道中央部を流れる一級河川。石狩川水系の本流。流路延長二六八・二キロ(指定区間二五三キロ)、流域面積一万四三三〇平方キロ(うち平地四〇五四・一平方キロ、山地一万二七五・九平方キロ)。大小含めて約一千六〇〇本に及ぶ支流を有する、流路延長・流域面積ともに道内第一位の川である。石狩山地の石狩岳北麓に源を発し、上川支庁上川町の
「津軽一統志」の「石狩地形の事」に「石狩川浜口広さ二百
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北海道西部,日本海斜面を流れる川。全流域面積1万4330km2は北海道の面積の約2割を占め,日本の河川では利根川に次ぎ,幹川流路延長268kmは信濃川,利根川に次ぐ。北海道中央部の石狩岳に発し,石狩山地北西斜面の小河川を合わせたのち,大雪山北麓に層雲峡の渓谷を刻み,上川盆地に至って忠別川などを合わせ,盆地の西側山地を先行谷によって越え,ここに神居古潭(かむいこたん)の峡谷をつくっている。石狩平野に出て雨竜川を合わせ,南流して最大の支流空知川を合わせ,江別付近で夕張川,江別川を合わせ,進路を北西に転じて豊平川を合わせ,石狩町で石狩湾に注ぐ。その名はアイヌ語のイシカリペッ(著しく曲流する川の意)に起源するという説がある。石狩平野における流路は,かつては自由蛇行をし,多数の曲流部をもち,河道変遷も著しく,各所に河跡湖を残している。信濃川と並ぶ365kmの流長をもっていたが,はんらん防止のため1917年以来順次進められた捷水路(しようすいろ)工事によって曲流個所はほとんどなくなり,流路の直線化によって流長は約100km短縮された。月別平均流量では融雪期の3~5月と夏季降雨による8~9月が大きく,とくに3~5月は年間流量の45%を占める。今日融雪洪水は防止されているが,豪雨による洪水では大きな被害を生ずることがある。体系的な治水計画が樹立されたのは1909年で,下流部から順次改修工事が施工され,第2次世界大戦後はダムによる洪水調節が計画され,51年幾春別川の桂沢ダムに始まり,空知川の金山ダム,豊平川の豊平峡ダム,石狩川上流の大雪ダムをはじめ多数の多目的ダムが建設された。水系の水利用では,農業用水が最も多いが,工鉱業用水,上水道用水,発電にも利用されている。
1750-60年代にかけて,中空知など各地に杣夫が入り伐木が行われた。南部大畑の木材商飛驒屋の経営によるもので,いかだで流送された。その後石狩川下流部とその支流にはいくつかの〈場所〉が置かれてサケ漁が行われ,河口の石狩には運上屋が置かれていた。開拓期初め,石狩川の水運は重要な役割を果たし,札幌の都市建設に当たっても当時の本流から市内に入る運河が掘削されている。1869年(明治2)の国郡設置に当たっては,石狩川の集水域に若干の海岸部を加えて石狩国とし,札幌,石狩,厚田,浜益,夕張,空知,樺戸,雨竜,上川の9郡に区分した。今日この集水域には全道人口の半ば以上が居住し,とくに石狩平野と上川盆地には水田地帯が広がり,道内米産量の70%以上を占め,この川およびその支流の周辺に広がる石狩炭田は産業革命期以来のエネルギー供給に大きな貢献をしてきた。
執筆者:岡本 次郎
本庄陸男(むつお)の長編小説。1939年(昭和14)刊。北海道石狩当別の開拓地に生まれた本庄が,“父祖の思い”をこめて描いた開拓歴史小説。戊辰戦争で逆賊の汚名を冠せられ,1万5000石から65石に大削封された伊達藩岩出山支藩の主従は再生を期して北海道に渡る。開拓使を牛耳る薩摩藩は不俱戴天の怨敵だが,開拓主事の元家老を中心に,逆巻く怒りをこらえて難関をしのぐありようが感動を呼ぶ。廃藩置県,移募民扶助令など,抗しがたい時流にのみこまれ,犠牲者,離脱者に耐え忍びつつ新たな定着を意志するありようは,転向文学の激流のさなかで初一念を貫こうとした作者の主体的モティーフを重層させた北海道版《夜明け前》である。
執筆者:小笠原 克
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
