相模国(読み)サガミノクニ

デジタル大辞泉 「相模国」の意味・読み・例文・類語

さがみ‐の‐くに【相模国】

相模

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日本歴史地名大系 「相模国」の解説

相模国
さがみのくに

南は相模湾に面し、東・北は武蔵国、西北は丹沢たんざわ山塊を隔てて甲斐国、西南は箱根・足柄あしがらの山々を隔てて駿河国・伊豆国に隣接する。「風土記稿」によれば、東の武蔵国多摩郡との境は一時期は高座たかくら川より二―三町東の山の続く辺りに置かれ、のち同川が相武国境となり川名もさかい川と改められたという。西南伊豆国との境は足柄下あしがらしも郡西方の峰通りと定められていたが、元禄一三年(一七〇〇)以降北寄りの藤木川ふじきがわ(門川)が境と決められた。

古代

〔国の成立〕

「日本書紀」天武天皇四年一〇月二〇日条に「是の日に、相模国言さく、「高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めり」とまうす」とあり、国名・郡名がみえる。国名は「和名抄」に「佐加三」と訓ずるが、「古事記」に「佐賀牟」と記され、また相武・相模の用字から、古くは「さがむ」であったと考えられる。郡は足上あしかみ足下あししも余綾よろき(のち淘綾)大住おおすみ御浦みうら高座たかくら・鎌倉・愛甲あいこうの八郡、「和名抄」には六七郷があげられている。

令制の国・郡が設定される以前、早くから大和朝廷に服属したようで、「国造本紀」には相武さがむ国造と師長しなが国造が置かれたとみえ、前者は相模川流域、後者は余綾郡一帯から足柄平野付近を支配していたらしい。また「古事記」景行天皇段では倭建命の王子の子孫が「鎌倉之別」となったと伝え、鎌倉郡から三浦半島の支配者かと推定される。二宮の川匂かわわ神社(現中郡二宮町)は師長国造の祀った神で、一宮の寒川さむかわ神社(現高座郡寒川町)など相模川沿いの古社は瓢箪塚ひようたんづか古墳(現海老名市)真土大塚山しんどおおつかやま古墳(現平塚市)大神塚おおじんづか古墳(現寒川町)などの大古墳とともに相武国造と深い関係があるらしい。「古事記」景行天皇段には倭建命の東国征討の際相武国造に欺かれて火難にあったり、走水はしりみずの海を渡るとき非常に荒れたので弟橘比売が命に代わって入水し、その時

<資料は省略されています>

と歌ったという話、征討を果して帰国の際、足柄坂の上で「吾嬬あづまはや」と三嘆したので、以後坂より東を「あづま」とよんだなどの説話を載せる。

令制施行で設けられた相模国府の所在地は、「和名抄」の大住郡説、「伊呂波字類抄」の余綾郡説、国分寺の所在からの海老名えびな説、および足柄説などがある。海老名説は江戸時代末期の「風土記稿」以来最初の国府の地として定説化しており、次に元慶二年(八七八)あるいは弘仁一〇年(八一九)に大住郡に移り、天養年間(一一四四―四五)から保元三年(一一五八)の間に余綾郡に移転したといわれてきた。余綾国府は現在の中郡大磯町国府本郷こくふほんごうにあてられ、大住国府は現伊勢原市さんみや説、秦野はだの曾屋そや付近の御門みかど説、平塚市四之宮しのみや説や、平塚八幡宮(現平塚市)の付近とする説などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模(摸)国 (さがみのくに)

旧国名。相州。現在の神奈川県。

東海道に属する上国(《延喜式》)。現在は〈相模〉と書くが,奈良時代の国印は〈相摹〉(摹は摸と同字)となっている。《古事記》は〈相武〉と書いて〈佐賀牟〉とよみ,《和名類聚抄》は〈相摸〉と書いて〈佐加三〉と呼んでいる。大化改新前には国内に師長(しなが)国造,相武国造,鎌倉別(わけ)が存在しており,これら三つの政治圏は,相模国内のそれぞれ西部地域(酒匂川流域),中央地域(相模川流域),東部地域(鎌倉,三浦郡辺)を基盤としていたと推測される。伝承としては記紀の日本武尊東征説話に,走水の渡海に際して弟橘媛が入水した話や,日本武尊が足柄坂で弟橘媛をしのんで〈吾婕(あづま)はや〉と三嘆したという話などに〈相武〉の名が見える。しかし,相模という国名と郡の存在を示す文献上の初見は,675年(天武4)10月20日相模国から高倉(高座)郡の女人が三つ子を生んだことを言上したと記す《日本書紀》である。令制における相模国は上国(国司は守,介,掾,目各1人)とされていたが,735年(天平7)には国司が5人(守,介,掾,大目,少目各1人)いることが知られ(《正倉院文書》),行政上大国の扱いをうけていたと思われる。

