石見銀山(読み)イワミギンザン

デジタル大辞泉 「石見銀山」の意味・読み・例文・類語

いわみ‐ぎんざん〔いはみ‐〕【石見銀山】

島根県大田おおだ市大森にあった銀山。戦国時代に開発され、江戸時代には幕府の直轄領となる。明治以降は銅も産出。大正12年(1923)に閉山。平成19年(2007)「石見銀山遺跡とその文化的景観」の名で世界遺産文化遺産)に登録された。大森銀山
石見銀山から副産物として出る砒石ひせきで作った殺鼠さっそ剤。

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精選版 日本国語大辞典 「石見銀山」の意味・読み・例文・類語

いわみ‐ぎんざんいはみ‥【石見銀山】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 石見国(島根県)邇摩(にま)郡の銀山をはじめ、石見国の銀山の総称。鎌倉後期発見。豊臣秀吉直轄地とし、江戸幕府も大森に銀山奉行を置いて直轄地とした。大森銀山。
  3. いわみぎんざんねずみとりぐすり(石見銀山鼠取薬)」の略。
    1. [初出の実例]「『いわみぎん山のむみゃういだ』『そりゃアねづみとり薬じゃアありいせぬかへ』」(出典:洒落本・契情買虎之巻(1778)四)

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改訂新版 世界大百科事典 「石見銀山」の意味・わかりやすい解説

石見銀山 (いわみぎんざん)

戦国時代からの代表的銀山。島根県大田市大森町に所在し,現在は大森鉱山と呼ばれている。16世紀前半期に仙ノ山付近に銀坑を開発。1533年(天文2)博多商人神谷寿禎が吹工を伴ってきて銀の製錬に成功した。産銀増加とともに,大内・尼子・毛利氏の間に銀山争奪戦が反復され,銀山に山吹城があり,南西方の降路坂の南に矢滝城があり銀山の押えに当たった。62年(永禄5)毛利氏が銀山を確保し,やがてこれを室町幕府と朝廷に料所として献じ銀を貢納した。83年(天正11)毛利氏は豊臣秀吉に帰服し,秀吉は銀山へ目付を下向させ運上を徴収した。関ヶ原の戦後に銀山と銀山領の石見国の一半は天領となり,1601年(慶長6)大久保長安が奉行に任じ,邇摩郡佐摩村に大森の陣屋が開かれた。

 16世紀中ごろ中国船,ポルトガル船の来航により,九州沿岸を取引地とする外国貿易が盛大となるが,輸出の中心となったのは銀であり,当時他の大銀山の開発はまだ見られず,石見銀が主としてこれに充当された。16世紀後半には1ヵ年の産銀は2t内外にも達したと思われるが,長安が奉行となったころより産銀が激増し,山師安原知種が稼行した本谷の釜屋間歩(まぶ)からの運上銀が1ヵ年に13.5tに及んだという。銀山の表入口の蔵泉寺口を入ると銀山町があり,西端の坂根口までつづいた。東西の長さ3.8km,この間の谷々も町を成したという。谷々とは昆布山,栃畑,大谷,休谷,清水,本谷,石銀のいわゆる七谷をいい,仙ノ山の採掘に始まり,石銀・昆布山の諸坑,つづいて栃畑の坑が開かれた。長安が奉行となったころは,七谷はもとより銀山地区外といわれた柑子谷の疎水坑も掘られている。しかし,17世紀中期から産銀はしだいに減った。

 また18世紀より銅も産出し,南蛮吹によって抜銀した荒銅を大坂へ送り,1830-43年(天保1-14)の合計高は12万1668kgである。1533年の銀製錬はおそらく朝鮮から伝えられた中国の新法で,銀鉱に鉛もしくは鉛鉱を合わせて荒吹し含銀鉛を採り,灰吹床で灰吹銀を抽出するもので,近世を通じ日本で広く行われた法であり,石見銀山は近世金銀山開発の先駆的地位を占めた。1872年(明治5)地震で打撃をうけ廃滅にひんしたが,翌年旧松江藩家老安達総右衛門が再建に着手,資金難のため失敗,87年大阪の藤田組の経営に帰した。1919年ころ340t余の産銅をみたが,大きな発展はなく23年休山した。69年に山吹城址,釜屋間歩等の7ヵ所の間歩跡などが国指定の史跡となった。2007年〈石見銀山遺跡とその文化的景観〉として世界文化遺産に登録された。
執筆者:

中新世の石英安山岩類,火砕岩などの地層中にあり,鉱染濃集した不規則連鎖状の多数の鉱巣から成る福石(本谷)鉱床と佐藤𨫤(づる)等数条の鉱脈から成る永久鉱床とがある。自然銀,方鉛鉱,黄銅鉱黄鉄鉱等の鉱物を含むが,0.02~0.05%の銀を含み,とくに地表近くで高い銀品位を示す。なお,同じ大田市内で現在も操業中の石見鉱山は,別の鉱山である。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石見銀山」の意味・わかりやすい解説

