相模原(読み)サガミハラ

デジタル大辞泉 「相模原」の意味・読み・例文・類語

さがみはら【相模原】

神奈川県北部の市。昭和15年(1940)ごろから陸軍の軍用地として都市化し、工業団地住宅地として発達。昭和29年(1954)市制施行。平成18年(2006)に津久井町相模湖町を、翌年に城山町・藤野町を編入。平成22年(2010)指定都市となる。人口71.8万(2010)。
[補説]相模原市の3区
中央区緑区南区

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精選版 日本国語大辞典 「相模原」の意味・読み・例文・類語

さがみはら【相模原】

  1. [ 一 ] 神奈川県北部の地名。相模原台地の北部を占め、東京都に隣接する。昭和一二年(一九三七)以降、軍都として発展。第二次世界大戦後は工業団地、住宅団地がつくられた。昭和二九年(一九五四)市制。
  2. [ 二 ] 神奈川県中央部の台地。相模川と境川との間にひろがる。相模原、座間などの都市がある。古墳・遺跡が多い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「相模原」の意味・わかりやすい解説

相模原(市)
さがみはら

神奈川県北部にある市。1954年(昭和29)市制施行。2003年(平成15)中核市に移行。2006年津久井(つくい)郡津久井町、相模湖町(さがみこまち)を編入、2007年同郡城山町(しろやままち)、藤野町(ふじのまち)を編入。なお、この編入に伴い、津久井郡は消滅。2010年(平成22)政令指定都市に移行、緑(みどり)区、中央区、南区の3区が設置された。市域は、北を東京都、西を山梨県と接し、多摩丘陵から相模原台地、丹沢山地関東山地にかけての広域にわたり、東部北寄りは境(さかい)川の上流域、ほかは相模川とその支流の上流域に位置する。相模湖と津久井湖を含み、川沿いには河岸段丘が発達する。東部では、相模川がつくった3段の段丘が発達し、相模横山とよばれる丘陵がみられる。中心市街地は相模原台地北部にあり、内陸性工業と住宅の衛星都市として発展してきた。

 JR中央本線・横浜線・相模線と小田急線(小田原線と江ノ島線の分岐点)、京王電鉄相模原線、国道16号、20号(甲州街道)、129号、412号、413号が通じ、中央自動車道の相模湖インターチェンジ、相模湖東出口がある。

 相模川の段丘崖下(がいか)や境川河畔がまず開け、縄文(国指定史跡勝坂遺跡(かっさかいせき)など)、弥生(やよい)、古墳時代(谷原古墳群など)の遺跡が100か所以上みられる。古代には南東の海老名(えびな)地域が相模国府の地として栄えた。鎌倉時代に入って時宗(じしゅう)の開山一遍(いっぺん)が相模川河畔の当麻(たいま)に入り、前後3回もここに滞在し「一所不在」を旨とした一遍としては例外的な長期滞在地となった。そのゆかりで、のち無量光寺(むりょうこうじ)が建てられた。戦国時代には当麻を通る南北道は小田原と関東山地東麓(とうろく)地方との連絡道となり、当麻市場も設けられていた。江戸時代に入ると上溝(かみみぞ)が相模原台地の商取引の中心市場町となり、当麻の機能は人馬継ぎと相模川渡渉の渡頭集落が主となり、市(いち)は衰えて不定期に開かれるにすぎなかった。東部は古くから相模と甲斐(かい)を結ぶ交通の要地をなし、鎌倉時代には三浦一族の筑井義胤(つくいよしたね)が築井城(津久井城)を築いた(城山)。江戸時代に与瀬(よせ)、小原(おばら)、吉野、関野は甲州街道の宿場町であった。養蚕、製糸、絹織が盛んとなり、後期には相模川沿いの中野地区は脇(わき)往還の津久井往来が通じ、地元産の絹(川和縞(かわわじま))などの取引でにぎわっていた。相模川は水運に利用され、通船が河口の須賀(すか)浦(平塚市)へ通じていた。幕末に至って生糸輸出が開けてからは、台地一帯の桑園化が進められて養蚕が盛んとなり、貿易港横浜に近い有力な生糸生産地域となった。1937年(昭和12)以降、相模原台地上には陸軍の諸学校、工廠(こうしょう)、病院などの諸施設が設けられ、軍都化がここの都市化のきっかけとなった。第二次世界大戦後、これらの軍諸施設は米軍に接収され、基地の町となった。