 国内は足上,足下,余綾(よろき)(のち淘綾(ゆるき)),大住,愛甲(あゆかわ)(のち愛甲(あいこう)),高座(たかくら)(のち高座(こうざ)),鎌倉,御浦(みうら)(のち三浦)の8郡に分かれていた(中世以降は津久井県(つくいがた)を加え9郡となる)。足上,足下郡はもと〈安思我良(あしがら)〉(《万葉集》)といったのが上下2郡となったもので,のちには足柄上郡,足柄下郡と呼称するようになる。写経所の裏文書として正倉院に伝来した天平7年の〈相摸国封戸租交易帳〉によると,相模国では8郡にわたって4162町余,1300戸(50戸=1郷として26郷に相当)が封戸にあてられていた。給主となっているのは皇族(特に舎人親王以下天武天皇一家に集中している),政界の有力者(右大臣藤原武智麻呂),国家的大寺(大安寺)等である。《和名類聚抄》によると9世紀ごろの相模国の水田は1万1236町余,郷数は67である。この数値を参照すれば,水田も人民も相模国の40%近くが封戸にあてられていたことになる。相模の国府所在地については諸説がある。(1)国分寺址と推測される高座郡(海老名市),(2)《和名類聚抄》に記す大住郡,(3)《伊呂波字類抄》(12世紀成立)に記す余綾郡(大磯町),(4)国分寺址と推測される小田原付近(近年の説)。前後関係の推測できる大住郡から余綾郡への移遷を根拠として,2遷ないし3遷の可能性が唱えられている。《延喜式》神名帳には相模国内の神社として寒川神社以下13社が載せられている。

律令国家にとって辺境の地であった東国は,10世紀から11世紀にかけて内乱をくりかえした。この間に桓武平氏の流れをくむ武士や藤原秀郷の流れをくむ武士等が開発領主(武士団)として成長し,一方源氏一族は鎌倉を拠点として武家の棟梁の地位にのし上がっていった。相模における有力武士団として,三浦氏,和田氏,中村氏大庭氏梶原氏,鎌倉氏,渋谷氏波多野氏山内首藤氏糟屋氏,大友氏等があげられる。彼らは在地の有力者であり,国衙の在庁官人となって人民を支配した。国における中央の圧力(目代の権力)をかわし,競争からぬきんでるため,開発した所領を中央の権門勢家に荘園として寄進し,自身は荘官となって現地支配を行うものもあらわれた。中世初期に存在した国内のおもな荘園は大井荘,成田荘,早河荘,中村荘,河勾荘,波多野荘,糟屋荘,毛利荘,渋谷荘,吉田荘,山内荘,三浦荘,大庭御厨等である。1180年(治承4)8月伊豆配流中の源頼朝が北条氏等の援助をえて挙兵すると,相模武士の多くは平家方としてこれに対抗した。しかし2ヵ月後頼朝が鎌倉に入ってのちは,初めから頼朝を支持した三浦氏以下ほとんどが御家人となって幕府設立に力をつくした。相模国は源家将軍の知行国となり,三浦氏がその滅亡(1247)まで守護であった。その後鎌倉時代は守護不設置で,幕府の政所・侍所によって守護の職権が分掌されていたと推測される。いっぽう相模守は北条氏が独占した。

 武士のまち鎌倉には,御家人たちの刀剣の需要を満たす必要があったからであろう,いわゆる鎌倉鍛冶,相州鍛冶が存在した。新藤五国光,五郎入道正宗らが特に有名である。また将軍・御家人の崇敬をあつめた鶴岡八幡宮は,11世紀中ごろ源頼義が石清水八幡宮を勧請したのを始まりとする。いっぽう北条氏を中心に禅宗が信仰され,円覚寺,建長寺等の創建をみ,のちの鎌倉五山の制の基礎が形成された。

