精選版 日本国語大辞典 「石築地」の意味・読み・例文・類語
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
1274年(文永11)の元軍襲来(文永の役)ののち,再来襲にそなえて鎌倉幕府が博多湾沿岸に築いた防塁。築造は九州の各国ごとに分担され,守護が管国御家人を指揮して,76年(建治2)頃から開始された。のちの修理も各国の分担制とされ,鎌倉幕府滅亡後も続けられて室町初期に及んだが,14世紀中葉以降は放棄され埋没。1913年(大正2)から発掘・整備が進められ,現在は国史跡として残る。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…74年10月19日モンゴル軍は今津に上陸し,博多に迫った。76年(建治2)3月から再度のモンゴル襲来に備えるため博多湾沿岸の今津から香椎までの約20kmにわたって石築地(いしついじ)を構築したが,今津地区約3kmは大隅・日向両国の御家人が分担して構築された。1968年今津地区石築地の発掘調査が行われ,その一部遺構の保存工事が施された。…
…御家人は京都大番役や異国警固番役などの御家人役を守護の統率下に務めねばならなかったから領家側はその二重関係を喜ばず,紛争の原因となった。1276年(建治2)の石築地(いしついじ)役配符には割当てをうける領主名とその御家人・非御家人別が記されているが,はじめ宮方御家人であった蒲生氏や吉田氏ら神官系郡司は多く非御家人に転化している。また島津氏に代わって地頭となった北条(名越)氏は肥後氏ら代官を通じて現地の支配を強化しようとしたので,肝付氏ら在地の豪族らと激しい紛争を生んだ。…
…13世紀後半に2度にわたるモンゴル襲来があり,博多は戦場となった。文永の役(1274)後,再度のモンゴル襲来に備えて石築地(いしついじ)が博多湾沿岸に築造され,その景観から,博多は石城と呼ばれるようになった。また同時に,九州の御家人が博多湾岸を警備する異国警固番役が開始され,さらに永仁年間(1293‐99)鎌倉幕府の出先機関鎮西探題がここに設置されると,博多は政治都市としての性格を強く持つようになった。…
…幕府は再度のモンゴル襲来に備え,3ヵ月交替で異国警固に当たることを定めたが,肥前国は豊前国とともに4,5,6月の夏の期間であった。さらに76年(建治2)各国の分担地を定めて,博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の構築を命じているが,肥前国の分担は筑前国姪浜(めいのはま)で,その石築地役,警固役の分担地域は現在の福岡市西区姪浜町から室見川川口の間と推定されている。現存する肥前国御家人の覆勘状によれば,勤仕期間は1ヵ月あるいは半月であった。…
…同年2月すでに異国警固番役(いこくけいごばんやく)の制度が整備され,1年のうち3ヵ月ずつを九州の各国が分担して博多を守ることになった。翌76年3月ごろから博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の築造が開始された。その負担は地域別に九州の領主たちに課され,8月ごろに完成した。…
※「石築地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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