石見銀山
いわみぎんざん

戦国期から江戸中期にかけての代表的銀山。石見国邇摩(にま)郡大森(島根県大田(おおだ)市大森町)にあり、近世の金銀山開発の先駆をなした。14世紀初めに発見されたと伝えられるが、16世紀前半から本格化し、1533年(天文2)神谷寿禎(かみやじゅてい)が博多(はかた)から吹大工(ふきだいく)(製錬工)を伴い、銀の製錬に成功した。以後、大内(おおうち)、小笠原(おがさわら)、尼子(あまご)、毛利(もうり)氏らの銀山争奪戦が反復されたが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後は徳川氏が支配し、代官頭(だいかんがしら)大久保石見守長安(いわみのかみながやす)の奉行(ぶぎょう)時代に盛況となり、代官陣屋の設置と銀山町が形成された。16世紀後半には1か年で数百貫以上の産出があり、長安の時代には山師安原因繁(やすはらよりしげ)の本谷の釜屋間歩(かまやまぶ)は、1602、1603年ころには1か年の運上銀3600貫にも達した。しかし寛永(かんえい)年間(1624~1644)以降はしだいに衰退し、享保(きょうほう)期(1716~1736)以降には年間100貫前後となり、1837年(天保8)から1857年(安政4)灰吹銀(はいふきぎん)高は平均42貫余と激減した。江戸期の銀山の管轄は大森代官所で、18世紀以降は銅も産して、銀銅が尾道(おのみち)を経由して大坂へ送られた。明治以降にも稼行し、1887年(明治20)大阪の藤田組の所有となり、一時は銅、金、銀1か月3130貫を産出したが、1923年(大正12)に休山となった。

[村上 直]

世界遺産の登録

銀鉱山跡とその鉱山町、銀の積み出し港とそれらをつなぐ街道などが2007年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「石見銀山遺跡とその文化的景観」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部]

『山根俊久著『石見銀山に関する研究』(1974・臨川書店)』『小葉田淳著『日本鉱山史の研究』(1968・岩波書店)』


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百科事典マイペディア 「石見銀山」の意味・わかりやすい解説

石見銀山【いわみぎんざん】

島根県大田市の銀山。大森銀山とも。14世紀に発見されたという。16世紀以後博多商人らによる灰吹法が導入されてから生産が増大し,大内・尼子・毛利3氏が激しく争奪。当時日本から海外に出された銀の大部分が当山の産出とされる。豊臣秀吉の運上徴収を経て,のち江戸幕府直轄。江戸初期,1ヵ年の運上銀は3600貫,1640年ころ,最盛期人口10万人という。18世紀には衰えた。江戸時代,ヒ素系殺鼠剤は同銀山産のヒ石から製したと称され,〈石見銀山〉は殺鼠剤の異称となったが,ヒ石産地には異説がある。1872年の地震で大きな打撃をうけたが,再建。1887年には藤田組の経営となるが,1923年閉山。2007年に石見銀山遺跡とその文化的景観が世界遺産条約の文化遺産リストに登録された〈銀山柵内,代官所跡,矢滝城跡,石見城跡,大森・銀山,宮ノ前,熊谷家住宅,羅漢寺五百羅漢,鞆ヶ浦道,温泉津・沖泊道,鞆ヶ浦,沖泊,温泉津〉。当初,登録延期の勧告を受けていたが,文化庁と島根県,大田市が協力して反論書を提出,委員国への働きかけにより登録が実現した。国内では14件目の世界遺産で,産業遺産としてはアジア初となる。
→関連項目石見国院内銀山大久保長安大田[市]神屋宗湛島根[県]温泉津[町]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石見銀山」の意味・わかりやすい解説

石見銀山
いわみぎんざん

江戸時代に生野銀山と並ぶ地位を占めた銀山。現在の島根県大田市に繁栄の面影と当時の景観が残る。 14世紀に発見されたといわれ,天文2 (1533) 年博多の商人神谷寿貞らが銀製錬に成功してから産出額が増加した。そのため付近に割拠する大内氏尼子氏毛利氏らの戦国諸大名が銀山の争奪を繰り返した。豊臣秀吉の直轄を経て,江戸時代には幕府が代官を置いて直轄領として支配した。慶長6 (1601) 年大久保長安が奉行となってからは生産が激増,人口が集中し,繁栄した。しかし,17世紀後半になるとしだいに衰微し,1887年に藤田組が経営に着手したが大正末期に廃山となった。なお,同銀山の銀鉱副産品のヒ石を使った亜ヒ酸剤の殺鼠薬も有名。 2007年「石見銀山遺跡とその文化的景観」として国際連合教育科学文化機関 UNESCO世界遺産 (文化遺産) に登録。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「石見銀山」の解説