 正中の変,元弘の乱を経て,後醍醐天皇方と通じた新田義貞,足利義詮が1333年(元弘3)5月鎌倉を攻撃,5月22日幕府の実権を握る北条高時が自害し,北条氏は滅び幕府も滅亡した。このときの合戦で戦死したと推測される人々の骨900余が鎌倉材木座海岸から発掘されたのは有名である。後醍醐天皇の建武政権下,相模守足利直義が兄尊氏の意向により,成良親王を奉じて鎌倉に下り,関東10ヵ国を管領した(鎌倉将軍府)。35年(建武2)11月鎌倉で建武政権に反した足利尊氏は,翌年京都を占拠し幕府を開いた。鎌倉時代の武家政権の本拠地鎌倉には義詮がおかれ,関東10ヵ国(室町以降12ヵ国となる)を管轄する地方機関鎌倉府が成立した。相模国は政庁の所在地として重要視され,鎌倉公方足利氏と信頼関係にある上杉氏,三浦氏,一色氏等が守護をつとめた。永享の乱(1438-39)で鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に討伐されたあと,相模国に勢力を張ったのは上杉氏であった。永享の乱終結から10年後持氏遺児成氏が鎌倉府を再興したが,成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した(1454)ため,足利氏と上杉氏との対立が激しくなり,足利氏は鎌倉を脱出し,1455年(康正1)鎌倉府は滅亡した。その後,上杉氏の内紛を中心に争乱が続き,相模国内も戦乱の巷となった。

 1495年(明応4)伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)が相模小田原城を襲い,城将大森氏を追って本拠地とした。後北条氏は本拠小田原城を中心に支城玉縄城を設けて,相模国内の支配を確立し,さらに勢力圏を広げていった。やがて関東一円に覇を唱え,周辺に勢力を張る上杉,武田,今川氏等と抗争を繰り返した。天下統一を図ろうとする豊臣秀吉の招きを拒み,1590年(天正18)7月秀吉の討伐をうけて小田原城は陥落した。後北条氏の時代にこれまでの郡の呼称を廃止し,三浦郡のほかは東郡(鎌倉,高座郡),西郡(足柄上,足柄下郡),中郡(愛甲,大住,淘綾郡)と呼称したが,後北条氏没落後もとに復した。
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1590年8月徳川家康は江戸へ入城し関東8ヵ国の経営に着手するが,相模国へは91年に知行割を実施した。この結果国の西端で江戸から最も離れた足柄上郡,下郡に小田原藩大久保忠世4万石を配し,三浦郡・淘綾郡・津久井郡を徳川氏直轄領,大住郡・愛甲郡・高座郡を直轄領と旗本領とし,また鎌倉郡には直轄領のほかに伝統のある有力寺社の所領を旧来より大幅に削減し,ここにまとめた。結果として箱根の嶮を先端とし西方より江戸への関門に小田原藩を,国内の交通や軍事上の要衝を直轄領,この内部で特に相模川両岸の生産性の高い地域が旗本領となった。各所領の石高は,94年(文禄3)現在国高19万4200石余のうち,直轄領約10万6900石余,小田原藩4万石,旗本領約4万石,寺社領約7300石余で,国全体の約5.5割弱が直轄領である。この直轄領は代官頭彦坂元正(鎌倉郡岡津陣屋),長谷川長綱(三浦郡浦賀陣屋),伊奈忠次らが管掌した。この後特に寛永~元禄年間(1624-1704)にかけて諸藩の飛地が交代で設定され,1729年(享保14)愛甲郡厚木村に下野国烏山藩大久保氏の,83年(天明3)には愛甲郡中荻野村に荻野山中藩大久保氏の陣屋が設立された。さらに後期には海岸防備のため,三浦半島中心の海辺の村々は彦根藩をはじめ諸大名交代による短期間ごとの支配が幕末まで続き,近世を通し相模国には36藩が出入した。旗本領も1633年(寛永10),97年(元禄10)の地方(じかた)直しにより広範に設定され,寛永年間以後は幕領減少が進み,国内の所領は旗本領が中心となった。