 1954年の市制施行後、1958年には東接の町田市(東京都)とともに首都圏整備法による第一次市街地開発地域に指定され、市街地の造成と住宅・工業両団地の開発が進められた。そしていまは横浜線沿線がおもに工業地域、小田急沿線が住宅地域に変わりつつあり、首都圏内有数の人口急増地域となっている。東京都への通勤者が多い。農業では、かつては養蚕が主産業であったが、近年では露地野菜・果樹栽培や酪農・畜産が営まれ、とくに野菜や果樹の直売が盛ん。特産品の「やまといも」や「スイートコーン」は市場評価も高い。ほかにユズ、クリ、茶、山菜も特産。シイタケ栽培、ユズやウメの加工品開発、観光農業に力を入れている。林業、花卉(かき)や盆栽の生産も行われる。都市化の進行に伴い、遊休農地対策として市民農園や体験農業を推進している。

 国指定史跡として川尻石器時代遺跡(かわしりせっきじだいいせき)、寸沢嵐石器時代遺跡(すあらしせっきじだいいせき)、田名向原遺跡(たなむかいはらいせき)、同重要文化財として石井家住宅(非公開)などがある。相模川河畔の田名はアユ漁の名所、5月5日子供の日前後に行われる新磯地域の「大凧揚げ(おおたこあげ)」は有名。相模ダムが1947年に完成、相模湖周辺は東海自然歩道が通じ、県立相模湖公園・相模湖記念館、美女谷温泉(びじょだにおんせん)、さがみ湖プレジャーフォレスト、石老(せきろう)山など観光地が多く、小原宿の旧本陣(清水家住宅)も公開されている。1965年に城山ダムが完成して津久井湖ができ、釣りやボートなどの湖上スポーツなど観光利用も盛んとなった。周辺に県立津久井湖城山公園がつくられている。道志(どうし)・早戸(はやと)両川は好釣り場。民俗芸能の鳥屋(とや)の獅子舞(ししまい)には神事舞踊の特色がみられ県指定無形民俗文化財、青根の諏訪(すわ)社の大スギは県指定天然記念物である。また、津久井湖畔には尾崎咢堂(がくどう)(尾崎行雄)記念館、峰の薬師東慶寺もある。観光農園の藤野園芸ランド、藤野芸術の家、和竿(わさお)美術館が設けられている。陣馬山(じんば)(855メートル)は奥高尾ハイキングの拠点。ほかに市立博物館、古民家園、相模川自然の村公園などがある。面積328.91平方キロメートル、人口72万5493(2020)。

[浅香幸雄]

『『相模原市史』7冊(1964~1972・相模原市)』


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改訂新版 世界大百科事典 「相模原」の意味・わかりやすい解説

相模原[市] (さがみはら)

神奈川県北部の市。2006年3月旧相模原市が相模湖(さがみこ)町と津久井(つくい)町を,さらに07年3月城山(しろやま)町と藤野(ふじの)町を編入して成立した。10年4月政令指定都市となり,中央,南,緑の3区を置いた。人口71万7544(2010)。