北海道中央西部を流れる北海道第一の川。一級河川。名の由来は諸説あるが明らかでない。石狩山地中央の石狩岳(1967メートル)に源を発し、上川(かみかわ)盆地、石狩平野を経て日本海の石狩湾に注ぐ。延長268キロメートル、本支流の流域面積は1万4330平方キロメートルで福島県全域よりやや広い。上流では大雪山麓(たいせつさんろく)の溶結凝灰岩層を切って層雲峡の峡谷をつくり、上川盆地に出て忠別川、美瑛(びえい)川などをあわせ、神居古潭(かむいこたん)の狭隘(きょうあい)部を抜けて石狩平野に出るが、ここまでは一般に流れも速い。石狩平野に入ると、雨竜川や空知(そらち)川の大支流が合流して水量を増し、下流で千歳(ちとせ)川、豊平(とよひら)川などもあわせて石狩市で海に注ぐが、雨竜川合流部から河口まで標高差は30メートルにすぎない。そのため平野部では曲流が著しく、春の融雪期、夏の降水期には氾濫(はんらん)、洪水を繰り返し、農業開発を阻害する泥炭湿地が広がり、原野として残されていた。明治以来治水計画がたてられ、明治末期から河川湾曲部分に直線的な捷水路工事(しょうすいろこうじ)が下流から進められ、都市など要所には堤防がつくられた。経済不況や戦争などで停滞もあったが、1968年(昭和43)砂川付近の捷水路通水、堤防の整備で、本流はいちおう完了した。これらの人工的水路により流路は約100キロメートルも短縮、本流の水害はほとんどなくなった。
石狩川の利用は水運に始まる。北海道開拓初期に大きな役割を果たした樺戸集治監(かばとしゅうちかん)(監獄)が月形(つきがた)に置かれたのは、水運の便があったからで、札幌も開発当初は、石狩川を経由する水運に物資を依存した。サケ漁は河口の石狩市などで盛んであった。明治後半からは、各地に水田造成のための用排水路工事とその維持にあたる土功組合が結成され、石狩川水系からの大規模な灌漑(かんがい)用水路の建設も行われ、上川盆地や石狩平野を今日の主要米作地帯に変貌(へんぼう)させた。第二次世界大戦後は石狩川総合開発により上流ではダム建設に伴い朱鞠内(しゅまりない)湖(1943)、桂沢(かつらざわ)湖、かなやま湖、大雪湖などが生まれた。電力や各種用水の供給のほか観光にも利用され、下流では篠津(しのつ)運河など排水路工事で農地改良が進んだ。開発進展に伴う炭鉱、工場の廃水による水質汚染も近年は改善され、サケ回帰も回復の徴候を示している。上流は大雪山国立公園に含まれ、川沿いには層雲峡温泉など温泉も多く、休養に登山に人を集める。下流では捷水路工事で湖沼化した旧河道を利用して水辺公園がつくられ、釣りやボート遊びなど簡易なレクリエーションの場となっている。
[柏村一郎]
本庄陸男(ほんじょうむつお)の長編歴史小説。1938年(昭和13)9月から翌年2月まで『槐(えんじゅ)』に連載、後半を書き加えたのち、39年5月大観堂刊。明治維新後、没落した伊達(だて)藩岩出山支藩の家老阿賀妻謙は、藩主伊達邦夷に計らい、藩の人々160名とともに北海道開拓というまったく未知の世界へ飛び込んでゆく。石狩の開拓地をめぐる開拓使官吏との交渉、開拓資金や食糧を得るため請け負った困難な建設事業などが、北海道の過酷な自然を背景に格調高い筆致で描き出される。第1部が完成したところで作者は病没した。昭和の代表的な歴史小説であり、明治維新という時代や自らの父祖を扱った点で、島崎藤村(とうそん)の『夜明け前』にも比される。
[遠矢龍之介]
『『石狩川』上下(新日本出版社・新日本文庫)』▽『小笠原克著『「石狩川」の流域』(『昭和文学史論』所収・1970・八木書店)』
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…洪水を制御する治水と,河川水を有効に利用する利水とを総合的に考えて,その流域の人々の生活の向上と産業の振興のために河川の開発を行うこと。治水と利水の技術手段をそれぞれ別々に施すと,互いに障害を起こすことになりがちである。例えば,川を有効に利用するために,取水ぜきや発電ダムを築くと,水の流れにとってはじゃまになり治水上支障をきたすなど,その代表的な例である。ダム技術が進歩し大ダムができるようになるにつれ,治水ダムと利水ダムへの要求が相反するため,河川総合開発の重要性が認識されるようになった。…
※「石狩川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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