国の規模は古くは1594年554村・19万4204石であるが,以下1644年(正保1)605村・22万0617石・永1596貫文,1702年679村・25万8216石・永1348貫文,1834年(天保5)671村・28万6719石・永1346貫文,68年(明治1)679村・29万0914石・永1322貫文である。1594-1868年の274年間に125村・9万6710石増加しているが,特に近世前期の1644-1702年の58年間の74村・3万7599石の増加が顕著である。なお相模国には石高のほかに永があるが,これは鎌倉の寺社領高で相模国だけの特色である。人口については古くはわからないが,1721年31万2638人を上限に,46年(延享3)31万0796人,56年(宝暦6)30万5569人,86年27万9427人,98年(寛政10)27万7211人,1804年(文化1)27万8081人,22年(文政5)26万9839人,34年29万4009人,46年(弘化3)30万3271人となる。1721年以降漸減し特に天明の飢饉では最低となるが,以後漸増を続け天保の飢饉による人口減少はみられない。

 前記国高増加の基因の一つに本田畑持添の開発と新田開発がある。新田開発は古くは天正~元和年間(1573-1624)の足柄下郡新屋村,慶長年間(1596-1615)に賀茂宮新田,また他の6新田が万治年間(1658-61)に開かれた。さらに三浦郡内川新田も同時期の開発であるが,このころになると広漠とした相模原台地の原野が切り開かれ,延宝年間(1673-81)に高座郡矢部新田を上限に開発が続いた。1856年(安政3)高座郡清兵衛新田205町余の開墾は,相模国における近世の最後にして最大の開発である。相模国に実施された検地は大別して天正~慶長年間,万治~元禄年間の2期となる。各所領とも1591年が最初で,直轄地-1月3日三浦郡野比郷,小田原藩-1月23日足柄下郡小竹郷,旗本領-1月29日足柄上郡井ノ口村米倉領に,また鎌倉の寺社領にもこのときに行われた。以後1594年,1603・04年検地で全村に対する第1回の検地が終わった。第2回は1659年小田原藩稲葉氏の万治総検をはじめ,小田原藩以外の藩領と幕領・旗本領は寛文~延宝年間(1661-81)に総検地が,また一部の幕領と藩領に貞享~元禄年間(1684-1704)に総検地が行われ,相模国の総検地はこれで終了した。

国内の重要な交通には,陸上の東海道,甲州道中,矢倉沢往還,河川は相模川がある。東海道には戸塚藤沢平塚大磯小田原箱根宿があり,藤沢~小田原宿は1601年(慶長6),戸塚宿は04年,箱根宿は18年(元和4)に開設された。甲州道中は国の北端をかすめ,津久井郡小原,与瀬,吉野,関野宿がありこれを相州四ヵ宿という。矢倉沢往還は国の中央を横断し,別に大山街道と称し大山参詣をはじめ庶民の道として広く利用された。幕末の1862年(文久2)には世情不穏のため,東海道品川~平塚宿を矢倉沢往還へ付け替える計画がされた。河川の場合,酒匂川で筏流しが行われたが,舟運は相模川に限られた。筏流しのほかに高瀬舟で上流から年貢米と炭等の林山製品を川下げし,帰りは塩・干鰯(ほしか)等をのぼせた。上流の津久井郡太井村には幕府管轄の荒川番所があり,流通の荷物に五分一運上金を課した。海上交通は三崎,走水,浦賀,柳島,須賀,山西,真鶴等の湊を基点とした。特に三浦半島の三崎~浦賀は海上から江戸への入口として重要な立場にあった。三崎,走水は1590年(天正18)から水軍の拠点で船奉行が警備した。浦賀番所には1721年(享保6)浦賀奉行が置かれ,江戸への船と積荷はすべてここで査検した。

 国内の物産や産業にはおよそ次のようなものがある。足柄方面では根府川石を中心とする石材を産出し,古くから江戸城の普請や江戸の建設に使われた。また通称相模柑子はこの地の特産で将軍へ献上された。大住郡では近世中期からタバコの栽培が進み,今も波多野煙草として続いている。山間地域では良質な炭が焼かれ,愛甲郡三増村周辺の炭は江戸城で使われた。津久井郡では漆や紬が年貢の対象になり,紬は川和紬と称され,また柏葉は漁網の染料として海付へ出された。漁業は鎌倉~小田原にかけての砂浜漁業と,三浦半島と真鶴辺の磯漁業に分かれる。アジ,イワシ,カツオ,紫菜等が中心で,特にカツオ漁は広く行われ須賀村のカツオは御菜鰹となった。三浦半島では塩が製された。相模川のアユも著名であるが,北相の道志川のアユは鼻曲り鮎といわれ将軍へ献上された。このほか著名な産業に小田原細工と中世からの伝統技術である漆工芸の鎌倉彫がある。

