明治期の農業指導者 秋田県農会会長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
明治の老農,農村指導者。出羽国秋田郡金足村に豪農奈良家の次男として生まれ,のち隣村山田村石川長十郎の養子となる。1872年(明治5)秋田県勧業係に任用され在職10年,この間農事の改良をはかるとともに,勧農義会,種苗交換会などを組織し永続させている。82年山田村救済のため帰村し,更生計画を実践して立直しに成功,広く世に知られることとなった。明治20年代前田正名の指導のもとに推進されていた町村是調査の事業に共鳴し,その事業に協力した。96年2県8郡にわたる適産調に着手し,1902年731冊にのぼる膨大な調査書を完成した。これは町村経済の基礎を固め自治制を確立するための調査事業であり,農村計画の例として著名である。明治30年代には前田の要請により鹿児島,宮崎2県にわたる疎水開田事業に6ヵ月間滞在し指導にあたっている。
執筆者:伝田 功
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(田口勝一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治時代の農業指導者。出羽(でわ)国秋田郡小泉村(秋田市金足小泉)の豪農奈良家に生まれる。のちに近くの山田村の旧家石川家の養子となり(1865)、5年後には没落に瀕(ひん)していた養家を回復して、14町歩(約14ヘクタール)の地主になった。1872年(明治5)秋田県勧農部に奉職して、勧業試験場を設け、77年以降、秋田産米の腐米防止研究を行い、同年、県の招いた奈良県の老農中村直三(1819―82)とともに数百種のイネを試験した。これに先だって、彼はイネ乾燥法として「斜掛稲架(はさ)」を考案した。中村は翌年帰郷したが、石川は研究を続け、1901年(明治34)その記録の一部を『稲種得失弁』として発行した。彼は官と結び付いて農民組織で活躍し、1876年には勧農義会を、80年には歴観農話連をつくり、技術研究を行い、また窮乏村の救済、救荒対策に活躍した。
[福島要一]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…また農会をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった中村直三や奈良専二,勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた林遠里,駒場農学校から農商務省の巡回教師となった船津伝次平,勤倹力行を鼓吹した石川理紀之助などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。しかし老農も,90年代に農科大学や農事試験場などが整備され,近代的な輸入農学が消化されると,しだいに活躍の場も狭くなっていった。…
※「石川理紀之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新