相模原市東部の旧市。1954年市制。人口62万8698(2005)。相模原台地の大部分を占め,南は座間市に接する。上溝(かみみぞ)は八王子街道の旧宿場町で,JR相模線に沿い,相模原の養蚕中心地として1870年(明治3)には市場も開設されるなど長い間中心的地位にあった。1937年東京から座間に陸軍士官学校が移転して以後軍用地化が進み,翌年には北部の横浜線沿いに陸軍工科学校(のち陸軍兵器学校),相模兵器製造所(のち相模陸軍造兵厰)が置かれ,これらを中心に都市計画が行われて,市の中心は上溝からしだいに横浜線相模原駅,淵野辺(ふちのべ)駅付近に移った。第2次世界大戦後,旧軍施設はアメリカ軍に接収され,旧造兵厰はアメリカ陸軍補給厰となったが,一部返還されたものは病院,大学などに利用されている。1958年東に隣接する東京都町田市とともに,首都圏整備法による市街地開発地域に指定され,都市化が促進された。北部には横浜線橋本駅を中心に相模原・田名両工業団地が造成され,中央部には麻溝台(あさみぞだい)工業団地がある。住宅地の開発は南縁を通過する小田急線沿線で促進され,首都圏有数の住宅都市として人口の増加がめざましく,江ノ島線の分岐点である相模大野は新しい商業中心となっている。
執筆者:

相模原市北西部の旧町。旧津久井郡所属。人口1万0347(2005)。北東は東京都と接する。相模川上流の山間にあり,中央を相模川が東流し,これをせき止めた相模湖がある。中心集落の与瀬は相模川の河岸段丘上に位置し,江戸時代に甲州街道の宿場町として発達した。1964年の東京オリンピックで相模湖がカヌー競技会場となったのを契機にピクニックランドなどの観光施設の整備が進み,首都圏の日帰り行楽地となった。JR中央本線が通る。68年には中央自動車道が開通し,相模湖インターチェンジが設けられた。近年,相模川南岸の内郷地区で宅地開発が進み,八王子など中央線沿線や相模原方面への通勤者がふえている。寸沢嵐(すあらし)には石器時代の住居跡があり,国の史跡に指定されている。

相模原市中部の旧町。旧津久井郡所属。人口2万3037(2005)。丹沢山地東縁の丘陵地で,中央を相模川が貫流する。中心集落の川尻は,かつては相模川舟運の終点で,近在の物資集散地としてにぎわった。かつては養蚕を中心とした農村であったが,1970年ころから住宅地化が進み,旧相模原市,八王子市や京浜方面への通勤者がふえている。農業では栗,梅の観光農園や施設園芸が盛ん。旧津久井町との境界には相模川総合開発整備事業の一環としてつくられた城山ダム(津久井湖)があり,その北にある城山湖は城山発電所の上部調整池である。
執筆者:

相模原市南西部の旧町。旧津久井郡所属。人口2万8695(2005)。丹沢山地の北東部に位置し,北境を相模川の支流道志川が流れる。古くから津久井郡の中心地で,城山には戦国末期に甲斐の武田氏に備える後北条氏の支城津久井城が設けられていた。相模川南岸の段丘上にある中心の中野は,古くは川和と呼ばれた市場町で,江戸時代後期から養蚕が盛んになり,末期には八王子と並ぶ機業地となって,川和縞(かわわじま)の産地として知られた。現在は林業,酪農,養鶏が行われる。1965年城山町との境界に相模川をせき止めて城山ダム(津久井湖)が建設された。道志川上流の青根に町営の緑の休暇村があり,夏季にはにぎわっている。

相模原市北西端の旧町。旧津久井郡所属。人口1万0823(2005)。相模川上流の山間部で,中央を相模川上流の桂川,南端を道志川が東流し,東部中央に相模湖をかかえる。町域のほとんどが山林と丘陵で,谷沿いの低地や斜面に小集落が点在する。中心集落の吉野は相模川の河岸段丘上にあり,江戸時代は甲州道中の宿場町であった。かつては養蚕と薪炭が産業の中心であったが,近年は相模湖周辺での観光農業や,北部山間地での茶の栽培が増えている。人口減少が続いていたが,1970年ころから大規模な住宅地の造成とともに増加に転じ,八王子方面への通勤者が増えている。86年〈ふるさと芸術村構想〉が企てられ,芸術・文化の拠点づくりが進められている。八王子市との境にある陣馬山は首都圏近郊でも人気のあるハイキングコースである。JR中央本線,国道20号線,中央自動車道が通じる。
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相模原 (さがみはら)