学芸としては和歌と俳諧が知られる。和歌は小田原藩主大久保忠真,大住郡下大槻村名主原久胤,円覚寺住職誠拙らは高名であるが,1867年(慶応3)刊《類題新竹集》には国内の歌人80名がみられる。庶民文芸の俳諧は活発で,西行法師ゆかりの大磯宿鴫立庵が1695年再興され相模俳壇の中心となった。また北相では法師流が広く進展した。庶民教育の寺子屋は鎌倉郡阿久和村小林清兵衛の塾が最も古く,近世を通じ123校が確認できる。安政~慶応年間(1854-68)が最盛期で,地域としては三浦郡,足柄上郡,高座郡が特に多い。

 近世の国内を通してみると多くの災害や騒動がある。災害の例としては1703年大地震がある。倒壊家屋6300軒,小田原城の天守閣は落ち,鶴岡八幡宮の鳥居が折れた。1707年(宝永4)富士山噴火による砂降りにより,相模国は大きな被害をうけた。河川の流れは変わり,小田原藩は存続できず領地替えされた。所により降砂の後遺症は幕末まで続いた。騒動は古くは小田原藩の万治総検に反対し処刑された下田隼人一件があるが,天明,天保飢饉時の騒動が大きい。1787年津久井郡,愛甲郡北部におきた米価高騰による酒屋打毀は土平治騒動といわれ,参加人数1万人とも記され,国内では最も大きなものであった。首謀者土平治は処刑前に死亡したが,その墓碑が現存する。1836年には大磯宿でも同様な騒動が発生した。

 1853年(嘉永6)6月,三浦半島浦賀へペリーが来航し泰平の夢は破れた。67年12月には,薩摩藩邸浪士を中心とした討幕=挙兵運動の一つとして大久保氏の荻野山中陣屋が浪士隊に襲撃され,陣屋は一夜にして灰燼に帰した。68年高座郡等3郡が神奈川府に編入,71年鎌倉郡,三浦郡が神奈川県,大住郡等7郡が足柄県に編入された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国
さがみのくに

旧国名。律令(りつりょう)体制によって設けられた国名で、東海道の一つ。上国。関東平野の南西に位置する。東・北は武蔵(むさし)、北西は甲斐(かい)、南西は駿河(するが)・伊豆、南は相模灘(なだ)に面する。現在の神奈川県の大部分にあたる。国名は『古事記』で相武(さがむ)、『和名抄(わみょうしょう)』で佐加三(さがむ)とある。現在は通常、相模、古くは相摸と書いた。古代の相模は相模川・酒匂(さかわ)川流域を中心として政治・文化圏が形成、4~5世紀に大和(やまと)政権に服属した。国内の郡は『延喜式(えんぎしき)』によると、足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)(のち足柄上(あしがらかみ)・下郡)、余綾(よろき)(のち淘綾(ゆるぎ))、大住(おおすみ)、愛甲(あゆかわ)、高座(たかくら)、鎌倉、御浦(みうら)(のち三浦)の8郡からなる。国府は初め国分寺のある高座郡海老名(えびな)に、のち余綾・大住郡へ移転したとの説が有力である。『正倉院文書』天平(てんぴょう)7年(735)「相模国封戸租(ふこそ)交易帳」によると国内には光明(こうみょう)皇后らの封戸1300戸、4126町余があり、『和名抄』には田畠1万1236町余、人口約10万2000人とある。『延喜式』によると足柄~浜田(海老名)から武蔵に至る官道があった。11世紀末から荘園(しょうえん)が成立し武士団が成長した。たとえば足柄下郡曽我庄(そがのしょう)・土肥氏、大住郡波多野庄・波多野氏、愛甲郡毛利庄・毛利氏、高座郡渋谷庄・渋谷氏、大庭御厨(おおばのみくりや)・大庭氏、三浦郡三浦庄・三浦氏がある。

