を,あたかも単一反応のように容易に進行させうる。複雑な高分子化合物をも単純な原料から生産できる。(4)酵素を触媒とする生体反応は高度の選択性があり,特定の基質の特定の部位の加水分解,酸化,還元,官能基の導入などが行われ,光学活性や立体特異性をもつ生産物を生成する。(5)装置は比較的構造の簡単な発酵槽が用いられ,汎用(はんよう)が可能である。一方,欠点としては,(1)雑菌あるいはウイルスの汚染の被害が甚大であり,十分な警戒が必要である。(2)生物反応であるので失活しやすく,また工程管理がやや複雑である。近年安定化や計測管理手法が発達してきた。(3)化学反応に比べて反応速度が必ずしも大きくなく,反応は水系であって生産物の濃度が一般に低く,回収経費が大である。最近,非水溶媒系の微生物または酵素反応が注目されている。
発酵工業の現状
分野別に発酵工業を概観すると次のようである。(1)菌体および菌体成分の利用 キノコは食用として多量に生産されている。微生物はタンパク質が多く,ビタミンを含むので,酵母,細菌,藻類の菌体は飼料あるいは保健剤として利用される。酵母の発酵能はパン酵母として大量に,また乳酸菌は整腸剤として用いられる。ビタミンB12は微生物が唯一の給源である。核酸を抽出して酵素分解し,呈味ヌクレオチドがつくられる。(2)溶剤 飲料用エチルアルコールは発酵でつくられており,日本では現在行われていないが,嫌気発酵でアセトン,ブチルアルコール,イソプロピルアルコールが生産される。グリセリン,2,3-ブタンジオールも生産可能である。(3)有機酸 酢酸,乳酸,クエン酸,グルコン酸,コハク酸がつくられている。主として食用であるが,グルコン酸はグルコノラクトンとし,豆腐製造凝固剤として生産が増大した。2-ケトグルコン酸は抗酸化剤,イソビタミンCの原料となる。(4)アミノ酸 調味料としてL-グルタミン酸が,栄養剤,飼料添加剤としてL-リジンが大量に生産されている。またL-イソロイシン,L-トレオニン,L-アルギニン,L-トリプトファンをはじめ十数種のアミノ酸が発酵により生産されている。(5)核酸関連物質および補酵素類 5′-イノシン酸,5′-グアニル酸などの呈味ヌクレオチドが,直接発酵法または発酵でヌクレオシドをつくり,化学的にリン酸化する方法で製造されている。医薬または試薬としてATP,FAD,NAD,CDPコリン,コエンザイムA(CoA),コエンザイムQ10がつくられている。(6)抗生物質など β-ラクタム,アミノ配糖体,マクロライド系,クロラムフェニコールおよびテトラサイクリン系の抗生物質,ポリエン系を中心とする抗真菌性抗生物質,抗ウイルスまたは抗腫瘍性物質など発酵工業の大きな分野になっている。キノコの多糖,核酸塩基のアラビノシドも抗腫瘍剤として用いられている。農薬用抗生物質もある。また植物生長促進剤として,ジベレリンが農業用に用いられている。(7)酵素 酵素の給源はほとんど微生物によっており,食品加工,医療,診断用などに多種の酵素がつくられている。生産量の多いものはアミラーゼ,プロテアーゼ,凝乳酵素,リパーゼ,セルラーゼ,グルコースイソメラーゼなどである。(8)その他の生産物 デキストラン,プルランなどの多糖類,オリゴ糖,シクロデキストリン,色素,凝集剤,界面活性剤などが生産される。(9)微生物変換 微生物の光学特異的,立体特異的な加水分解,酸化還元,転移などの反応を利用して,合成DL-アミノ酸の光学分割,L-アスパラギン酸,L-リジン,D-p-ヒドロキシフェニルグリシンなどがつくられている。D-ソルビットのL-ソルボースへの変換はビタミンC製造の重要な工程である。また医薬の大きな分野である副腎皮質・性ホルモンの製造法では,微生物のステロイドの水酸化,脱水素,水素添加,エポキシ化,側鎖の分解反応が重要な位置を占めている。
発酵工業の展望
資源問題と環境問題は現代の重要課題である。人口の増加と人間活動の増大は,エネルギー,食糧,化学工業原料などの枯渇を招く一方,廃棄物による環境の汚染をもたらしている。その解決に微生物の果たす役割は小さくないと考えられる。農林畜産廃棄物,都市廃棄物,未利用資源などのいわゆるバイオマスから,ソルベント,有機酸,メタン,水素などの燃料物質,化学工業原料あるいは食料,飼料などの生産プロセスが開発されつつある。二酸化炭素を固定する微生物の活用は,植物の有機物生産能を補って,資源問題に一つの展望を与えると考えられる。それは廃棄物,汚染物質を資源循環の輪に入れる一方,環境汚染防止に役だつからである。遺伝子組換え,細胞融合,細胞培養,バイオリアクターなどのいわゆるバイオテクノロジーの急速な発展が,発酵工業に大きなインパクトを与えている。新しい育種法は微生物機能を飛躍的に増大するばかりでなく,他の生物の遺伝子,合成遺伝子の導入によって,ホルモン,免疫物質など微生物の物質生産能に新たな展望を開いた。また発酵工業における微生物培養技術は,動植物の細胞培養にも大きく貢献するであろう。酵素,オルガネラ,細胞の固定化技術も微生物を中心として開発され,バイオリアクターに組み入れて,省資源,省エネルギー的な物質生産を可能にしつつあり,またセンサーなどとして医療,診断への応用も広がりつつある。
執筆者:蓑田 泰治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報