神奈川県の中央北部にあり,相模川と多摩丘陵に挟まれたほぼ長三角形の洪積台地。相模原台地ともいう。北西端から南端まで約40km,南端部では東西約8km,標高は北部で130~160m,南部で30~40mである。南端部は一段と高い高座(こうざ)・座間(ざま)丘陵に続く。相模原は相模川による河岸段丘で,相模川とほぼ並行し,〈はけ〉と呼ばれる二つの段丘崖によって三分される。最上位は最も広い相模原面で,北東端が標高160mと高く,南へしだいに低くなる。台地面はほぼ平たんで,表面は厚さ15~20mに達するローム層におおわれ,地下水面は北部で30m,南部でも15~20mと深い。相模原面の西縁は相模横山と呼ばれる比高約20mの崖が南北に続き,中位の田名原(たなはら)面を分けている。田名原面では相模横山の崖下の湧水が鳩川,姥(うば)川,道保川となって南流し,小さな谷を刻んでいる。最下位の段丘面は最も狭い陽原(みなはら)面で,この面ではローム層が最も薄く,厚さ2~4mにすぎない。相模川のはんらん原に接する段丘崖は〈火の坂はけ〉と呼ばれる。

 田名原面には南北に厚木・八王子街道が通じ古い集落が見られるが,水利に恵まれない相模原面の開発は遅れ,江戸時代以降であった。明治以降は横浜貿易の発展に伴い,養蚕が盛んとなり桑園化が進んだ。相模原の土地利用が活発化したのは1937年の陸軍士官学校の座間移転に始まる軍用地化以来で,兵器厰,各種学校,病院などの軍施設が相次いで設置された。第2次世界大戦後これらの施設はアメリカ軍に接収され,アメリカ軍の基地として利用された。戦後の食糧難から相模湖からの導水による畑地灌漑事業が実施されたが,その後の経済成長により,灌漑施設は完成をみないまま都市化がすすんだ。北部は工場地に,南部は住宅地に変容し,JR横浜線,相模線のほか私鉄各線が通じ,人口の増加がめざましい。
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百科事典マイペディア 「相模原」の意味・わかりやすい解説

相模原[市]【さがみはら】

神奈川県中北部,相模原台地にある市。西部は関東山地の一部を占め,相模川が貫流する。1954年市制。かつては台地を桑園に利用,養蚕と絹織物の生産が盛んで,第2次大戦前は一時軍事都市でもあった。1960年ころから横浜線,相模線沿いなどに工業団地ができ,電気機器,食品などの工業が盛んで1兆2566億円(2003)の製造品出荷額を上げている。中央本線,横浜線,相模線,小田急電鉄線,京王相模原線,中央自動車道,圏央道が通じ,住宅地化が著しい。周辺部では畑作のほか酪農も盛ん。相模川をせき止めた津久井湖,相模湖があり,首都圏近郊の行楽地。2006年3月津久井郡相模湖町,津久井町を,2007年3月,津久井郡城山町,藤野町を編入。2010年4月,政令指定都市に移行。区,中央区,区を設置。328.66km2。71万7544人(2010)。

相模原【さがみはら】

神奈川県中部,相模川と境川の間にある洪積台地。標高140〜30m。砂礫(されき)層と関東ローム層からなり,地下水面が低いので水利が悪く,開発は遅れ,明治以後の開拓地も多い。畑作が主で,近年灌漑(かんがい)が進んだが,最近は相模原市,厚木市,海老名市などを中心に住宅や工場が急増している。
→関連項目綾瀬[市]神奈川[県]

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世界大百科事典(旧版)内の相模原の言及

【神奈川[県]】より

…その前山である大山は,山頂に阿夫利神社がまつられ,雨乞いの神として多くの農民の信仰を集めてきた。県央部には相模川を挟んで,中流部に相模原中津原の台地,下流部には低地が開け,相模湾岸は砂丘地となっている。相模川は,1887年に完成した日本最初の洋式水道である横浜水道以来,県民の都市用水,工業および農業用水の重要な役割を果たし,水系には相模湖(1947),津久井湖(1965)も造成された。…

※「相模原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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