 1192年(建久3)源頼朝(よりとも)が鎌倉に幕府を開設、相模国は武家政権の中心地として将軍家の知行(ちぎょう)国となった。相模の武士団は頼朝挙兵から幕府創業期に御家人(ごけにん)の中核となった。源氏滅亡後、北条氏執権(しっけん)政治が確立、その治下に鎌倉五山を中心とする仏教が興隆した。南北朝内乱以後、相模国は関東管領(かんれい)支配となり、15世紀永享(えいきょう)の乱後、国内は内乱が続き、1495年(明応4)戦国大名北条早雲が小田原城に拠(よ)り、5代、1世紀の間関東を支配し、相模は西郡、中郡、東郡、三浦郡と津久井に編成された。

 1590年(天正18)北条氏滅亡、徳川家康の関東入国により、相模国554か村のうち徳川氏直轄領275か村(49.6%)、旗本領73か村(13.3%)、国の西部足柄上郡・下郡は小田原藩大久保忠世(ただよ)領となり、中世から伝統のある鎌倉には寺社領12か村が設けられた。また1594年(文禄3)国高19万4200石のうち、直轄領約10万6900石、小田原藩領4万石、旗本領約4万石、寺社領等7300石がある。こののち国内に関宿(せきやど)藩領をはじめ諸藩領が設定されたが、小田原藩のほかに六浦(むつら)藩、烏山(からすやま)藩、佐倉藩、荻野山中(おぎのやまなか)藩領が幕末まで続いた。この間、1633年(寛永10)、97年(元禄10)地方直(じかたなお)しにより国内所領は分給・分散による旗本領が中心となった。1691年、戦国時代からの津久井領が津久井県に改称、全国でもまれな県という行政単位が用いられた。

 近世の国内は開発が進み、相模原台地を中心に多くの新田が創出された。産業・物産には、足柄地方のミカンや石材、大住郡秦野(はだの)の煙草(たばこ)、津久井地方の漆、紬(つむぎ)、柏葉(かしわのは)(漁網の染料)などがあり、相模灘に面した大住郡須賀(すか)村のカツオは「御菜(ごさい)初鰹」として、また相模川のアユも将軍に献上された。文化も江戸との関係から盛んで、淘綾郡大磯(おおいそ)の鴫立庵(しぎたつあん)は相模俳壇の中心となった。また北相では自在庵派が栄えた。1853年(嘉永6)三浦半島浦賀にペリーが来航、日本の封建制は破れ、68年(慶応4)神奈川十里四方の大住郡、愛甲(あいこう)郡、高座(こうざ)郡、鎌倉郡、三浦郡の一部が神奈川府(のち神奈川県)、71年(明治4)廃藩置県により、11月鎌倉郡、三浦郡が神奈川県に、足柄上郡・下郡、淘綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、津久井郡が足柄県に編入され(76年神奈川県となる)、相模国は消滅した。

[神﨑彰利]

『『神奈川県史』全36巻38冊(1971~85・神奈川県)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国
さがみのくに

現在の神奈川県の一部。東海道の一国。上国。『古事記』には相武国とある。相模は『正倉院文書』の古印に「相も」とあるので「摸」の字をあてるほうがよいと考えられる。『旧事本紀』によれば,もと相武国造と師長 (しなが) 国造とがあり,前者は高座 (たかくら) 郡を中心とした地方,後者は『和名抄』に余綾 (よろき) 郡礒長郷とあり,相模湾沿いの海岸地方であろうとみられる。このほかに『古事記』には鎌倉之別 (わけ) があった。これはこの地方の有力豪族であろうと思われる。国府は初め現在の海老名市にあったが,のち大磯町に移ったとされている。国分寺は海老名市におかれた。『延喜式』には足上 (あしのかみ) ,足下,余綾,大住,愛甲,高座,鎌倉,御浦の8郡がおかれている。『万葉集』に足柄の地名がみえているが,これが足上,足下と分れたものであろう。『和名抄』には郷 66,田1万 1236町を載せている。平安時代中期以降,当国に住む武士がふえ,ことに平家の一族である三浦氏,和田氏,大庭氏をはじめ梶原氏,土肥氏が荘園により武力をたくわえ,源頼朝が挙兵するや鎌倉幕府の御家人として重きをなした。当国は幕府の所在地であったため,守護の三浦氏滅亡後は幕府直轄地となった。南北朝時代から室町時代にかけては鎌倉公方の支配下におかれ,永享の乱 (1438) で鎌倉公方が滅びると長く戦乱の巷となっていたが,やがて北条氏の支配となった。豊臣秀吉の時代には小田原に大久保氏が配され江戸時代にいたった。小田原は大久保氏から一時稲葉氏に代ったが,のち再び大久保氏の支配となり幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県で小田原県となり,1876年神奈川県となった。