石見銀山
いわみぎんざん

石見国邇摩(にま)郡大森にあった銀山。現在の島根県大田市大森町。室町時代から採掘が行われたというが,1533年(天文2)神谷(屋)寿禎が博多から吹工を連れてきて本格的な銀山開発にのりだした。尼子・大内・小笠原諸氏が争奪戦をくり返し,62年(永禄5)毛利氏が押さえた。その後,豊臣秀吉は銀山に目付を派遣して直轄領とした。江戸幕府も銀山周辺の4郡146カ村を直轄化し石見銀山領とした。1601年(慶長6)大久保長安を代官とし,大森に代官所をおいた。以後産出量は飛躍的にのび,年間3600貫に達し最盛期となるが,寛永年間には衰微しはじめ,江戸中期には年間産出量が100貫程度となった。18世紀以降は銅も産出。1923年(大正12)休山。国史跡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「石見銀山」の解説

石見銀山
いわみぎんざん

島根県大田市にあった銀山
室町初期,14世紀初めに発見され,1533(天文2)年博多の貿易商神谷寿禎 (じゆてい) によって開発が進み,産額も増加した。戦国時代には大内・小笠原・尼子・毛利らの諸大名の間で争奪され,毛利氏の所領となったが,豊臣秀吉はこれを直轄し,江戸幕府も直轄領とし銀山奉行をおいて経営した。慶長〜寛永(1596〜1644)ごろ最盛期。以後衰え,休山。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「石見銀山」の解説

いわみぎんざん【石見銀山】

島根の日本酒。酒名は、地元の世界遺産「石見銀山」にちなみ命名。大吟醸酒、純米吟醸酒、純米酒、本醸造酒をラインナップ。大吟醸酒は全国新酒鑑評会で通算6回、金賞を受賞した銘酒。原料米は佐香錦、改良八反流、山田錦など。仕込み水は三瓶川の伏流水。蔵元の「一宮酒造」は明治29年(1896)創業。所在地は大田市大田町大田。

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世界大百科事典(旧版)内の石見銀山の言及

【石見国】より

…戦国期の1521年(大永1)以後,石見国はたびたび雲州尼子氏の攻撃を受け,東部はその勢力下におかれたが,56年(弘治2)以後は芸州毛利氏の領国となり,70年(元亀1)毛利氏による石見平定が成った。この間,1526年石見銀山が大内氏によって開発され,以後慶長までの間に9回も領有権者が交替するなど,石見国における激しい戦乱の一源泉となった。毛利氏による石見国検地は90年(天正18)に実施され,ここに石見国中世は終りをつげた。…

【神屋宗湛】より

…神屋家は室町中期より代々博多の主だった豪商で,2代目主計は1539年(天文8)に遣明船の総船頭をつとめるなど,一族とともにたびたび遣明船貿易に従事した。また貿易の関係で従来から神屋家は出雲の鷺銅山の銅を求めていたが,3代目寿貞によって鉛を媒剤とする銀の製錬技術を輸入し,1533年他の博多の吹工の協力を得て石見銀山の経営に成功した(《銀山旧記》)。宗湛の父は神屋家5代目紹策で,戦乱のため一時唐津に移っていたが,朝鮮貿易や上方への商売などによって巨富を得た。…

【鉱山集落】より

…しかし,鉱業の衰退は鉱山町の衰退と結びついていた。石見銀山では,すでに1702年(元禄15)の鉱山町人口が銀山(山小屋)の1621,大森(下町)の686,合計2307を数えるにすぎなくなっていた。【佐々木 潤之介】。…

【ソーマ銀】より

…この銀は灰吹銀,無判錠銀である。ソーマの語源は〈佐摩〉で,石見銀山地方の呼称である佐摩郷から出たものといわれる。この銀はいわば地銀で,江戸幕府は1601年(慶長6)銀座を設立し,地銀を集めて貨幣としての丁銀や豆板銀(含銀率80%)を発行し,輸出銀もこれに切り替えるようにつとめた。…

【博多商人】より

…日明貿易においては,足利義満に明への通交を勧め,みずからも初回の遣明副使となった肥富(こいつみ)は博多商人とされているし,大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用したといわれている。また朝鮮貿易においても,1419年(応永26)の応永の外寇の直後,真相究明のため室町幕府から副使として朝鮮に派遣された平方吉久,日朝・日明貿易に活躍し〈富商石城府代官〉と称された宗金とその一族,博多を本拠として朝鮮と琉球の間で活躍した道安など,多数の博多商人が活躍した。…

※「石見銀山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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