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藩名・旧国名がわかる事典 「相模国」の解説

さがみのくに【相模国】

現在の神奈川県域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺は、ともに初め現在の海老名(えびな)市、のち国府は大磯(おおいそ)町に移ったといわれるが、初期国府の平塚市付近説もある。平安時代中期以降、土肥(どひ)氏、大庭(おおば)氏、梶原(かじわら)氏、三浦氏、和田氏など平氏(へいし)の流れをくむ土豪諸氏が活躍、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵を助け、鎌倉幕府の有力な御家人となった。鎌倉時代には将軍家の知行国(ちぎょうこく)となり、三浦氏が守護を務めたが、同氏滅亡後は不設置。南北朝時代から室町時代には鎌倉公方(くぼう)の支配に属し、末期には北条早雲を初代とする後北条(ごほうじょう)氏が小田原城を拠点に支配した。江戸時代には小田原藩領、旗本領、寺社領が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県により神奈川県と足柄(あしがら)県が誕生、1876年(明治9)に両県が合併、1893年(明治26)に多摩三郡が東京都に移管し、現在の神奈川県となった。◇相州(そうしゅう)ともいい、相摸国とも書く。

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百科事典マイペディア 「相模国」の意味・わかりやすい解説

相模国【さがみのくに】

旧国名。相州,相摸とも。東海道の一国。現在の神奈川県の大部分。《延喜式》に上国,8郡。鎌倉時代,三浦氏が一時守護。同氏滅亡後は守護不設置で幕府が直轄。室町時代には関東管領の直轄を経て,小田原を中心に北条氏が支配。江戸時代は大久保氏(小田原藩)がこれに代わり,天領,旗本領などが錯綜,明治に至る。→小田原征伐鎌倉
→関連項目大庭御厨神奈川[県]関東地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「相模国」の解説

相模国
さがみのくに

東海道の国。現在の神奈川県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)・余綾(よろき)・大住(おおすみ)・愛甲(あゆかわ)・高座(たかくら)・鎌倉・御浦(みうら)の8郡からなる。国府は高座郡(現,海老名市),足下郡(現,小田原市),大住郡(現,伊勢原市など)など諸説があるが,鎌倉初期には余綾郡(現,大磯町)に移転したらしい。国分寺は高座郡(現,海老名市)と,足下郡(現,小田原市)の千代廃寺に比定する2説がある。一宮は寒川神社(現,寒川町)。「和名抄」所載田数は1万1236町余。「延喜式」では調庸は各種の綾・布帛で,中男作物として紙・紅花・茜・鰒(あわび)・堅魚(かつお)など。駿河国との境の足柄(あしがら)坂は交通の要所で,坂東の地名の由来ともなった。平安後期には大庭・梶原・三浦氏らが勃興した。源頼朝は挙兵後幕府を開き,鎌倉はその中心地として栄えた。三浦氏が守護をつとめたが,同氏滅亡後守護はおかれなかった。室町中期には鎌倉公方がおかれ,関東を管轄した。戦国期には後北条氏が小田原に本拠を構えたが,豊臣秀吉に滅ぼされた。江戸時代は小田原藩領以外はすべて幕領と旗本領。1868年(明治元)横浜に神奈川県がおかれ,71年神奈川県と足柄県が成立。76年足柄県は神奈川県に合併。

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世界大百科事典(旧版)内の相模国の言及

【新編相模国風土記稿】より

…全126巻。相模国の総国図説から建置沿革,山川,名所,産物,芸文と各郡村里に分かれている。文書や記録も収録され,村の地勢,領主,小名,寺社,山川や物産等の記述は詳細で正確である。…

※「相模国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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